『テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?』(集英社新書)の著者である哲学者・李舜志が、思想家で武道家である内田樹の道場「凱風館」を訪問。
武道に伝統芸能の稽古、そして学術セミナー等、多様な活動を行なっている凱風館を、内田氏は公共の学びの場「コモン」と呼んでいる。
そして内田氏の著書『ためらいの倫理学』に強い影響を受けた李氏。これからの日本でデジタル民主主義を実装するためにも、人々が「ためらい」を取り戻す必要があると考えている。ためらいとは何か。
巨大プラットフォームによるテクノ専制を批判し、コモンへの道を模索する李氏が、日本人が失った知的態度である「ためらい」について内田氏に聞いた。全3回の第2回。
構成=高山リョウ

1 SNSで「フェミ化」するフェミニズム
内田 僕が若い頃、李さんぐらいの時って、反ユダヤ主義の研究をやっていて、イスラエル文化研究会という学会に所属していたんですけれども、その時にアマチュアのユダヤ専門家というのが結構いることを知りました。ふつうのサラリーマンが「世界を支配するユダヤの陰謀」について研究をして、必死になって自費出版で本を出していたりするんです。本人は救国の情熱に駆られて書いているつもりなんでしょうけれど、この人たちの書き物は全く読むに値しないんです。それは前回申し上げたような「自分の仮説を検証して、反証事例があれば、書き換える」という努力を一切しないからなんです。対話の場に自説を差し出して、オープンな議論に差し出す気がない。彼らは「真実」を語っているわけですから対話の必要を感じない。ただ、「教化・啓蒙」しているだけなんです。
李 今のお話を聞いて思い出したんですけど、たしかにネットとかを見ていると、韓国のことを嫌いな人ってめっちゃ韓国のことに詳しいんです。僕も知らなかった、「へえそうなんだ」ということまで調べ上げていて。
内田 そうですね(笑)。「韓国の悪い所」というタグをつけて情報をかき集めて、それで膨大なデータベースを作ってゆく。「こんな事例もある、こんな事例もある、どうだ、韓国って悪い国だろう?」と。結論がもう決まっていて、その説に合致する事例だけを蒐集している。こういう人は当該の論件についてどれほど膨大な知識を持っていても、自説を書き換えるための可能性のドアが開いていない。僕は反証に対して開かれていないものは基本的に知的態度としては認めないんです。
李 ウォールストリートジャーナルに載っていた話で、アメリカのMAGA、トランプを支持している右派たちが、第二次大戦時の共産主義者、アントニオ・グラムシに大きな影響を受けているといいます。
それと並行して最近、ポストクリティークといって、文化批判に対する反省が進んでいます。かつてのニーチェとかフーコーのような「言説に潜む権力性を暴く」試み、たとえば夏目漱石のような古典の作品に潜む「男性中心主義」を見抜くみたいな批判理論が、今は力を失っている。トランプのような人が大統領になったら、もはや男性中心主義は潜んでいないわけで。
内田 潜んでいるどころか、男性中心主義が支配的なイデオロギーになってしまいました。
李 ですので、今までみたいな批判理論が通用しなくなっている。同時にSNS上では「正義」の問題があって、前回おっしゃっていたような「正しさを振り回して、何でも切って捨てていく」言説が目立ちます。今、大学教員をやっていて思うのは、女性も含めて学生にフェミニズムの受けが悪いんですよ。「フェミ」と蔑称的に呼ばれている。
たぶんSNS上の、悪い感じにデコレーションされたものを受容しているだけだと思うんですけど、フェミニズムといえば「なにかと文句をつけてくる人たち」みたいに思われている。萌え絵のようなコンテンツがあったら、「それは性的に搾取している」とかのケチをつけてくる連中みたいに思っている。これは非常にまずいことです。
僕も男女平等はもちろん支持しているので、たとえばフェミニズムのような文化を語る方法を、今もう一度考え直すべきではないかと思っています。内田先生は『ためらいの倫理学』(角川文庫所収)の時点でそれを実践なさっていたので、どうしてそれが可能になったのだろうか?と。
