魔女狩りの現在
“No hubo brujas ni embrujados hasta que se comenzó a tratar y escribir de ello.”
「それについて論じられ、書かれ始めるまでは、魔女も魔法をかけられた者もいなかった」
アロンソ・デ・サラザール・フリアス(スペイン異端審問官)
グスタフ・ヘニングセン『魔女の弁護人』
「魔術」という言葉を聞くと、身構えてしまう人もいるかもしれない。その言葉には、いまなお警戒心や不安を呼び起こす響きがある。歴史を振り返れば、社会不安や政治的混乱の只中で、しばしば魔術や異端的実践が誇張された脅威として語られ、社会の内側から秩序を破壊する存在、あるいは世界の終末を企てる集団として想像されてきた事例は少なくない。それらの言説は、事実に基づく理解というよりも恐怖や疑心暗鬼に支えられ、結果として特定の人々への排除や迫害を正当化してきた。魔女狩りに代表されるように、その帰結はしばしば深刻な差別や暴力、さらにはジェノサイドにまで及んだ。
15世紀の後半から17世紀にかけてヨーロッパ、そしてアメリカのセイラムで起こったのが魔女狩りだ。この時代、4万から10万人の人々がヨーロッパ中で火刑や絞首刑に処せられたと推定されている。その約8割が女性であった。告発や投獄まで含めれば、この集団狂気に巻き込まれた人々の数はさらに多い。
よく魔女狩りはヨーロッパの迷妄な暗黒時代、中世に起こったと誤解されているが、正確には近代の出来事である。魔女狩りは近代化と共に始まった、近代的理性の産物と言っても過言ではないかもしれない。
また、魔女狩りは遠い過去の出来事ではない。今もインド、アフリカ、パプアニューギニアなどで魔女告発が続いており、国連の推計によれば毎年少なくとも数千人が告発されている。被害者の多くは女性、子ども、高齢者、障害者だ。ナイジェリアでは子どもが「魔女」として村から追放され、タンザニアでは高齢女性やアルビノの人々が私刑の犠牲となっている。アムネスティ・インターナショナルの2025年の報告書によると、ガーナ北部では「魔女」として告発された人々、主に高齢女性が追放される隔絶されたキャンプが存在する。まさに現代の「姥捨て山」である。告発の根拠は身内の不幸や悪夢など様々だが、実際は資源不足や偏見による社会不安が元になってスケープゴートにされている。彼女たちには帰る場所がなく、水や食料も不十分な過酷な環境に留まらざるを得ない。魔女狩りは決して終わった歴史ではなく、今なお続く深刻な人権侵害なのである。
アメリカ大統領のドナルド・トランプは、自身に対する捜査や弾劾手続きを「魔女狩り」と繰り返し呼んできた。第一次政権時代だけでもツイッター上で300回以上、約3日に1回のペースでこの言葉を投稿した。あらゆる疑惑や法的追及を、彼は「魔女狩り」の一言で退けようとした。しかし、言わずもがなこの言葉の使い方には重大な問題がある。
歴史上の魔女狩りとは、社会の周縁にいる弱い立場にある人が荒唐無稽な罪状で告発され、孤独に投獄され、拷問にかけられ、火刑や絞首刑に処された現象である。社会的に弱い立場にあった寡婦や高齢の女性たち、身寄りのない者たち、口うるさいと疎まれた者たち――彼女たちは自らを守る術を一切持たなかった。
では、アメリカ大統領という最高位の権力を持つ者が、自らを「魔女狩りの被害者」と称することは正当だろうか。弁護士団を従え、メディアを通じて主張を発信し、数百万の支持者を持つ人物が、かつて弁明の機会すら与えられずに命を奪われた人々と同じ言葉で自らの境遇を語る――魔女狩りという言葉が政治的レトリックとして使用される時代だからこそ、私たちはこの「魔女狩り」についてもう一度知る必要がある。「魔女狩り」とは何だったのか。なぜ人々は魔女を恐れ、迫害したのだろうか。
「魔女」という言葉は、欧米の文化圏では何世紀にもわたる暴力と迫害の記憶を喚起する重い言葉として存在してきた。この本の主題である現代魔女文化とはこれまで述べてきたように1940年代後半に生まれた「私は魔女だ」と宣言する20世紀の文化、霊性運動である。日本ではなかなか理解されないが、15世紀後半以降この「魔女」という言葉は悪魔との契約と深く結びついていたため、キリスト教徒の多い欧米では現在でも強烈な響きを持ち、聞く者の心に一瞬の戸惑いを引き起こす。なぜなら、他者から魔女と呼ばれることは、欧米の歴史においては極めて侮蔑的なものであり、命に関わることでもあったからだ。かつてこの言葉は、多くの罪なき人々を死に追いやる烙印として機能した。水に沈められ、拷問を受け、コミュニティから排除され、火刑に処された人々——その多くは、社会の周縁に追いやられ、無実の罪で殺害された弱者たちだった。
実はフェミニスト魔女たちは「魔女狩り」について意識的に語るが、それ以外の魔女たちはあまり魔女狩りと自分たちの実践を結びつけて語ることは少ない。理由はいくつか考えられるが、魔女狩りがあまりにも悲惨であるために語ることが難しいこと。「魔女狩りで告発された人」は害悪魔術を行い他者に危害を加えたという偽りの咎において魔女と名指され、それによって殺されてしまった普通の人々だからだ。「魔女狩りで告発された人」は魔女ではなかった。これは今日の私たちが忘れてはならない重大な事実である。
魔女の四つの定義
