それはどんな「対話」を生むか? ──伊藤詩織監督『Black Box Diaries』を考察する〈前編〉

蓮実里菜

海外では公開が始まっていた伊藤詩織監督映画『Black Box Diaries』の日本公開が2025年末から始まり、上映館をじわじわ拡大し、現在は広範な地域で見られるようになった。
不同意か、不正義か、それとも──。
当事者が監督した本作は、何を浮かび上がらせるのだろうか? 作品の一部の映像や音声の無許諾使用問題が指摘されて以降、伊藤監督は「公益性のため」という言葉と、承諾を取っていなかった個人への謝意が入り交じる声明を続けてきたが、その作品にはどのような“公益性”が宿っているのだろうか。今、改めて考えてみたい。

セレブ自伝に、ドキュメーシャル? 米国ドキュメンタリーが抱える問題の視点から

本作品をめぐっては、作品が米アカデミー賞にノミネートされた前後に多くの論評が国内で出され、「不同意使用」されたものたち──特にホテルの防犯カメラの映像など──は、“欧米基準”では問題がない、「人権意識の高い」国では問題がない──と解説するものも多いようであった。しかし、本当にそうだろうか? 本作品を考える上で非常に刺激的なレンズとなるのは、一本の、米国発の記事である。

2025年1月の米誌Hollywood Reporter「音楽とセレブ自伝は、ドキュメンタリーを殺すのか?」(Are Music and Other Celebrity Films Killing the Documentary?)は、しっかりしたストーリーテリングや報道性は周縁へと追いやられ、「ドキュメンタリーはブランド管理の手段へと変容している」と、アメリカのドキュメンタリーの直近の現状を憂慮する。長年、アーティストや俳優、アスリートという「撮られる側」は企業やレーベル、チームに制作の主導権を握られてきたが、いまや力関係はその反対になっており、問題なのは、プラットフォームが時に取材対象に報酬を支払い、実質的に監督のような立場を与えていることだという。たとえばアーティストドキュメンタリーで楽曲の権利取得が必要な場合、管理団体からの監視が厳しく、当たり障りのない内容しか盛り込めないなど、いまのノンフィクション作品の多くは、「(被写体となる彼らが)見せたいことだけを見せる」──それはもはやドキュメンタリーというより、“ドキュメーシャル”(ドキュメンタリー+コマーシャル)化している、というのである。それを象徴するように、エミー賞のドキュメンタリー部門は、かつてはベトナム戦争の捕虜、刑務所の隠蔽、子どものミスコン、人種的不平等など幅広い社会問題を扱っていたが、近年では様相が変わり、2024年には、ノミネート作のうち4本が公認のセレブ自伝であり、前年も同様だった、と述べている。

「性被害にあった体験を自らジャーナリストとして調査した日々をドキュメンタリーにした」という伊藤作品の表記からは、これらの懸念は一見無縁に思える。しかし、『Black Box Diaries』をその本質
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から捉え直した場合、その言葉は皮肉にも、被写体であり、監督でもある伊藤詩織さんのそれは、「ドキュメーシャル」で、「セレブ自伝」か、というパラレルな問いを投げかけていく。

伊藤詩織さんの裁判を全回にわたり傍聴したという性暴力を専門にするライターの小川たまか氏は、「詩織さんの裁判は、不利な証拠があっても民事裁判で勝訴した点こそが重要だったのに、映画内で、なぜ完全無欠の被害者であるように見せたいのか」と述べるが、“不利な証拠”とは、性行為が同意の上に行われたものと解釈され得る側面や証拠、という意味である。確かに映画では、「不同意性交が行われた証拠」に見えるシーンが重なるが、それらは「十分ではない」と性暴力に理解のない社会の警察に理不尽に否定され、訴えは権力によって握りつぶされていくように見え、「どうして」と、主人公伊藤詩織さんの目線に寄り添う作りとなっているためだ。簡単にいえば、伊藤さんの主張を表現するシーンは出てくるが、それらに相対する証言や証拠は一つも出てこないため、伊藤さんの遭遇する壁は、付帯情報として提示される、「110年間改正されていない日本の古いレイプ刑法」「被害者の4%しか警察に通報しない文化」という衝撃的な統計数字、あるいは伊藤さんに寄せられる無神経に思える人々の言葉を通して、「性暴力への不理解」もしくは「権力者の介入によって、逮捕が中止されたため」という解釈に導かれていく、というわけである。

「音楽とセレブ自伝は、ドキュメンタリーを殺すのか?」記事は、セレブ自伝化する音楽ドキュメンタリーを憂い、『ロード・ダイアリー』に関しては(ブルース・スプリングスティーン中心のドキュメンタリー)、Hollywood Reporterは「掘り下げも網羅もない」と評し、『ジョン・ウィリアムズの音楽』については英紙The Guardianが「その人間性はつかめない」と指摘。『I Am: Celine Dion』に至っては、米国のエンターテイメント誌Varietyが「被写体が嫌がる要素は一切排除されている印象」とまで書いたと記すが、作品に映し出されることを視聴者が能動的に疑う情報量がない空間で、“ドキュメーシャル”(被写体のコマーシャル化したドキュメンタリー)は、果たしてドキュメーシャルであると評されることがあるだろうか?という疑問が浮かぶ。

『I Am: Celine Dion』に対し、Varietyが「被写体が嫌がる要素は一切排除されている印象」と評するのは、セリーヌ・ディオンの人物像に関して、「公然と知られている、作品外の豊富な事実」が存在し、さらに「作品上に映るセリーヌ・ディオン」という対比が存在するからである。しかし、本来のドキュメンタリー──“本人サイドが実質的に監修するセレブ自伝”ではなく、その作品を通して、初めて世の中に知られるようなことに目を向けているようなもの──においては、その対象が、ドキュメンタリーを通して初めて知られるようなものであるからこそ、その製作過程の「取捨選択」において、「映し出されたもの」に対して捨てられたものが何かという答えあわせを、視聴者はすることができない。

伊藤映画に関して言えば、「映画から外された要素」については、裁判資料は日本語で、日本の裁判所は、資料の閲覧ですら現地に行かないとできないという壁に阻まれているのだから、それをクロスチェックするような見方をするオーディエンスは、英語圏にはいないだろう、ということだ。

では、伊藤映画に関して、作中で描かれたものと、描かれなかったものとは、なんだったのだろうか。

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プロフィール

蓮実里菜

(はすみ りな)

1988年生まれ。文筆家。22 歳で単身渡米し、コロンビア大学で社会学を専攻。卒業後は外資系の経営コンサルタントを経て、現在は日米のデュアルカルチャー性と社会学的視点を活かし、書籍やコラムを日英二言語で執筆。多文化共生、フェミニズム、教育と格差の流動性、ジャーナリズムなどが主な関心領域。

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