メタ教養 第15回

シミュラークルとアート

永田 希(ながた・のぞみ)

メロディとレコード:時間体験と記録

音楽を聴くとき、わたしたちは通常、今聞こえている音を直前の音と関連づけて認識しています。もし瞬間ごとの音だけを認識するなら、メロディを捉えることはできないでしょう。

現象学者のエドムント・フッサールは、この瞬間的に過ぎ去る直前の時間認識を「過去把持」と呼びました。これは、前日の記憶を思い出す「想起」とは区別されます。

2020年に亡くなったフランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、フッサールの過去把持概念を拡張し、以下の三つの分類を提示しました。

第一次過去把持:フッサールが定義した、瞬間ごとの直前の過去の認識。

第二次過去把持:フッサールが「想起」と呼んだ、一般的な意味での記憶。

第三次過去把持:フッサールが想定していなかった、技術やメディアによる「記録」。

この分類により、スティグレールは過去把持の概念を現代の技術社会に適用可能なものへと発展させました。

スティグレールが「第三次過去把持」と呼んだものは、レコードに代表されます。これは、フッサールが過去把持の概念を説明する際にメロディという音楽的なものを参照したことに由来します。「いま聴いているメロディ」の瞬間ごとの一瞬だけ過去の音の記憶が、フッサールが過去把持と呼んだもので、これはスティグレールが第一次過去把持と呼ぶものです。フッサールは過去把持に対して、より過去の音楽体験(たとえば前日に聴いたオーケストラ)を挙げます。これをスティグレールは第二次過去把持と呼んだのでした。スティグレールはここに第三次過去把持として、レコードのような技術的な要素を持ち込むのです。これは、哲学のある種のサイボーグ化だと言えるでしょう。わたしたち人間がそれを聴いているかいないかは別として、レコードは何かを記録し、蓄積されることで独特の「過去」、独特の「歴史」を作っているのです。

テクノロジーと過去把持の問題

2007年に亡くなった哲学者のジャン・ボードリヤールは、スティグレールの第三次過去把持を先取りしていたと言えます。ボードリヤールは、直感的に理解しやすいオリジナルとコピーの対比を相対化します。たとえば、ある日時に開催されたコンサートであれば、それを聴いたことのある人にとってその体験は、その日その時間、そこにいた人の感覚ではフッサール的には過去把持、スティグレール的には第一次過去把持と深く結びついています。そのコンサート体験が過去のものになってからは、その体験を思い出すのはフッサール的には「想起」、スティグレール的には第二次過去把持と呼ばれます。そしてその日のコンサートが録音されていれば、そのレコードや音源は第三次過去把持と呼ばれます。直感的には、第一次過去把持のような体験が「オリジナル」であり、第三次過去把持つまりレコードのようなものは「コピー」とされます。しかし、テクノロジーの進歩した現在、コピーは単なるコピーではありません。録音されたものにはさまざまな加工が可能です。いわゆる編集です。そして、この加工編集が当たり前になった世界では、コピーからオリジナルへと遡って想起するしかありません。往々にしてこの想起が誤ることはわざわざ説明する必要もないでしょう。ボードリヤールは、そのようなあやふやなオリジナルを実在のものとして神聖視するオリジナル信仰を捨て、この世界は「オリジナルなきコピー」に満ちていると喝破します。

ボードリヤールは、「オリジナルなきコピー」のことをシミュラークルと呼びました。コピー機に何かの書類を置いてコピー機を動かせば、最初に置いた書類がオリジナル、そして機械が印刷したものがコピーになります。このコピーをまたコピー機に置けば、新しいコピーを作ることができます。これはコピーのコピーです。この状態ならまだ最初の書類がオリジナルです。このコピーをもとに、その内容を編集した場合は、このコピーはもとの書類とは別のオリジナルになります。このようなコピーと編集を繰り返すことで、究極のオリジナルが何かわからなくなります。書類とコピー機の例だとまだ「最初のオリジナル」を辿りやすく思われるかもしれません。それでは、パソコンやスマートフォンの画面内で書いた文章のコピーアンドペーストはどうでしょうか。現代のデジタル環境は、ボードリヤールが最後に生きた2000年代よりさらにシミュラークル化が進んでいると言えます。

音楽や文書一般について考えるとき、問題はそれほど深刻ではないように思われるかもしれません。しかしこれが歴史的な事件や政治家の発言だったらどうでしょうか。これはフェイクニュースの問題でもあるのです。