今日では魔女の定義は一つではない。歴史家ロナルド・ハットンによれば、現在まで使われている「魔女」の定義は大きく四つに分けられるという。
まず、もっとも古くから存在し、今日でも広く使われている第一の定義は「他者に害を与えるために魔術を用いる者」という定義である。これは蔑称としての用法であり、一般の人々が「魔女」という言葉を口にするとき、多くの場合この意味で使っている。近所の不幸を誰かのせいにしたいとき、説明のつかない災厄の原因を求めるとき、人々は「あいつは魔女だ」と囁いてきた。もっとわかりやすく言えば「くそばばぁ」である。この用法は現代に至るまで、多くの場合疎ましい女性に投げかけられ、恐怖と排除の道具として機能してきた。
これに対し、第二の定義は「善い魔術もしくは悪い魔術を行う者」を指す。ハットンはこのような人々を、厳密には「魔女」ではなく「サービス魔術師」と区別して呼んでいる。彼らは病気を治し、失せ物を探し、恋愛の相談に乗った。「カニングフォーク」、つまり「狡猾な男(カニングマン)」や「賢女(ワイズウーマン)」と呼ばれた人々がこれにあたり、彼らの中には薬草の知識を持つ者もおり、ときにまじないも行う民間の呪術師であり治療家だ。これには産婆も含まれる。現代魔女たちの多くはカニングフォークを自分たちのロールモデルとして考える傾向がある。しかし、当然彼らは魔女を自称している人々ではなく、むしろ魔女に対抗する魔術を行っていた人々であった。(註1)
三番目と四番目の定義は、比較的新しいものである。19世紀のロマン主義の影響を受け、20世紀に広まった考え方だ。第三の定義は、「自然崇拝を行う異教の宗教の実践者」としての魔女である。ウイッカやモダンペイガニズムの実践者たちは、この意味で自らを「魔女」と呼ぶ。彼らは世界の垣根を跨ぎ、狭間の円や辻で女神や有角神、森羅万象のスピリット、あるいはその土地の祖先たちと精神的な繋がりを持ち、魔術を行う際は彼らと協働する。つまり、現代魔女文化の文脈では魔術的実践を現代に蘇らせる異教の精神的な実践を探求する者を意味する。
そして第四の定義は、「独立した女性」としての魔女である。日本の「美魔女」もこれにあたるだろう。急進的なフェミニズム運動の中で、魔女狩りは国家とキリスト教、そして家父長制の結託による女性の虐殺として再解釈された。反抗的な美しい女性としての魔女像にはジュール・ミシュレの影響で19世紀に意味が反転し「魔女」は既存の秩序に従わない女性、社会を揺さぶる力のある女性を意味するようになった。20世紀半ば以降、「私は魔女だ」と名乗ることは、反抗的で自立した女性や女性の隠された力や創造性を象徴するようになったのである。これについては第10回以降詳しく説明する。
このように、「魔女」は時代や場所、文脈によって様々な意味で語られる。本来は人に向かって使うことなど許されないほど大変失礼な言葉であるはずの「魔女」が今では反転して憧れの対象にさえなりうる。だが、その変容の背後には長く複雑な歴史がある。人々が「魔女」という言葉を使うとき、どの意味で使っているのかに注意を払う必要があるだろう。
欧米を中心とする現代魔女の世界でも「魔女」が20世紀のカウンターカルチャーとして理解されるのは「魔女」という言葉がキリスト教や家父長制によって抑圧されてきた人々に光を当て、その解釈をずらして拡張してきたからだ。女性は従順であるべき、夫に付き従うべきというキリスト教の家父長的世界観、その秩序を脅かす者は何でも本質的に邪悪で悪魔的であるという価値観は、宗教保守と共に現在も根強く存在している。故に「魔女」という言葉はパワフルに響き、多くの人々にとっては秩序を乱す恐れに関連してきた。
魔女狩りに関しては一般的にも、現代魔女文化の中でも様々な誤解がある。魔女のイメージについての言説は、第3回の連載から紹介したように、歴史的に魔女のイメージはロマン主義の強い影響を受けており、現代魔女文化独特のナラティブの中で歴史的に魔女狩りがどのように解釈されてきたかは非常に複雑だ。マーガレット・マレーの魔女カルト論(註2)のような言説も一般に普及したため、ウイッカの魔女たちが過去に語ってきたことが歴史学的に正確であったとはいいがたい点もある。被害者の数にしても100倍近く誇張して表現されることもあったし、現代魔女に限らず、一般的に「魔女狩りで殺された人の多くが民間の医療家であった」という誤った説はいまだに信じられている。現代魔女の世界をこれから知ろうという読者は、玉石混淆で情報が錯綜しているため、昔の現代魔女術に関する本を読む際は注意深く批判的に読むことが要求される。特に「魔女狩り」の歴史には丁寧に目を向け、最新の情報を得て常に更新するようにしていただきたい。
そして、歴史とは常にすべてが残るわけではないことについても考えておきたい。結局のところ、どれ程の人々が殺されたのか、正確な数は分からない。身寄りのない魔女と名指された人々には墓も慰霊碑も家族もないからだ。魔女狩りの記録にも顕著に見られるように、歴史の伝承には不均衡が存在する。奴隷化されたアフリカ系の人々や孤立した女性が魔女として告発され処刑された事例においては、被支配者自身による「私的・証言的記録」は極めて限定的であり、拷問によって引き出された証言は彼らの証言を歪めている。その一方で権力者が残した大量の記録から歴史の輪郭が形成される。こうした不均衡は、被害者の実像を把握することを複雑にしている。歴史の闇に埋もれた声なき声に耳を傾けるためには、残された断片的な証言の間を丁寧に紡ぎ直す作業が必要となるだろう。