内田 そうか、フェミニズムは今の学生たちには不評なんですか……。文句を言う人だと思われているんだ。
2 「あなたの感想ですよね」はモダニズムの劣化版
内田 僕がレヴィナス論を書いた時に、フランスのある女性批評家がレヴィナスを「セクシストだ」と切り捨てたことがありました。男性が主語であることを自明としている哲学だから読むに値しないというのです。でも、たしかにその指摘には当たっている点もあるわけです。でも、レヴィナスのテクストは他にも豊かな読み筋がいっぱいあるわけです。それを「レヴィナスはセクシストだから読むに値しない」と一刀両断してしまう。それは対象を「最低の鞍部」で乗り越えることであって、読みとしては生産的ではないと思うんです。
そもそも完璧な人なんていないわけであって、みんな信仰があったり、性的な歪みがあったり、政治的な偏見があったりする。誰だって「それぞれの歪み」を抱えているわけであって、何一つ歪みや偏りのない哲学者なんてこの世にいないわけです。
レヴィナスは敬虔なユダヤ教徒で、ヘテロセクシュアルで、イスラエルを支持していました。そのどれかをとらえて「レヴィナスは読むに値しない」と決めつけることは、できないことではないけれど、僕は「もったいない」と思うんです。一つでも欠点があると、「言説全体が無意味だ」という決めつけはしない方がいいと思うんです。
百歩譲って「レヴィナスはセクシストである」という批判はあっていいと思う。そこからレヴィナスのこれまで難解とされていたフレーズの意味が明らかになるというような読みなら。でも、この批評家はレヴィナスの読みを豊かにする気はなかったんです。
せっかく読むなら、その人の一番いいところ、その人以外誰も語らなかったような知見は何かに焦点を合わせるのが、研究者としては生産的だと思うんです。欠点を一つ見つけると、それで鬼の首でも取ったようになるというのは、よろしくないです。
李 その態度には「ためらい」がないですよね。今回の本で、「テクノ専制をどうやって克服するか」と考えた場合に、もちろんテクノロジーの導入とか、関連法案の実現も必須ですけど、個人の問題として「ためらい」をどう実践すればよいのかと。今のSNSって分断を生んで利益を上げているので、端的に気に障るじゃないですか。自分たちの意見とか考え方とかあるいは生活というものが、ビッグデータの一部として、アメリカのスーパーエリートたちが金を稼ぐために使われている。
日常での「ためらい」の実践において、個人の心持ちでも教育でもよいのですが、どういうヒントがあるのかなと。
内田 なんなんでしょうね。僕は「程度の差」というのをもっと大事にした方がいいと言っているんですけれど、それかな。「五十歩百歩」と言いますけれど、五十歩と百歩の間には五十歩の違いがある。その五十歩の違いが場合によっては生死をわかつことだってある。
うちのゼミの卒業生で小学4年生の男の子がいる人が僕のところに相談に来たんです。息子さんが学校で自分の意見を言ったら、友だちに「それはあなた個人の感想でしょう」と言われて「論破」されたそうです。それが悔しくて夜も眠れない。一生懸命ネットで調べて、言い返す言葉を探したけれど、適当なものが見つからなかった。だから先生に伺いに来ました、と(笑)。

「それはあなた個人の感想でしょう」というのはポストモダニズムのロジックの劣化した形だと思います。ポストモダニズムの功績は、僕たちが見ている世界の像はどれも主観的なバイアスがかかって歪んでいるのだから、自分に見えているものの客観性を過大評価しないようにしようという知的節度を教えたことだと思います。これは立派な貢献だったと思います。
でも、その劣化した形というものがある。それは「誰もが主観的バイアスのかかった世界像を見ている。誰一人客観的現実を知らない。だったら、すべての世界像は等価だということになる」という結論に飛びついたことです。すべての世界像が等価なら、ひとりひとりが「自分にとって一番都合の良い世界像」を選んで、そこに安住すればいいということになる。「オレは自分に都合のいい世界観を採用するから、お前もそうすればいいじゃないか」というのが「個人の感想でしょ」という言い分なんです。