テクノロジーとアート

1929年生まれのボードリヤールよりも1年はやくアメリカに生まれたのが20世紀を代表するアーティストの1人であるアンディ・ウォーホルです。ウォーホルは、アートというオリジナリティ(オリジナル性)が重視される領域で、その欠如をアイロニカルに示すことで人気を得ました。ウォーホルの作品はアートでありながら、従来のアートに求められがちだった職人芸的技巧性を欠いているように見えます(ウォーホルの作品に、見かけに反して技巧性があるという指摘もなくはないのですが、ここでは深入りしません)。

それまでの多くのアート、たとえば『真珠の耳飾りの少女』などで知られるヨハネス・フェルメールは、その絵画を描く卓越した技法によって歴史に名前を残しています。これに対して、ウォーホルはたとえばシルクスクリーンを使って、当時の有名人であるマリリン・モンローの写真を繰り返しうつしとった『マリリン』という作品群を作りました。写真もシルクスクリーンも、先ほどの例で言えばコピー機にあたるものです。

ウォーホルはポップアートと呼ばれる潮流の代名詞的存在です。ポップアートはネオダダから派生したと考えられています。ネオダダは「新しいダダ」という意味です。ダダイズムは、ウォーホルが生まれる20年近く前の1910年にヨーロッパで勃興した運動です。その一員であったマルセル・デュシャンは、故郷であるフランスを離れてアメリカに渡り、1917年に有名な『泉(噴水)』を発表します。正確に言えば、ある展覧会に出品しようとして不許可となりました。デュシャンはR.Muttという偽名でサインをした男性用小便器をほぼ「そのまま」出品しようとしたのです。これは、レディメイド(既製品)というデュシャンなりの芸術観をもっともセンセーショナルなかたちで示した例だと言えるでしょう。デュシャンによれば、オリジナルな絵画を作品として制作している画家たちは、絵の具やキャンバスなどの既製品を購入してきて組み合わせているに過ぎません。それであれば、同じ既製品である便器を作品として悪いわけがない、ということです。ここで、デュシャンの言う既製品と、ボードリヤールの言うシミュラークルはほぼ同じものです。デュシャンの主張は「いかにも現代アーティスト」的な皮肉と、ツッコミ待ちのボケのようなユーモアがあり、そのまま字義通りに受け取ることはできません。それでも現に『泉』は20世紀芸術史に燦然と輝く名作となったのです。

アウラとイノベーション

デュシャンよりも5歳年少の批評家ワルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』で、20世紀初頭にはまだ新しかった映画という芸術ジャンルについて論じました。ベンヤミンは、ある芸術作品に向き合ったり、豊かな自然に触れたりするとき、「アウラ」なるものを人が感じる、と主張します。ベンヤミンによれば、このアウラは、複製されたものには宿りません。ここでベンヤミンが言っているアウラとは、オリジナルな作品やオリジナルな体験と不可分のものです。単なる模造品、たとえば機械的で産業的な製品、つまりコピーやシミュラークルにはアウラは宿らない、とベンヤミンは言うのです。

ベンヤミンが批評家として優れているのは、アウラという概念を押し出し、その喪失を語ることによって読者や後続の批評家に共感をわきたたせたところにあります。しかし、アウラが重要だとすれば、たとえばシミュラークルの最たる例である「文字」が構成する詩歌や物語のようなものが読者に感動を与えるような場合が説明できなくなってしまいます。シミュラークルから得られる感動を説明できないのであれば、そこに喪失されている筈のアウラにどのような意味があるのでしょうか。また、シミュラークルにもアウラがあるのだとして、その喪失もないのだとすれば、アウラやその喪失をあえて議論することにどんな意味があるのかがわかりにくくなってしまうのです。

直感的にわたしたちが芸術作品や自然の景色に触れた時に感じる「アウラ」のようなものがあることは否定しづらいのですが、しかし立ち止まって考えてみるとその「アウラ」が何なのかを見失わずにいるのは難しい。ベンヤミンはこの困難な概念を敢えて論じたところに偉大さがあります。

人類はこれまで、言葉を発明し、文字を発明し、それらを書き留める紙や筆記具を生み出し発展させてきました。また、絵筆と画材によって絵画を、楽器と楽譜によって音楽を、そのほかの芸術ジャンルでもさまざまなイノベーションを重ねてきました。ウォーホルが『マリリン』でシルクスクリーンとともに利用した写真という技術は、その原型となるものをフェルメールも利用していましたし、近代的な写真技術は印象派を生み出しました。ダダイズムは印象派のアカデミズム批判を引き継ぎ、そこからデュシャンの『泉』も生まれたのです。そして、これらの「技術」つまりテクノロジーは、スティグレールの言う第三次過去把持を担うものです。