教会権力やエリート層によって執筆された悪魔学の著書を通じて、邪悪な魔女像が体系化され、女性を本質的に堕落した存在とみなす女性嫌悪が育まれていったことは、疑いようのない事実である。しかし同時に、当時の魔女狩りを引き起こした要因を教会権力のみに還元することはできず、司法制度の構造、地域社会の不安やパニック、権力の分散といった複合的要因を考慮することが重要である。魔女狩りを推し進めたのは隣人からのウィッチクラフトに怯え、疑心暗鬼になった一般の人々でもあった。グスタフ・ヘニングセンは『魔女の弁護士』(1980年)において、魔女狩りの激化は中央権力の強さではなく、その不在によって生じたことを明らかにした。スペイン異端審問所はマドリードの最高評議会を頂点とする中央集権的な組織であり、地方の審問官の恣意的な死刑執行を許さず、厳格な法的手続きと証拠を重視した。その結果、地方で発生した魔女パニックは抑制され、多くの被疑者は無罪または軽微な処分で解放された。ヘニングセンの研究したサラサール・フリアスは魔女狩りを阻止した象徴的存在である。逆に神聖ローマ帝国のように権力が分散し、中央機関を欠いた地域では、民衆の恐怖と迷信が直接裁判に反映され、大量処刑が頻発した。ヘニングセンの研究は、魔女狩りを生んだ主因が司法制度の崩壊とパニックであることを示し、異端審問所=拷問と無慈悲な殺戮という通俗的イメージを根本から問い直した。
魔女狩りの実態は、こうした現代の研究によってより明らかになってきている。15世紀から17世紀のヨーロッパ全域で処刑された人々の数は4万人から多くても10万人程度と推定される。この迫害の大部分は、1560年から1630年という約70年間に集中していた。また、これらの魔女狩りは、カタリ派やワルド派といった主流でない宗派への異端迫害、ユダヤ人やハンセン病患者への差別と同様の社会的不安を背景として発生し、社会規範から逸脱していると見なされた人物が魔女として告発された。地域によって女性が多く殺された地域、男性が多く殺された地域が存在するので一概には言えないが、全体でみると犠牲者の約8割は女性だった。その多くは、地元で疎まれていた孤立した身寄りのない女性、寡婦、高齢者などだったと言われているが、富裕層や権力者が告発される例もあった。また、この時期は宗教改革後の混乱期と重なっており、魔女狩りの背景でプロテスタントとカトリックの対立は頂点に達していた。この宗派間の対立が激しい地域ほど社会が不安定で多くの魔女狩りがあったと言われている。「魔女」という言葉が、「我々」ではない者、つまり「他者」を指し示すための言葉として機能していた。例えばプロテスタントとカトリックはお互いにお互いを魔女と罵り合った。実際、魔女狩りが最も激しく行われたのは、神聖ローマ帝国のドイツ語圏など、小領邦国家が乱立し、宗派間の緊張が高い地域であった。また、14世紀に猛威を振るった黒死病(腺ペスト)は、数年のうちにヨーロッパの人口の3分の1から半分を奪い去った。さらに、気候の寒冷化が農地の放棄を余儀なくし、人々の生活基盤を大きく揺るがした。死が日常的な光景となり、貧困が深刻化する中で、社会の周縁に位置する人々が不幸の原因としてスケープゴート化されていく構造が形成されていったのである。
また、魔女狩りは当時の西洋社会における女性差別やミソジニーとも深く関わっていた。処刑された人々の約8割が女性であったという事実は、魔女狩りが女性に対する構造的暴力であり、フェミサイド(女性に対する性差別的殺人)として捉えうる側面を持っていた可能性を示唆するものとして、研究者の間で議論されている。この時代、女性たちは厳格なジェンダー規範の下に置かれていた。当時の悪魔学文献は、女性を感情的で理性の弱い存在、悪魔に誘惑されやすい存在として描いた。『魔女に与える鉄槌』(1486年)は、執拗に感情的な女性嫌悪の文体で魔女を女性であると扱っている。魔女は男性から性力や男根を奪い、淫乱で強欲、罪深い存在として描かれた。キリスト教の悪魔学が広めた女性観は、すべての女性が潜在的に「魔女」になりうるという社会的不安を醸成していった。しかし、この被害者の性別の偏りにも著しい地域差があった。例えば、アイスランドでは処刑された22人のうち90%以上が男性であった。またフィンランドやエストニアでも同様の傾向が見られた。また、全体で見れば女性が告発されることが多かったが、告発者の側にも多くの女性が含まれていたことも忘れてはならない。
陰謀論とテクノロジー
邪悪な魔女たちと悪魔の集うサバトという幻想はいわば当時のバーチャルリアリティであった。人々は存在しない悪魔やサバト、そしてマレフィキウム(害悪魔術)を本気で恐れていた。そして魔女の恐怖を流布し、近世の魔女狩りを加速させた決定的な要因が、当時最新のテクノロジーであったグーテンベルクの活版印刷だった。現代の人々がSNS上やYouTubeのアルゴリズムによって陰謀論にからめとられ翻弄されるように近世の人々も当時の最先端の技術であった活版印刷によって複製された書物、そして本に挿入された図像によって邪悪な魔女達の存在を信じるようになっていったのである。