たしかに誰も100%客観的な現実を見ているわけではない。でも、そこには「程度の差」というものがあるわけですね。主観的バイアスを補正しながら正確に現実を見ようとしている人と完全な妄想の中に安らいでいる人の間には決定的な「程度の差」があると僕は思います。
たとえば、現代の宇宙科学の成果として示された宇宙観と、世界は蛇と亀と象の上に乗っかっているという古代インドの宇宙観の間にはやはり「程度の差」がある。たしかに現代の科学を以てしても、宇宙の果てに何があるか、宇宙の起源は何かという根源的な問いには答えることができません。137億年前にビッグバンがあったことまではわかった。でも、その前には何があったのかはわからない。でも、だからと言って「誰一人宇宙についての真理を語っていないから、すべての宇宙観は等価である」ということはできません。現代の科学者に向かって「あなたの宇宙観はあなた個人の感想でしょう」と言って、だから「蛇と亀からできている宇宙観と等格だ」と言う人はいないと思うんです。そこには天と地ほどの程度の差がある。
たしかに僕たちは「主観的な知見」を語っているわけだけれども、それぞれの言明の間には、蓋然性や厳密性において程度の差がある。この「程度の差をきちんと見極める」ことが本来の知性の働きだと僕は思うんです。あらゆる言明を程度の差を無視して「個人の感想でしょう」と言って話を済ませる奴のことを昔は「糞味噌(くそみそ)」と言いました。糞も味噌も茶色でねばねばしているから似たようなものだと言う人間に対して、いやそこには決定的な違いがあるよと教えるのが知性の働きなんです。だから、その小4の子に、今度そう言われたら「お前みたいな奴のことを“糞味噌”というんだ」と言い返してやりなさいと伝言しました。どういう意味かと聞かれたら「家に帰って辞書引け」と言ってやれ、と(笑)。
李 「個人の感想」と言いますけど、もし感想ではない「普遍的な誰にでも当てはまる真理」があったら、人と人ってコミュニケーションを取らないじゃないですか。個人の感想だから言うのであって。もし本当に「これは絶対間違ってない」という原理があったら……
内田 人に同意を求める必要さえないですから。
李 ないですね。もちろんエビデンスは重要ですが、コミュニケーションを拒絶すると、意見をすり合わせる機会が失われてしまいます。
3 「N国信者は全部バカ」なのか?
内田 一人ひとりが「主観的な知見」を語り、それが不完全なことを認め合う。そして不完全な知見を集めて、すり合わせて、そこで合意形成がなされる。対話して、それぞれが自分の考え方を少しずつ修正して、より包括的なものに拡大してゆく。それが「コミュニケーションのプラットフォームを作っていく」ことの意味だと思うんです。
李 いまのコミュニケーションのあり方を見ていると、まず現実のコミュニケーションがあって、それがSNSでも繰り広げられるという順番ではなくて、SNSのコミュニケーションがまずあって、それが現実に投射されている時代だと思います。
内田 そうですね。そう思います。SNSのコミュニケーションは「真偽・善悪」の二元論の世界なんですよね。「正しい私たち」と「間違ったことを言っているバカたち」という二元論をどちらも採用していて、その中間がない。
例えば、N国党の立花孝志の政治活動は多くの被害をもたらしたわけですから、法的にきびしく規制しなければいけないことは間違いない。けれども、それでも彼を信じるN国信者たちというのはいるわけです。この人たちがどうしてそんな歪んだ政治思想を持つに至ったのか、その経緯はわかりませんけれど、たぶんそれぞれに深い屈託や痛みを抱えていて、そういうイデオロギーにしがみつかずにはいられないという個人的事情があってのことだと思うんです。でも、その人たちを「バカ」とひとくくりにして、「真偽善悪」の二元論の中に落とし込んではいけないと思うんですね。それはむしろリスクを高めることになるから。
前回のフェミニズム論争の繰り返しになりますけど、もしN国信者であれ(兵庫県知事の)斎藤元彦信者であれ、政治的に完敗しても、その人たちの抱えていた心理的屈託は消えないわけです。むしろ、抑圧されてもっとシリアスなものになるリスクがある。その抑圧されたルサンチマンはしばしば別の時に別のところで、症状として回帰してくる。僕はそれを恐れるのです。ルサンチマンは怪物を生み出すことがある。だから、あまり手ひどく人を打ち負かさない方がいい。