シミュラークルの人類史

人類の情報伝達の歴史は文明そのものの誕生と同時にはじまると言っても言い過ぎではありません。紀元前3000年代の古代メソポタミアの楔形文字や古代エジプトのヒエログリフから、漢字のもとになった古代中国の甲骨文字、フェニキア人のアルファベットなど、文字の起源はとても古いものです。

実は写真の原理発見の起源もとても古く、古代ギリシャでは既にカメラオブスクラと呼ばれるようになる技術が記録されています。

情報の大量複製を可能にした印刷技術は、情報産業の重要な基盤となりました。11世紀の中国で発明された活版印刷技術は、15世紀にヨハネス・グーテンベルクによってヨーロッパで改良され、ヨーロッパ文明における知識の普及と発展に大きく貢献しました。中国で使われていた文字は漢字だったため、大量の型を作る必要があり、活版印刷は中国とその影響下にある地域ではあまり発展しなかったのです。これと似たような現象は、現代のプログラミング用の言語が英語圏中心になっていることにも起きています。

19世紀には電気を利用した通信技術が登場し、電信機や電話、無線通信が実用化されました。モールスが開発した電信技術は戦争や金融、商業の高速化と緊密化の端緒になりました。同じ頃、写真の技術も急速に発達します。ダゲレオタイプ法やカロタイプ法が発明され、それまでは手で描く必要があったビジュアルな情報を機械的に記録することが可能になったのです。視覚的な第三次過去把持が爆発的に進展した、とも言えます。

20世紀に入ると、コンピューターの発展がはじまり、それを追いかけるように携帯電話とスマートフォンの開発と普及が進みます。

1969年にARPANETが構築され、これが現代のインターネットの原型となります。1989年にはティム・バーナーズ=リーがWorld Wide Webを考案し、情報共有の新時代が幕を開けました。

1973年に世界初の携帯電話が開発され、2007年にはiPhoneが登場し、スマートフォン市場に革命をもたらしました。

20世紀後半にはデジタルカメラが登場し、現在ではスマートフォンのカメラ機能が高度化しています。

19世紀末から産業化をはじめた映画(動画)も、近年ではCGI技術やストリーミングサービスの台頭により、いまだ大きな変革期のなかにあります。

21世紀には、人工知能が急速な進化を遂げ、特にディープラーニングの登場により、画像認識や自然言語処理などの分野で大きく発展しています。文書のみならず、画像、音声、動画が自動で生成されるようになり、さらには機械を動かすプログラムも生成されるようになりました。ボードリヤールが指摘したシミュラークルの時代は、ボードリヤールの死後もなお、加速しつつ発展しているのです。

シミュラークルのアウラ

前節でみたとおり、シミュラークルの歴史は人類史とともに古いものです。しかし、ここ数百年の発展がとても急速なこともみてとれると思います。人類は自分が生み出し、利用しているつもりのシミュラークルとその発達に翻弄されてもいるのです。ベンヤミンの「アウラ」とその喪失という指摘は、この混乱と焦燥のあらわれと言えるでしょう。デュシャン以降、現代アートが「よくわからない」と言われるのも、直感的なオリジナリティと、シミュラークルにあふれる日常環境の齟齬にあるのかもしれません。

現代アートには、文字だけのアートというジャンルがあります。それは、印刷されることを前提にした文学や、文字を視覚的に鑑賞することを前提にした書道やカリグラフィーとは別のものです。

デュシャン以降のアートは、モノとしての作品そのものに留まらない、その背景を強く意識する傾向を持ち始めます。モノとしての作品と、そのコンセプトをある意味で切り離す考え方です。モノとしての作品は、デュシャンのいうとおりであれば、レディメイドの組み合わせでしかなく、なぜ作品を作ったのか、というコンセプトこそが重要と考えられたからです。コンセプトこそが重要なのであれば、いわゆる作品そのものを制作せずに、そのコンセプトだけを文字で示せば良い。文字だけのアートは、このようにして生まれます。

忘れてはならないのは、このような傾向は、上述のようなメディア環境の変化なしにはあり得なかったということです。芸術作品は新聞や雑誌で論評され、鑑賞者の多くはそれらのメディアでの評価を前提に作品を鑑賞します。広告デザイナー出身のウォーホルは、メディア環境とアートとの関わりを代表するきわめて象徴的な人物でもあるのです。

