被爆者の子どもとしてうまれた「被爆二世」が、どのように戦後を生き抜いてきたかを見つめる本連載。前回に続いて、被爆二世を取り巻く社会の変遷を辿っていく。
前回は1970年代に入り、声を上げ始めた被爆二世たちの言葉を取り上げた。当時発行された冊子には、私たちは被爆二世だと「宣言」することで、人生を切り拓こうとする若き被爆二世たちの言葉が綴られていた。
いくつかの地方自治体が独自の医療保障を開始し、社会的な関心も高まる中、ある政治家が重大な差別発言を繰り出す。
※被爆者及び被爆二世に対する差別表現があります。当時の状況を伝えるためにそのまま記載しますが、お読みいただく際はご注意ください。
東京都議会の速記録から
被爆二世たちが声を上げ始めた頃、被爆二世というテーマの本質を問う、ある差別発言が取り沙汰された。1976年7月1日の東京都議会で、自民党所属の議員がこう述べたのである。
「原子爆弾の被爆者の人たちというものを絶滅するにはどういう方法をとらなければならないか。これは遺伝的な問題が私は多少あるのではないかと思うのでございます。そうしますと、永久的に被爆者の援護を続けていかなければならないということになりますると、依然もって戦後は終わらなくなりますので、これを絶滅する何らかの方法はないかどうかということです」
発言者は、歯科医師でもある近藤信好議員。「被爆者」の「絶滅」を唱える内容で、引用することさえはばかられる。しかし、被爆二世というテーマを考える上では避けて通ることができない。
大きな批判を呼んだ「近藤発言」は、衛生経済物価清掃委員会において、被爆者援護に関する条例の改正案について審議する中で飛び出した。改正案は、一定の障害を伴う病気を被爆者の子どもが患った場合に、健康保険の自己負担分を助成するとしていた。
東京都の被爆者団体「東友会」の機関紙『東友』によると、東京都は1974年から被爆二世への健康診断を開始し、翌年に成立した先述の条例が定める施策の1つとしても盛り込まれたが、医療費助成は含まれていなかった。この実現に向けて、東友会や東京の被爆二世は要求を続けていたのだ。
近藤議員はまず、予算が「今後非常に増加する懸念」があると述べ、その見込み額を問うている。真意としては、厳しい財政状況にもかかわらず、援護を続けなければならないのなら、「これが解決しなくて戦後は終わっていないと私はいいたい」というものだった。
原爆被害者への援護を続けなければならない限り、「戦後」はいつまでも終わらない。この捉え方は私も同意する。戦争がもたらした「被害」が続いているからこそ、援護が必要なのだ。そういった意味で「戦後」は終わっていないし、終わらせることもできない。
しかし、近藤議員の主張は、「被爆者」を「絶滅」させて援護を打ち切れ、そのことによって「戦後」も終わらせろ、というものだ。私とは根本的に考え方が違う。
そして、近藤議員の発言を考えるにあたって、1点確認しておきたい。それは、彼の言う「被爆者」は親世代だけを指しているのではなく、その子や孫を含んでいるものと考えるのが適切だろうということだ。
そのことは、例えば次のような発言から読み取れる。遺伝の問題に触れながら「永久的に被爆者の援護を続けていかなければならない」「私の憂えているのは、(被爆者の数が)年々少しずつであっても増加していくということ」と述べている。これらは、援護すべき対象が被爆二世、三世、四世……と、「永久的に」増え続けることを懸念しての発言といえる。
発言の翌日に開かれた同委員会では、再度、「被爆者」が年々増加する理由の一つとして「遺伝的なものもなしとしない」と述べており、やはり、被爆二世や三世のことも含んでいると考えるべきだ。
委員会の後、『毎日新聞』の記者に発言の真意を問われた近藤議員は、「被爆者には治療を続けさせ、都は、優生保護的な見地から、完治するまでは子供を持たないような行政指導をすべきだ」(『毎日新聞』1976年7月2日付朝刊)と述べている(太字は筆者、以下同)。つまり、近藤議員は「被爆者」という言葉を使ったものの、「絶滅」の対象として考えていたのはその子孫ということになる。「被爆二世」、そして三世やその後の世代をもターゲットにした差別発言だったのだ。
同日にはこんな自説も展開している。
「あの広島、長崎の原爆にかかった被爆者のその惨たんたる現状を目の当たりに見たときに、次代の子供らにそのような原爆の障害を与えることはよくないというような観点からいたしまして、(中略)優生保護的な立場から今後東京都が行政指導していくことは、日本民族の新しい息吹を盛り込む上においても私は必要ではないかというわけでございます」
ここまでの近藤議員の発言は、『毎日新聞』に掲載されたコメントを除いて、すべて東京都議会衛生経済物価清掃委員会の速記録から引用した。