僕は論争って一切しないことにしているんです。論争して自分が負けたらもちろん気分が悪いし、仮に僕が論争に勝ったとしても、少しもよいことはないんです。論破された相手は深い心理的な傷を負うわけですよね。その屈辱感や敗北感のせいで、その人がこれからあと生み出したかもしれない数々の知的なアウトカムの生成を僕が妨害したかも知れない。それに、僕が後になって「あの時の考えは間違っていた」と気づいた時に、「ごめんね」と言ってももう遅い。もう向こうは取り返しがつかない仕方で傷ついてしまっているんですから。
何より危険なのは、論破すると、それが勝者にとっての「成功体験」になってしまう。人間は成功体験をなかなか手放せない。一度勝つと、以後も同じパターンで勝ち続けようとする。武道ではそれを「居着く」と言います。「勝ちに居着く」ということがあります。勝ったせいでそれ以上成長できなくなるリスクを勝者は抱え込む。
論争は勝った方にも負けた方にも傷を残す。だったら「やらない」に越したことはないというのが僕の考えです。
李 SNS上でフェミニズムが、僕の知っている範囲ですけど、若い人に受けが悪いのは、「あいつらはバカ、自分たちは真理を知っている」みたいに線を引いてしまうことが原因のひとつだと思います。それをやってしまうと、もしかしたらフェミニズムに興味を持ってくれたかもしれない外野の人たちまで引いてしまう。非常にもったいないことだと思います。
いまのSNSでの男女の対立って、「女はこうだからバカ」「男はこうだからバカ」と苛烈で、同時に単純化されたものですが、女性蔑視をしている男性のアカウントを見ると、仕事でしんどかったり、生きづらさを抱えていたり。男性嫌悪のツイートしている女性も、過去に性被害を受けていたりとか、深掘りしていくと双方にいろいろな事情があるんです。ここに実はつながるポイントもある。
今回僕が本の中に書いたテクノロジーとか実践というのは、その「つながれる部分をいかに可視化するか」という試みなので、日本でも実装していけたらなと思うんです。
4 「被害者の目」から見えている世界
内田 社会的な弱者を「理非善悪の査定者」の地位に祀り上げるということがありますね。この世界で最も収奪され、最も迫害されている者が「最も正しい」というのはかなり危ういロジックだと思うんです。このルールを採用すると、「誰が最も苦しんでいるか、最も収奪されているのか」を競うようになる。「誰が最も弱者なのか」という受難者の地位の奪い合いが始まる。これはレーニンの『帝国主義』以来のロジックなんです。「階級社会で最も抑圧されている人間こそが階級社会の実相を最もよく知っている。だから革命の主体となりうる」という。
でも、このテーゼは半分正しいけれど、半分は当たっていない。この社会で激しく収奪され、苦しんでいる人がいる。その苦しみを知って欲しい、収奪の構造を変革して欲しいというのは正当な要求です。被害者の苦しみを理解するために、人々が想像力を駆使するというのは端的によいことです。でも、それは「最も収奪され、最も抑圧されている者が最もよく世界の実相を知っている」という言明には結びつかない。最も収奪され、抑圧されている人たちは、あまりに激しく人間的可能性を奪われているために、自分たちの置かれている政治的状況を言葉にしたり、それを改革するための道筋について提言したり、運動を組織することができない。変革する能力まで根こそぎ奪われていることを「収奪」とか「抑圧」とか呼ぶわけですから。その結果、誰かが「収奪されている者」の代理人・代弁者になって、「彼らに代わって」世界の実相を説明し、変革の道筋を指示することになる。この「代理」の仕組みについて、人々はあまりに無警戒だと僕は思います。
「被害者史観」はレーニン以来100年以上生き延びています。そして、実存主義も、ポストモダニズムも、フェミニズムも、ポストコロニアリズムの「サバルタン史観」も、どこでもこの定型が繰り返されている。そして、「最も収奪されている者」ではなく、その「代理人」が理非を判定し、正義を執行する権利を要求する。この「被害者史観」の危うさを誰も正面から批判しない。そのことについてはどう思われます?