過去把持とメモリー

ところで、コンピューターは、ランダムアクセスメモリーとリードオンリーメモリーという2種類のメモリー構造を持っています。

ランダムアクセスメモリー(RAM)は揮発性メモリーとも呼ばれます。これはコンピューターの電源が切られるとリセットされて消えてしまうメモリーです。これに対して、リードオンリーメモリーは、不揮発性メモリーと呼ばれ、電源を落としても消えません。

これは、アートのリアルタイムのシーンと、古典や名作としての記録とに対比できます。アートにとっての第一次過去把持、第三次過去把持、と言い換えてもいいでしょう。中期的な評判を第二次過去把持と捉え、作品の鑑賞体験を第一次過去把持と呼んだ方が正確かもしれません。ともあれ、デュシャンはこの第三次過去把持的な側面を強く意識していたと思われます。現に、デュシャンの有名な作品は行方不明だったり、モノとしては破損してしまってレプリカを製作されて展示されたりしているからです。

情報産業が発達した現代、わたしたちは濁流のような情報の氾濫に晒されています。かつてはいまよりも強固だった不揮発性メモリー、第三次過去把持の正典性は、絶え間なく流動的に変動する揮発性メモリーつまり第一次過去把持と第二次過去把持の大量発生により、脅かされつつあるのです。

グロイスの「ケアの哲学」

ロシア出身の美術批評家ボリス・グロイスは著書『ケアの哲学』において、直感的な身体のほかに、インターネット時代の象徴的な身体があらわれてきており、齟齬を抱えながら重なり合っている様子を指摘しました。

グロイスは、公的な機関が市民の面倒をみることを「ケア」と呼びます。これは、ミシェル・フーコーやジョルジョ・アガンベンの言う生権力という概念と対応します。公的なケアに対して、自助的なものとしてグロイスが提示するのが「セルフケア」です。グロイスが、ケアとセルフケアにさらに対比しつつ提示するのが、主にインターネットとりわけSNSで展開される自己イメージの「セルフデザイン」です。

「ケア」という言葉の持つ優しいニュアンスに対して、グロイスの論じるケアをめぐる議論は、グロテスクなまでに冷徹です。市役所や入国管理局で行われる、書類上の闘争はケアを求めてのものですし、セルフケアに失敗すればすぐにセルフネグレクトの状態に陥ります。いわゆる身体から乖離している象徴的身体をめぐる、相対的に重要ではなさそうなセルフデザインも、実は承認欲求や自己肯定感に関わります。つまり、身体的な健康(ケア)、生活の安定(セルフケア)を獲得してもなお、社会的な自己像で満足を得られなければ人が幸せになれないことをグロイスは論じているのです。

ケア・セルフケア・セルフデザインの三極は、公的なもの・個人的なもの・共同体的なものという三極に対応します。これらにはそれぞれ、各個人が公的機関や自分自身、そしてオンラインのフォロワーたちとのあいだに構築する関係性が介在します。そしてこの介在は、公的機関とならば公的な書類や電子的な申請、自分自身となら生活空間を埋め尽くす消費財、フォロワーたちとのあいだならインターネットや各種アプリやデバイスという、シミュラークル的、第三次過去把持的なものに担われています。

フッサールからウォーホルにいたる哲学者やアーティストは、時間体験やシミュラークルの問題に取り組んできました。哲学やアートは、現実から乖離したものだと考えられることが多いのですが、このように誰も無関係ではない生々しい課題に肉薄するものでもあるのです。

(次回へ続く)

 第14回
メタ教養

いま「教養」の分断が生まれている。教養はそれを習得する自己目的な楽しさを持つという「古典的教養論」。グローバルに活躍するエリートビジネスマンには教養が役に立つという「教養有効論」。 この二つは対極のものとして見なされているが、どちらも「教養人」・「グローバルエリートのビジネスマン」といった限られた人々にしか向けられていない。教養人でもグローバルエリートのビジネスマンでもない人が、教養を身につけるにはどうしたらいいのか。それは、教養についての自分なりの解釈を持つこと――すなわち「メタ教養」を身に着けることである。 『積読こそが完全な読書術である』『再読だけが創造的な読書術である』『書物と貨幣の五千年史』などの著作で、本と人間と知の関係性について探求してきた著者が、新しい教養のあり方を構想する。

プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)
著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)、『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。
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