浮かび上がる、被ばくと優生思想のつながり
近藤議員が繰り返した「優生保護的な立場」とは何か。
これは、この当時存在していた「優生保護法」と関わりがある。1948年に成立した同法は、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的としていた。遺伝性疾患などとみなされた人に対して、不妊手術を施すことを可能にした法律だ。
国会が2023年に公表した調査報告書によると、少なくとも約2万5000件の手術が行われ、強制手術は58%の1万4566件にのぼった。女性団体や障害者団体の抗議によって1996年、優生保護法は「母体保護法」に改正されて、「不良な子孫の出生防止」に関わる条項は削除された。
2024年7月、強制手術を受けた人たちが訴えた裁判を巡り、最高裁は同法が「憲法に違反していた」と判断。国に賠償を命じる判決を言い渡し、同年10月には補償金支給法が可決された。
同法の成立にともなって衆参それぞれの本会議で可決された謝罪と回復に関する決議は、次のように述べている。
「誤った施策を推進させたことについて、悔悟と反省の念を込めて深刻にその責任を認めるとともに、心から深く謝罪する」
現在では「誤った施策」であったと省みられる優生保護法だが、当時は法律として効力を持っていた。近藤発言は、この法律の存在が許容された社会の中で、同法の趣旨に沿う形で、発せられたものだったのだ。
この根底には、優生思想がある。この思想は、優生学――「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝的形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問」(『広辞苑 第六版』岩波書店、2006年)が根底にあり、「社会にとって有用か否かで人間を評価し、有害な人間や不用な人間は排除してよい」という考え方のもと、障害者は人間社会もしくは社会参加から排除されても仕方がないとみなす思想(※1)という定義もある。社会にとって「優良」「有用」な人とそうでない人とを区別し、後者の存在は否定する。優生保護法はまさにこの考え方のもと、強制不妊手術を認めてきた。
近藤議員は、被爆者が子どもをもたないよう、「優生保護的な立場から行政指導していく」ことに触れた。援護すべき対象が増えることによって、「大幅な予算が計上」されていくことを懸念しての提言だった。さらに、多くの予算を食いつぶす存在の誕生を防止することは、「日本民族の新しい息吹を盛り込む」上でも重要だと述べている。詳細は語られていないものの、「日本民族」という集団の改良を見越した発言だと推察され、まさに優生思想に他ならない。
そして、この発言を下支えしていたものこそ、当時の優生保護法なのである。
すなわち「近藤発言」を、とある政治家がたまたま発した、特異な発言と捉えるべきではない。それでは問題を矮小化してしまう。被爆者と、その子孫の「絶滅」をうたう思想を支える法律があり、社会構造があったのだ。
※1 山脇直司「共生思想 VS 優生思想——共生教育の哲学的基礎のために」(『共生科学』9巻9号、日本共生科学会、2018年)
ぼくは生まれてきてはいけなかったのかしら
近藤発言に、被爆者団体は抗議した。特に、被爆二世への施策を求めてきた「東友会」は、直後の1976年7月3日に質問状を発出。同月27日には衛生経済物価清掃委員会に藤平典事務局長が出席し、参考人として意見を述べた。
速記録には、彼の切々とした訴えが残されている。
「私たちは、好きで被爆者になったのではありません。戦争の犠牲者として被爆者になってしまったのです、させられたのです。だからこそ、行政とか政治とかいうものは、そうした(病気になるなどの)危険性が一部でもあれば、それに対する施策をしていただくのが、私たちは当然だと思います」
そして、近藤発言については、次のように語った。
「この発言を聞いた子供が、ぼくは生まれてきてはいけなかったのかしらといったということを聞いております。被爆者の子供は生きる権利もないのか。すでに被爆者は約半数以上が五十歳になりました。被爆者の子供は数多く生きています。そうしますと、私たち(の)孫にまで、私たちが受けた無理解と差別を続けることになるのでしょうか」
ぼくは生まれてきてはいけなかったのかしら――。
被爆者の子孫の「絶滅」をうたった近藤発言。それは、被爆者の子や孫たちはうまれてこない方がよいと主張すると同時に、すでにこの世にある被爆二世や、その未来世代の存在そのものを否定したのだ。少年は、自分の存在が揺るがされるような感覚を受けたのではないだろうか。脅かされるように感じた人もいたはずだ。