1486年、ドミニコ会修道士ハインリヒ・クラーマーによって著された『魔女に与える鉄槌』は、グーテンベルクの印刷技術によって広く流布することとなる。この書物は、女性蔑視と性的偏執に満ちた内容であり、魔女の特徴や見分け方、裁判の方法を詳細に記した「手引書」として機能した。
『魔女に与える鉄槌』は、著者ハインリヒ・クラーマーの個人的な挫折に遡る。1485年、インスブルックにおいて、クラーマーは裕福な市民の女性を魔女として告発しようと試みた。しかし、この告発は地域の司教によって却下され、クライマーは町を去ることを余儀なくされた。この公的屈辱は、彼の女性に対する偏執的な敵意をさらに昂進させることとなった。この悪名高い書物は、この個人的な失態を正当化しようとする試みとして執筆されたものである。当初、この著作は同時代の知識人たちからほとんど真剣に受け止められなかった。クラーマーは1487年に『魔女に与える鉄槌』をケルン大学神学部に送り、承認を求めた。4人の教授が本書の内容を是認する署名を行ったが、これは大学としての正式な承認ではなかった。後に大学側はこの承認を撤回しようとしたものの、手遅れであった。また、クラーマーは教皇インノケンティウス8世の1484年の回勅を序文に引用し、魔女狩りの正当性を補強するために利用した。このような一定の権威的後ろ盾を得たことで、『魔女に与える鉄槌』は、単なる女性嫌悪を肥大化させた一修道士の妄想的著作にとどまらず、一部の地域や魔女裁判において魔女迫害を正当化する理論的参照枠として機能するようになった。
また、この当時の書物に挿入された図像に着目した研究からは驚くべきことがわかっている。黒川正剛は『表象としての魔女』の中で1489年に初版が刊行され、その後図像付きで流通したウルリヒ・モリトールの『魔女と女預言者について』に挿入された図像がモリトールの意図に反して人々の魔女に対する恐怖を増幅したということを指摘している。モリトールのように当時から「魔女狩り」に懐疑的な人々は存在した。モリトールの主張は魔女の存在を否定し、魔術への信仰を幻想として退けることを意図していたが、その主張を視覚的に補強するために挿入された木版画の挿絵は、皮肉にも正反対の効果をもたらした。著者の意図に反して恐怖と偏見を増幅させてしまうという逆説的な現象が引き起こされたのだ。当時の低い識字率を考慮すれば、多くの読者にとって、これらの挿絵こそが書物の主たるメッセージとなり、鍋の中に蛇や雄鶏をいれ、天候を操る魔女たちの存在そのものを描いた図版は、著者の意図を裏切って魔女の存在への信憑性を高める結果となってしまったことは容易に想像される。
この現象は、視覚的表象が持つ両義的な力を鮮明に示している。「存在しない」ことを示すために描かれた図像が、逆説的にその存在のリアリティを構築してしまう。これは、否定を通じて対象を実体化してしまうというパラドックスを示唆している。
このパラドックスは、現代のデジタルメディア空間における陰謀論の伝播状況にも当て嵌まるだろう。
魔女狩りの地域差
魔女狩りは地域ごとの文化的背景、政治構造、司法制度の差異によって大きな多様性を示した。アイルランドでは、近世ヨーロッパの他地域と比較して魔女裁判は顕著に少なかった。アイルランド固有の民間信仰体系において妖精や民間魔術が悪魔学的枠組みで解釈されることは無かった。
ドイツの魔女裁判は最も苛烈なものであった。17世紀初頭、ケルン周辺ではわずか10年足らずで約2000人が犠牲となった。さらに凄惨だったのはドイツ西部のトリーアである。1590年代、この地域の22の村では368人の女性が焼き殺され、成人女性がほとんど残らなかったとも伝えられている。それは隣人が隣人を告発し、裁いた悲劇であった。
なぜドイツでこれほど激しい魔女狩りが起きたのか。その答えは、神聖ローマ帝国の政治構造にある。ドイツは無数の小領邦国家に分断されており、中央集権的な権力が存在しなかった。各領邦の領主たちは独自の裁判権を持ち、魔女狩りを推進した。トリーアの場合、貴族や町の指導者ではなく、普通の村人たちに独自の裁判権が与えられ、隣人が隣人を告発し、裁き、死刑を宣告するという悪夢のような状況が生まれた。これは法的手続きの形骸化した私刑に近いものだった。また、ドイツの魔女狩りが激化したもう一つの要因は、宗教対立だった。プロテスタントとカトリックが激しく対立する中で、「魔女」は敵対する宗教の脅威を象徴する存在となっていった。
フランスおよびその周辺のフランス語文化圏でも、16世紀から17世紀にかけて、地域によっては激しい魔女狩りが展開された。とりわけ東部フランスやアルプス周辺地域では、魔女裁判において悪魔との契約や悪魔崇拝が中心的要素として強調される傾向が顕著であった。この背景には、15世紀初頭に形成された新たな悪魔学的枠組みがある。1420年代以降、神学者たちは、ウィッチクラフト、悪魔との契約、集団的儀礼を結びつける悪魔学理論を、ピレネー山脈から南フランス、アルプスを越えてイタリア中部に至る広い地域に伝播させていた。
最初期の大規模な魔女狩りは、1420年代半ばから後半にかけて、現在のスイス西部にあたるヴァレー地方およびジュラ山脈周辺で発生した。比較的短期間のうちに、魔女は個別の害悪魔術を行う存在から、悪魔と契約しサバトに参加する集団的脅威として再定義され、魔女狩りは15世紀に急速に制度化された。こうした流れの中で、フランス語圏の魔女裁判では、サバトのイメージがとりわけ強調されるようになった。しかし、スイスやドイツに比べればフランスは比較的早く魔女狩りが終息した地域でもあった。
