カルチャーから見る、韓国社会の素顔 第2回

『サイコだけど大丈夫』―韓国的兄弟、治癒のための韓国料理、韓国人のトラウマ、「クレメンタインの歌」の謎  

伊東順子

兄と弟――韓国的家族関係とアイデンティティ

 自閉症の兄と弟の二人のロードムービー的な始まりを見て思い出すのはアメリカ映画の名作、ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ主演の映画『レインマン』(1988年)だ。たしかに若き日のトム・クルーズとキム・スヒョンのイメージは重なる部分も多いし、兄弟の情が変化していく過程には似ているところもある。ただ、やはりアメリカと韓国では兄弟の関係のあり方がとても違う。「理想とする兄弟像の違い」という言い方の方がいいかもしれない。

 それにはまず韓国の家族名称を知ることが大切だ。ただ、私も翻訳の仕事をしているのでわかるが、外国作品を翻訳するときに家族親族名称は実に厄介なものである。字幕担当者はたいへん苦労する。

 たとえば英語のbrotherには兄と弟と両方の意味がある。でも、日本語にする時はどちらかに決めなければいけない場合が多い。逆に日本語を英語にする場合は、兄はelder brother、弟はyounger brother と訳すこともできるが省略することも多い。一方、韓国語の場合、兄は「ヒョン」、弟は「トンセン」。日本語と同じく兄と弟は区別する。

 「じゃあ英語に比べたら韓国語は日本語に翻訳しやすいですね?」と、思われるかもしれないが、残念なことに韓国語で[弟]を指す「トンセン」という言葉は[妹]にも使えてしまう。必要に応じて、男(ナム)トンセン、女(ヨ)トンセンという言い方もするが、こちらもまた翻訳者泣かせである。さらに韓国語の「兄」には2種類の言い方があって、弟からは「ヒョン」なのだが、妹からは「オッパ」となる。同じく「姉」も弟からは「ヌナ」、妹からが「オンニ」と区別がある。しかも、やっかいなことに韓国では、その家族呼称が血縁のない人間関係にも使われる。たとえば男性が年上の友人を「ヒョン」や「ヌナ」と呼んだり、女性が彼氏のことを「オッパ」と呼んだり。こうことはすでに韓国ドラマや韓国文化に親しんでいる人にはよく知られている。

 「関西人もそういうところがありますよ。他人にもお姉ちゃんとか、お兄ちゃんとかいいます。親しみをこめて」と、言われることもあるが、韓国人の場合は関西人とちがって、親しみというより厳格なルールに基づいている。この「サイコだけど大丈夫」という作品でも、その「厳格さ」が重要なポイントになっている。

 特に「ヒョン」という言葉。印象的だったのは、通常なら「ヒョン」と呼ぶべき親友(ジェス)に対して、ガンテがその呼び方を頑なに拒否するシーンだ。「俺の兄は1人しかいないから」。兄のサンテもまた別の場面で何度も「自分は兄だ、実の兄なんだ」ということを強調する。ここは韓国的な文脈では非常に重要である。

 このドラマは兄弟の成長物語という側面が強いのだが、それは彼らが「韓国的な兄弟関係」を回復していく過程でもある。そのためには兄以上に弟の側のトラウマ治療が必要だったのだが、それはともかく、この作品は韓国において、個人のアイデンティティと家族との関係がいかに重要であるかを、大変丁寧に描いている。

 付け加えるなら、このドラマで「オッパ」という妹から兄への言葉も、とても効果的に挿入されている。主人公兄弟よりもさらに孤独な存在として描かれる「サイコな童話作家」コ・ムニョンが、兄弟の兄を「オッパ」と呼び始めるのは、彼女が心を開いた合図である。ただ日本語字幕だとオッパではなく「サンテさん」となっており、その部分は伝わりにくい。

 彼らが回復しようとした「韓国的兄弟関係」。それはすでに現実の韓国社会でも、失われつつある。それを取り戻していく兄弟に対する周囲の羨望の視線は、ドラマの後半どんどんは明確になり、視聴者にも共有されていく。かつて『レインマン』を見たアメリカ人も、そこは同じだったのではないかと思う。

 

治癒のための韓国料理

 すでに述べたようにこのドラマは「兄弟の成長物語」であり、そしてもう一つの大きなテーマが「トラウマの治癒」である。その治癒を助けるのは「愛」、それは少々ベタすぎるかもしれない。ただ、メタファーとして登場する数々の韓国料理は非常に興味深い。その中で特に重要なのはチャンポン、うずらの卵の醤油煮、お粥など。その他にステーキ、テンジャンチゲ、サムギョプサルなども出てくるが、いずれの場合もメニューだけでなく、その食べ方にもメッセージが込められている。

 チャンポンは主人公兄弟の母親との思い出として初回から登場してくる。ガンテがソウルから海辺の街に引っ越す決断を押したのは、兄の「チャンポンが美味しかった」という回想のひと言だった。チャンポンは炸(チャ)醤(ジャン)麺(ミョン)(韓国風ジャージャー麺)とともに韓国中華の定番だが、それは「ハレの日の外出」を意味する。韓国が今のように豊かになる前、子どもたちにとって最も身近な外食は「町内の中華料理店」であり、そこで食べる炸醤麺やチャンポンは自宅では食べられない特別なメニューだった。(1990年代まで、韓国の子どもたちの最も好きな料理のアンケートで、常に炸醤麺がトップで、その後はとんかつ、ピザ、チキンなどと変遷していく)。

 それと対になるのが、主人公ガンテが朝食に作るテンジャンチゲだ。テンジャンチゲはおふくろの味。この家庭料理の定番と中華料理の定番は、どちらも韓国の人々にとって大切なソウルフードである。

 

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カルチャーから見る、韓国社会の素顔

「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。

プロフィール

伊東順子

ライター。編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房、斎藤真理子訳)の解説を担当。

 
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