李 僕も一応マイノリティな側面を持っているので、僕のまわりには在日朝鮮人のことを研究されている方もいらっしゃるんですけど、すごくいい人たちなんです。だから僕と話す時、僕が先生で向こうが生徒、「生徒」という言葉でも生ぬるいぐらいに、皆さん、自分を下げて接してくるんです。在日の問題に関しては僕が真理を知っていて、自分たちは無知というか、こっちの顔色をうかがうと言うと大げさなんですけど、自分から線を引いて接してくる。でも絶対的にこっちが正しいと思われると、僕としてもちょっと困るんです。そんなことないですよ。

さっきも言ったように、普遍的な真理が存在したら人間はコミュニケーションを取る必要がなくなるわけで、もし僕が何らかの真理を持っているなら、どんどん人が遠ざかっていってしまう。もちろん僕にコミュニケーションを取ろうとして来てくれる人は関心を持っているからいいんですけど、それ以外の、「差別ってなんとなくよくないなと思いつつ、専門に研究するほどでもない」みたいな人たちが引いていっちゃうんです。
だから「被害者史観」や「受難者意識」というのは、すごくもったいないことです。その当事者が誰であれ、今まで第三者というか、外野の人たちの存在をあまり考えてこなかったのかなというふうには考えます。
今のアメリカなら、マイノリティと言われる有色人種や移民ではない、「白人」で「男性」の人たちが「俺たちが被害者だ」と言って、それを原動力にトランプ政権が誕生した。「被害者史観」は、現在のトランプ現象にも関係していると思います。
5 コモンで訓練する民主主義のイロハ
李 今回の本のもうひとつのテーマである「コモン(共有財)」について。内田先生はご自分の道場である凱風館を「コモンに」とおっしゃっています。これからのコモンの在り方で大事なのは、「共有する」ことも大事ですけど、それを大企業や国が管理していたら意味がなくて、共有することが「一人ひとりの自治」につながっていくことが必要だと、僕は思っています。
たとえばトクヴィルが「地方自治は民主主義の学校である」と言っていて、今、民主主義と言われて連想するのは、「投票」とかのイメージですけど、とりあえず投票箱に入れたら終わりみたいになっている。日常的に何かを学習するというか、市民が自治について学ぶ場みたいなものが、すっぽり抜け落ちていると思うんです。
内田 そうなんですよね。民主主義って訓練して学習しないと身につかないんです。意見の違う人たちが集まって、対話して、合意形成してゆくためには訓練が要る。その訓練の機会をできるだけ多く提供できるのが民主主義的な国だと思います。
でも、日本の場合は、家庭は民主的ではないし、学校も民主的ではないし、部活もバイトも違う。会社に入っても、もちろんそこは全く民主的な仕組みではない。どこも全部トップダウンの組織なわけですよね。ふつうの子どもには、さまざまな意見を持ち寄って合意形成し訓練する機会を成人するまでに一度もない。
僕は凱風館を「民主的な場」にしたいと思っています。僕は門人たちに「凱風館のためになることだと思うことがあったら、好きにやってください」と言ってあります。僕の許可を取らなくていいから、思うことをやってくれ、と。お金も書生にある程度預けてあって、要ると思うものがあったら、自己判断で買って結構です、と。さすが高額なものの場合は、僕に言ってもらいますけど、書生が「これ買いましょう」と言ったものについて僕が「ノー」と言ったことは一度もありません。僕は「財布」と同じなんです。「どうやってこの道場を運営していったらいいか」ということについての提言はみんなから伺う。僕はただ言われたことを実践する。
でも、凱風館は「こういう仕組みで運営する」ということを決定したのは僕なんです。誰の意見も聞かないで決めた。「凱風館を民主的な組織にする」ということは僕が非民主的な仕方で決定したんです。僕はこれを「親切な家父長制」と呼んでいるんですけれども、民主制を基礎づけるための「最初の一撃」は必ずしも民主的な手続きを踏んでなされるわけではない。
李 先生は『コモンの再生』(文春文庫)で「身銭を切る」という話をしていて、社会で「自分が一番損している」とみんなが思っているからこそ、身銭を切る大人が必要なのだと。「国家というのは市民が身銭を切って作った人工物であるということになっている」とも。
内田 民主的な組織では、成員たちは決定に参加することができますけれど、同時にリスクを引き受けることもできる。リスクを多くとる人がデシジョン・メイキングにおいてそれだけ大きな発言権を持つことができる。だから、リスクというのは進んで負うものであって、負わされるものではないと僕は思います。