イタリアでは、スペインと同様に中央集権的な異端審問制度が機能していたため、他のヨーロッパ諸国に比べて魔女狩りは比較的抑制され、犠牲者数が少なかった。スペインの異端審問所と同様にイタリアも魔女容疑に対して慎重な態度を取る傾向があった。彼らは証拠を重視し、拷問の使用にも一定の制限を設け、中央集権的な宗教権力が民衆の恐怖を制御する機能を果たしていた。シチリアの裁判記録には民間信仰の要素が悪魔学的に解釈される前の段階で残っているものがあり、妖精に接触した女性たちの証言が魔女裁判の記録に残っていることでも知られている。
イングランドにおける魔女狩りは、ヨーロッパ大陸諸国とは異なる独自の特徴を示した。顕著な差異の一つは、ヨーロッパ大陸で広く流布した「サバト」の概念、すなわち魔女たちが夜間に集会を開き、悪魔の尻にキスをし、契約を締結し、冒涜的な儀式を繰り広げるという観念が、イングランドではほとんど見られなかった。イングランドの魔女裁判は、主に世俗裁判所によって管轄され、大陸諸国にみられるような宗教裁判所の強力な影響下にはなかった。イングランドの魔女裁判記録には、個々の魔女が隣人に対して行った具体的な害悪——家畜の病死、子供の病気、作物の不作など——が詳細に記されている一方で、集団的な悪魔崇拝やサバトへの参加といった罪状は稀である。イングランドにおける魔女裁判では、魔女は地域共同体内部の対立や人間関係の軋轢の中で告発される個人として描かれ、背後に巨大な悪魔的陰謀や集団でのサバトが存在するという図式は希薄であったと考えられている。
さらに、イングランドにおいては拷問の使用が法的に厳しく制限されていた。大陸諸国においては、拷問によって引き出された自白が、他の人々の名前を挙げる連鎖的な告発を生み出し、魔女狩りの規模を拡大させる要因となったが、イングランドでは拷問の制限が、そのような連鎖的な告発の発生を抑制する効果を持ったと考えられる。
スコットランドの魔女狩りは、大陸ヨーロッパの影響を強く受け、イングランドとは異なる様相を呈していた。そして、その激しさはドイツに匹敵するものだった。1563年から1736年の間、スコットランドでは魔女術法が施行され、告発と裁判が様々な段階で激化した。推定では、最大3000人が魔女の罪で告発され、処刑されたと言われている。拷問は広範に使用され、被告たちは想像を絶する苦痛を味わった。
スコットランドの魔女狩りを理解する上で欠かせないのが、ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)の存在である。ちなみに、彼がイングランド王に即位した直後に書かれたシェイクスピアの『マクベス』は、ジェームズ6世の魔女観と王権正統性への関心を背景として構想された戯曲と考えられている。
1590年、デンマーク王女アンナとの結婚を経てスコットランドへ戻る過程で、王と王妃の船団は度重なる激しい嵐に見舞われた。ジェームズはこれを魔女による呪術の結果であると信じるようになり、その後、エディンバラ近郊を中心に大規模な魔女裁判が展開された。これが、後に「ノース・ベリック魔女裁判」として知られる悪名高い事件である。
この裁判では、ジェームズ6世自身が囚人を尋問した。彼は、自分を殺害し、新王妃を亡き者にしようとする魔女の陰謀があると妄想した。数十名が魔女として処刑され、その多くは拷問によって「自白」を強要された女性たちだった。助産師のアグネス・サンプソンや学校教師のジョン・フィアンら70名以上が告発され、残虐な拷問の末に火刑に処された。被告の多くは、村の嫌われ者や社会的弱者だった。
ジェームズ6世はこの経験から魔女狩りに強い関心を抱くようになり、1597年に『悪魔学』を著した。この書物は魔女狩りのマニュアルとなり、スコットランドの魔女裁判に甚大な影響を与え、確実に数百人、おそらく数千人の人々の死をもたらしたと言われている。スコットランドの魔女裁判の特徴は、大陸ヨーロッパの悪魔学的観念を強く受容した。
魔女狩りとジェンダー
先にも触れたように、ヨーロッパ全体で見ると告発された魔女の約8割は女性であった。とりわけ独身女性や未亡人、高齢の女性、社会的に孤立した貧困層が告発されやすかったことは、多くの研究で指摘されている。この著しいジェンダー的偏りは、魔女狩りが女性に対する構造的暴力として機能していた側面を示している。基本的に、古代ローマ、ギリシャ、ヨーロッパの多くで魔女のステレオタイプは女性であると考えられており、悪魔学の中でも魔女は女性を指していた。だが、魔女狩りの被害者には男性も、子供も存在する。
男性が伝統的に魔法の担い手とみなされていた地域、例えばアイスランド、バルト三国、ノルマンディー、オーストリアの一部などでは、男性が魔女狩りの犠牲者の大多数を占めていた。これは魔女狩りにおけるジェンダーが、単に女性差別やミソジニーといった側面だけでなく、地域ごとのジェンダー規範や役割分担のあり方とも複雑に絡み合っていたことを示している。魔女狩りにおけるジェンダーの問題は、単純な女性差別という枠組みでは十分に理解することができない点も多い。例えば、魔女を告発した女性が沢山存在する点などについても考えなければならない。