自分たちの存在を否定する発言を、見過ごしてはいられない。そう考えて声を上げた被爆二世たちの記録が残されている。
「大阪被爆二世の会」は、1976年に冊子『被爆二世 第2号』を刊行し、近藤発言を批判する論考を掲載した。被爆二世に対する差別は、国が「影響の科学的究明・施策を故意に怠っていることから派生した」と指摘した上で、次のように議論を展開する。
最も重要な問題であるが、全(あら)ゆる障害が、差別の原因となること自体が誤りである(中略)
※原文ママ、以下同
近藤発言に貫ぬかれた思想=優生思想は、人間の価値を『資本により貢献するか否か』という所にもとめる、人間の尊厳を冒瀆する思想である。一人一人の人間の人権よりも、資本へ役立つか否かを基準としている現在、『健康』も『搾取』の対象としてある。
従って、差別の根源は、病気が発生しやすくなる遺伝子の障害にあるのではなく、その障害が病気となって出てくると社会的に不利な立場に置かれる社会のしくみにある
そして、こう締めくくった。
二世が二世として社会的に生きてゆく保障を政府に行わせてゆくこと。ひいては、戦争責任の追及による平和の獲得、障害があることが差別につながらない社会、全ての人間が人間らしく生きてゆける社会をめざしてゆくことが、私達の目標となるだろう
彼らは、鋭く見抜いていた。近藤発言の根底にある思想と、自らが置かれている差別の構造とを理解し、抗っていた。
障害や病気があることで、「社会的に不利な立場」に追い込まれる社会自体が問題だ。そして、自分たちが自分たちのままで生きていく社会を実現させることこそ必要なのだと、彼らは訴えていたのである。
「絶滅」発言と向き合った被爆二世たち
私は、彼らの社会を見つめるまなざしに、率直に敬意を抱いた。「被爆二世」として生きる自分たちの生活や健康の改善を求めるだけでなく、その根底にある問題を見つめ、あるべき社会を描いていたのである。
1977年には、「関東被爆二世連絡協議会」が発足し、『被爆二世宣言』を発行した。この冊子の意義は、本連載の第9回で述べた通りだが、ここにも、近藤発言について考察を深めた文章がある。同会で委員長を務めた森川聖詩さんによる「被爆二世と差別の構造」で、「生まれてきてはいけなかったのかしら」と言った少年の声に応える内容だ。
冗談じゃない。私達被爆二世や障害者には、生きる権利がある。生きる権利を、安心して生活できる権利を奪ってきた連中を放置しておいて、私達の存在の方を否定する、これでは本末転倒ではないか。裁かれるべきは支配者なのである。
筆者は「生まれてきてよかった」と思っている。しかし、「生きてきてほんとうに良かった」と思うためには、今の社会を、私達被爆二世の健康と生活が保障され、私達と同じ立場の人間がもうこれ以上出ない社会、つまり核兵器や原子力発電所のない社会に、そして貧困といっさいの差別と戦争のない社会にしていかなければなるまい。私達が「かわいそうな存在」なのではなく、私達が安心してなの生活できない社会のあり方こそが問題なのである。
生まれてきてよかった、生きてきてよかったと心から思うために援護施策を求め、核なき世界の実現を目指していく。被爆二世が運動を続けるのは、彼ら自身が生きるため、そして、すべての人が安心して生きてゆける社会をつくるためなのだ。
これこそが、「被爆二世」が立ち上がった理由だった。
ちなみに近藤議員は発言について、「子を持たないようにすべきだという点は〝削除〟させてほしい」(1976年7月7日付『毎日新聞』朝刊)と弁解し、「断種とか優生保護法の適用などということは断じて考えておりません」(同年7月27日、衛生経済物価清掃委員会速記録)とも釈明している。
差別表現をあえて掘り起こして書くことは、誰かに傷を与えかねない。だからといって、なかったことにはできないはずだ。そして、近藤発言に通底する思想は、私たちと無関係のものではなく、また「過去のもの」だと線を引くこともできないだろう。検証も反省もなされないまま繰り返されることを、私は恐れる。
差別する声、抗う声、さまざまな言葉が行き交う1970年代後半、ついに国が動き始める。しかし、その計画は「不可解」なものだった。
(次回は2月5日更新予定)
■参考文献
「【特集】 被爆二世の制度・施策 制度の内容と成り立ちの歴史」一般社団法人東友会
https://t-hibaku.jp/toyu/2013/0339/0339_20130100_nisei.html(2025年12月19日閲覧)

広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール

ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。


小山 美砂(こやま みさ)





内田 樹×青木 理