6 「ミッション」のない共同体は絶対に持続しない
内田 僕は大学で管理職を長くやっていましたけれど、そうすると部下がいろいろと仕事上の提案を持ってくるわけですよね。「部長、これどうしたいんですけれど、どうしましょう」って。僕は何についても「好きにしていいです、やってください」と言っていました。「失敗したら僕が責任取りますから、やってください」って。中身の精査もろくにしないで即答していました。だって、彼らが一生懸命考えてきた提案なんですから、それなりの必然性があるに決まっている。でも、多少瑕疵のある提案であっても、上司が「責任は僕が取ります」と言うと、失敗はしないものなんです。

それを「やってもいいけれど、俺は知らないからね。お前責任とれよ」って言うと、やっぱりうまくゆかない。「失敗しても君の責任は問わない」と言うと失敗しない。「失敗したらお前の責任だ」とストレスをかけると失敗する。そんなの、当たり前なんです。だから「親切な家父長」というのは組織論的にも合理的だと僕は思っています。
李 今回の本でも書いたんですけど、たしかに組織のヒエラルキーというのは弊害が多いんですけど、でも、よくリベラルとか左派の人たちが言うような「まったくフラット」という組織もうまくいかない。
内田 絶対うまくいかないです。
李 これは人類学者のヘンリックが言っているんですけど、ひとつは「支配型ヒエラルキー」といって、その名の通り上の人が支配している。そうすると、みんな疑心暗鬼になって、有益な情報があっても提供されなくなり、組織は自壊していく。他方で「尊敬型ヒエラルキー」というのもあって、これは上に立つ人が、部下が失敗しても叱責しない。そうすると積極的に情報が共有されていって、上司の方にも革新的なアイデアが上ってきてうまくいく。
「コモンの自治」というと、どうしても「フラットな組織」を思い浮かべるかもしれないですけれど。
内田 フラットというのは無理だと思います。以前にある講演会で、「どうやって相互扶助的な共同体を作ったらいいのでしょうか?」という質問を受けたことがあります。その人はシェアハウスを運営していて、そこには数家族が参加している。その中に高齢の夫妻がいる。若い家族に比べると、家の管理についての貢献度が低い。お掃除も手伝ってくれないし、子守もしてくれない。ほかの若い家族同士は相互扶助ができているのだけれど、この高齢の夫妻は共同体に「フリーライド」している、と。どうしたらいいか訊いてきたので、「申し訳ないけれど、そんなものは相互扶助共同体ではありません」とお答えしました。
「誰がフリーライドしているか」とか「自分は割を食っている」というような言葉が出てくる共同体は決して長くは持続しません。自分が出した分だけのリターンを求めていいというような集団は共同体にはなりません。共同体というのはある「ミッション」があって、そのミッションの実現のために成員たちが「持ち出し」を受け入れることで初めて成立するものだからです。「持ち出し」の質や量については、客観的な基準があるわけじゃありません。それぞれの私権・私財の「一部」を差し出す。はたから見て「フリーライドしている」と思える人でも、主観的には「自分ばかりが持ち出し」で、「ずいぶん割りを食っている」と思っているかも知れない。そんなことはわからない。
僕がこうしてボーッとしていられるのは、「道場が何のためにあるか」ということは、「風雲自在」とか「天下無敵」いう言葉ですでに提示されているからです。この共同体の目標ははっきりとしている。でも、その目標を達成するために自分は何をするのかはひとりひとりに考えてもらうしかない。僕がいちいち指示する必要なんかないんです。(後編に続く)
プロフィール

(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、神戸市で武道と哲学研究のための学塾・凱風館を主宰、合気道師範(合気会七段)。専門は20世紀フランス文学・哲学、武道論、教育論。 主著に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)など著作多数。近刊に『日本型コミューン主義の擁護と顕彰 権藤成卿の人と思想』(ケイアンドケイプレス)などがある。

(リ・スンジ)
1990年、神戸市生まれ。法政大学社会学部准教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。学術振興会特別研究員、コロンビア大学客員研究員などを経て現職。著作に『ベルナール・スティグレールの哲学 人新世の技術論』(法政大学出版局)。