ここで注目すべきは、魔術告発の多くが、女性特有の労働や社会的役割と密接に結びついていたという事実である。フランスやドイツの農村部で頻出した「牛乳を盗む魔女」への告発は、この関係性を示している。
当時、乳搾りは女性の仕事とされていた。彼女たちは毎日、早朝から夕方まで牛の世話をし、乳搾りを行った。この重要な労働は、家族の生存と経済に直結していた。しかし同時に、この責任は彼女たちを脆弱な立場に置くことにもなった。牛の乳量が減少したとき、その原因は容易に隣人の害悪魔術の結果になったのである。
イングリット・アーレント=シュルテが『魔女にされた女性たち』で指摘するように、このような告発の背後には、当時の経済観念が存在していた。人々は「富の総量は一定である」と考えていた。つまり、ある家の牛の乳量が減少すれば、それは誰かが魔術によって「盗んだ」結果だと解釈された。そして、その疑いの目は必然的に、乳搾りという労働を担う女性たちに向けられたのである。
同様の構造は、産婆への告発にも見ることができる。これらの職業に従事する女性たちは、出産や治療の成功によって共同体内で尊敬される重要な地位を得る一方で、失敗した際には激しい非難の対象となった。産婆が告発された事例の多くは医療ミスである。新生児の死亡や治療の失敗は、当時の医療水準では避けられない現実であったにもかかわらず、それは容易に「ウィッチクラフト」の結果として解釈されやすかった。重要なのは、よく誤解されるようにこれらの告発が必ずしも産婆などの特定の職業への組織的な迫害を意味するわけではなかった点だ。
実際に魔女として告発された人々の多くは、何ら魔術的な実践とは無関係な、社会の最も弱い立場にあった人々——未亡人、老婆、浮浪者——だったことは重要である。そして彼らは害悪魔術、ウィッチクラフトをおこなったわけでは無いのである。
大抵の害悪魔術の事例は次のような些細なものである。玄関で貧しい浮浪者の老婆がミルクを求めている。家主はミルクを与えず、厄介者として追い払う。その時老婆はブツブツと何か独り言を言いながら「今に見ておれ」と家主を睨みつけ、呪いの言葉を吐き捨てる。老婆にミルクをあげなかった家主はその後偶然何かのきっかけで腰痛に悩まされたり、家畜がミルクを出さなくなったり、作物が枯れたりするかもしれない。もしもそうなれば「あの老婆が腹いせに呪いをかけたに違いない」という話になるというわけだ。
今日、魔女はフェミニズムの領域で非常に注目される題材となっているが、魔女狩りを単なる「女性への迫害」としてだけ理解することには限界がある。この時代の女性たちは単なる受動的な犠牲者ではなく、複雑な関係性の中で、時にはウィッチクラフトを告発する者として、時に嫌疑をかけられる者として、多様な立場を占めていたことも考慮する必要があるだろう。
民間医療と魔女狩り
現代魔女達は人々の役に立つ薬草の知恵や医療技術を持った所謂「白魔女」を一種のロールモデルのように考える場合がある。しかし、彼らの考える「白魔女」とは何なのだろうか?実際にこの言葉は一部の地域だけで使われていた言葉で、広い地域で使用された言葉ではない。
「わたしのひいおばあちゃんは魔女だった。魔女狩りの時代を生き抜いて……」という話は世界中のいたるところに存在し、おそらくそんな話を聞いたことがある方も読者の中に多く存在すると思うが、魔女狩りの時代に「私は魔女です」と自称する先祖のおばあちゃんは存在しない。当然そんなことがあれば死刑になってしまうからだ。しかし、民間の魔術を実践する人々は各地に存在していた。ウィッチクラフトが現実味を帯びた恐怖でなくなった今日、彼らも後世の人々から「魔女」と呼ばれる場合があるのだ。これは先ほど述べたように「魔女」という言葉の意味が19世紀以降に変化したことと植民地支配の歴史が関係しているだろう。異なる地域の霊的職能者に対して「魔女」という言葉を使うことは当然できないが、実際には植民地支配や帝国主義の影響により、先住民や非西洋文化圏の呪術的な実践者が「魔女(ウィッチ)」という言葉で自称するケースが多々あり、非常に複雑である。ネイティブ・アメリカンは北米の開拓時代に入植してきたプロテスタントの開拓者たちによって明確に悪魔崇拝と結び付けられてきた。ニューイングランドの代表的神学者だったコットン・マーザーは先住民の呪術師やメディスン・パーソン達の宇宙観は悪魔的なものとして描写している。そのため彼らが白人の入植者たちによって「魔女」と扱われたというのは歴史的には間違ってはいない。このような帝国主義と植民地化の歴史的影響により、ネイティブ・アメリカン、メキシコ、ブラジル、バリ島などの民族的背景を持つ人々が、英語を話す際に自らの伝統を説明するために「ウィッチ」という言葉を使うことが一般的になっているという捻じれも存在する。そのため「ひいおばあちゃんは魔女だった。」という言説にも先住民の側から自称するケースがあるという複雑な背景があることを考慮しておきたい。
長らく信じられてきた通説の一つに、魔女狩りが主に産婆や女性の民間医療の実践者を標的にしたという説がある。この説は、19世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレの著作で広められ、特に産婆に焦点が当てられたのは1970年代初頭、アメリカの女性運動の中から生まれた影響力のある著書『魔女、産婆、看護婦』によってであった。この冊子を執筆したディアドリー・イングリッシュとバーバラ・エーレンライクは、クラ―マーの『魔女に与える鉄槌』に記された「産婆ほどカトリック教会に害を及ぼす者はいない」という一節を根拠としていた。
この著作が刊行された1972年当時、アメリカでは女性医師の割合はわずか7%に過ぎなかった。『魔女、産婆、看護婦』が提示した、女性主導のケアや医療が組織的に周縁化されていくという物語は、多くの人々に衝撃を与えた。この本は世界中で翻訳され、自分たちの身体のケアや所有権を取り戻そうとする人々の間で現在でも読み継がれている。
しかし、注意しなければならないのは、教会や世俗権力が実際に産婆を組織的に根絶やしにしようとしていたわけではなかったということである。確かに、産婆が魔女として告発され、処刑されたケースは存在する。だが、現在の研究では、そのようなケースは医療行為に失敗した場合など、全体から見れば例外的で少数だったことが明らかになっている。
スコットランドの魔女狩りに関する最新の調査は、この通説を再考する重要な手がかりを提供した。調査によれば、魔女裁判にかけられた人々のうち、民間療法または産婆術を行っていたと考えられる人々はわずか4%であったことが判明した。この4%のうち約83%が女性であった。魔女裁判の記録には、被告の職業や日常的な活動について詳細が記されていないことが多いため、産婆や治療者であったすべての人々を捉えているわけではない。それでも、4%という数字は、魔女狩りが産婆や女性の民間医療実践者に対する組織的な攻撃であったという解釈を支持するには不十分だろう。残り95%以上の告発は魔術的な職能と関係なく、社会的に周縁化された様々な立場の人々が標的となっていた。
カニングフォーク
当時の民間医療とまじないにたずさわった人々の実態は、現代の単純な「白魔女」というロマンティックなイメージよりもはるかに複雑であった。歴史家ロナルド・ハットンは、カニングマン(狡猾な男)、カニングウーマン(狡猾な女)ワイズマン/ワイズウーマン、ペラー、チャーマー、ウィザード、一部地域では「白魔女」などと呼ばれた人々を、「魔女」とは区別して「サービス魔術師」と呼んでいる。「カニングフォーク」を「魔女」として扱う人々が一定数いるが本来違うものであり、混乱を避けるため本書ではこれらの人々を「カニングフォーク」と呼ぶことにする。
「カニングフォーク」は表向きキリスト教徒であり、キリスト教の祈祷文を唱えながら呪術的な治療を行っていた。彼らは対価を得て民間医療と魔術的なサービスを提供しており、その仕事には産婆術、薬草を使用した民間療法、占い、失せ物探し、呪い除け、そして時には中絶も含まれていた。医療にアクセスする手段がなく、魔術と医療の境界が曖昧だった時代、彼らは地域社会に不可欠な、経験豊かで相談に乗ってくれる貴重な存在だった。
当時は医師が瀉血を施し、四体液説に基づく医療が一般的に行われていた時代である。そのため、治療行為と呪術的実践との境界は必ずしも明確ではなく、魔術と医療はしばしば重なり合って理解されていた。現代の私たちから見れば医療とは呼べないものも多く含まれていたが、正規の医療にアクセスできない貧しい人々にとって、カニングフォークは頼りになる存在であり、尊敬されると同時に恐れられてもいた。彼らの多くは、魔女の害悪魔術に対抗する魔術を行っていると主張し、時には誰が魔女か見分けることができると主張する者もいた。キース・トマスの『宗教と魔術の衰退』は、近世イングランドにおけるカニングフォークの実践を教会側からどう見られていたかということも含めて、具体的に描き出している。彼らは霊の召喚や呪術的治療など、当時の宗教秩序から見ればグレーゾーンに位置する行為を行っていたため、教会にとっては潜在的に異端的な存在であった。しかし一方で、彼らの実践はキリスト教の祈祷文や聖句を用いることが多く、完全な異端として断罪されることは比較的少なかった。その結果、カニングフォークたちは多くの場合、死刑に処されることは免れていた。
しかし、稀に彼らが魔女として告発されるケースがあった。それは治療が失敗した場合である。出産で子供や母親が死ねば、たちまち「魔女」として告発される危険にさらされた。当時の新生児死亡率は非常に高く、産婆は常にこのリスクと隣り合わせであった。人を癒す術を行う者は、呪う力も持っているはずだと考えられていたからである。
ここで重要なのは、カニングフォークたちが「邪悪な魔女が存在するという幻想」をある意味では助長し、時にはウィッチクラフトに対する恐怖を逆手に取った商売をしていたという側面である。彼らは、害悪魔術を行う魔女が実在するという前提で、自分たちはそれに対抗できると宣伝することで、顧客を獲得していた。彼らは地域の情報に精通した調停役でもあり、占いで失せものを探したり、人々の相談に応じることもあった。困りごとがあれば呪術で時に人を脅すことを通じて解決することもあったと言われている。現代でも、アフリカなどで呪術師が魔女狩りに加担するケースが報告されており、この構図は決して過去のものではない。
カニングフォーク自身は、自らを「魔女」とは認識していなかった。彼らは魔女に対抗する魔術を行う者たちであり、キリスト教の枠組みの中で魔術的実践を行っている二重信仰状態であったと考えられている。しかし、その境界は常に曖昧であり、一度ミスをすれば、魔女として告発される危険性を常に抱えていたのである。
女性医療家の知識の排除という裏側の問題
魔女狩りが産婆や女性医療従事者に対する直接的かつ一貫した組織的攻撃であったと断定することは、現在の歴史学では支持されていない。しかしその一方で、スコットランドを含むヨーロッパ各地において、16世紀後半から17世紀にかけて、女性の産婆や民間医療家が医療実践の中心的担い手から徐々に排除されていったこと自体は、歴史的に確認できる現象である。この時期、大学教育と資格制度を基盤とする医師たちは専門職としての地位を確立しつつあり、医療行為を自らの専門領域として独占しようとする動きを強めていた。正規の教育を受けていない産婆や民間の治療者は、徐々に統制すべき存在と見なされるようになっていった。
『魔女、産婆、看護婦』の著者たちは、彼女たちの最初の主張は限られた史料に基づいていたことを、特に『魔女に与える鉄槌』に大きく依拠していたことを認めている。それでもなお、彼女たちが提起した問題意識――すなわち、女性による医療的ケアや治療実践が、近代医療の制度化と専門職化の過程で周縁化されていったという点――自体は、結果として現実に起こった歴史的な変化であった。
魔女狩りは女性の医療家そのものへの攻撃というよりも、共同体における緊張関係が爆発する際の構造的暴力だった。しかしその裏側で看過できない変化が進行していた。女性たちが世代を超えて培ってきた経験的知識が、新たに形成されつつあった医療の制度的枠組みから排除されていったのである。
産婆たちは、何世代にもわたる出産の現場で得られた知識を口承で継承してきた。薬草の使用法、出産時の身体の扱い方、産後の女性のケア——こうした実践知は、身体に触れることから生まれる知であり、それぞれの女性の身体に応答する柔軟性を持っていた。しかしその多くは、西洋の近代医学の体系には組み込まれなかった。
筆者は、産婆が殺され、女性の知識が失われたのは、結果的に起こったことだと考えている。つまり、最初から産婆を標的にした組織的な迫害があったというよりは、魔女狩りという広範な暴力の過程で、結果として産婆や民間の治療師も巻き込まれ、彼女たちの知識が失われていったということだ。しかし、そうした留保を置いた上でも、シルヴィア・フェデリーチによる研究は見ていく価値がある。なぜなら彼女の分析は、魔女狩りと資本主義の誕生、植民地主義、そして女性の身体の管理という問題を、極めて示唆に富む形で接続しているからだ。
(次回へつづく)
【註】
註1:なお、第一と第二の定義の境界は、地域によって必ずしも明確ではない。たとえばエヴァ・ポーチの研究したハンガリーのタルトス(魔術的職能者)のように、害悪魔術を行う者と呪術的治療を行う者が重なり合う場合もあり、魔女や魔術師は本質的に「両義的」と考えられていた地域もある。彼らは善良な魔術師として邪悪な魔女と戦うとされながら、時には人々に危害を加えていたことが記録されており、自らも魔女として告発される危険を抱えていた。「善い魔術」と「悪い魔術」の境界は、思うほど単純ではなかったのである。
註2:「異教に対するキリスト教の弾圧であった」「多くの場合、民間の医療家がターゲットになった」など、現代魔女文化と魔女狩りについて語るとき、こうした「魔女カルト理論」に起因する誤解が今なお根強いことに触れなければならない。かつてマーガレット・マレーが提唱し、広く信じられていた「魔女カルト理論」を鵜呑みにする実践者はむしろ現在では少数派だろう。これまで述べてきたように、現代魔女たちは自らの実践する文化を自己批判的に研究する傾向がある。実際、在野の民俗学研究者のような実践者が多く存在し、ジェラルド・ガードナーがそうであったように、学術的な知見を取り込みながら実践を変容させてきた。この七十年ほどの間、彼らの歴史観は絶えず修正され、更新され続けている。私が出会ってきた現代魔女の多くが、マレーの理論に基づく「ウイッカ神話」を、歴史的事実としてではなく、ドライに、一つのロマンティックな象徴的神話として捉えている。その一方で、魔女裁判の記録や悪魔学の文献に登場する民俗学的な要素には、ある種のロマンを持って向き合い、深く探求する傾向もある。

フィクションの世界のなかや、古い歴史のなかにしか存在しないと思われている「魔女」。しかしその実践や精神は現代でも継承されており、私たちの生活や社会、世界の見え方を変えうる力を持っている。本連載ではアメリカ西海岸で「現代魔女術(げんだいまじょじゅつ)」を実践しはじめ、現代魔女文化を研究し、魔術の実践や儀式、執筆活動をおこなっている円香氏が、その歴史や文脈を解説する。
プロフィール

まどか
現代魔女。アーティスト。留学先のLAでスターホークの共同設立したリクレイミングの魔女達に出会い、クラフトを本格的に学びはじめる。現在はモダンウィッチクラフトの歴史や文化を日本に紹介している。未来魔女会議主宰。『文藝』『エトセトラ』『ムー』『Vogue』『WIRED』などに現代魔女に関するインタビューや記事を掲載。2023年から逆卷しとねとキメラ化し、まどかしとね名義でZINE『サイボーグ魔女宣言』を発売。笠間書院にて『Hello Witches! ! ~21世紀の魔女たちと~』を連載中。


円香




内田 樹×青木 理


