徳光和夫の昭和プロレス夜話 第6夜

「受け身の高千穂」「エリート坂口」、印象に残る日本人レスラー

徳光和夫
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「いま、米良ちゃんの受け身の上手さについて語らせていただきましたけども、実況を担当していた当時の私も受け身をどう表現するかに苦心していましたし、気を付けていました」

 

 それは興味深い話です。

 

「その前にですね、私の場合、実況の際に英語の単語を日本語としてはっきりわかるように伝えるために、極めてゆっくりしゃべることも原則にしていたんです。例えば、アメリカのテレビ局のアナウンサーはクラッシャー・リソワスキーを呼ぶとき流暢に「クラッシャリソスキ」と発音したりするんですよ。でも、私はなるべくゆっくりわかりやすく外国人選手の名前を言っていました。だって、カッコいい名前じゃないですか、クラッシャー・リソワスキーって。ディック・ザ・ブルーザーなんてしびれる名前でしょ。それを早口で中継したら、実にもったいない(笑)。そして、受け身の攻防をどう表現して伝えるか。その点も私のプロレス実況における大事な原則のひとつでしたね」

 

 受け身の攻防をいかに表現するかに腐心していたのは、その攻防こそがプロレスの本質だとの思いもあったから?

 

「そういうことになりますね。投げ技にしても、投げる側も投げられている側にも凄みが漂うような、ね。また実況を耳にする視聴者が同じように体感できるような表現を探し続けていました。例えば、投げ技なら『弧を描く』や『放物線』『対角線上』とか。そういう言葉を見つけ出して実況で活かすことによって、その投げ技がいかに大きく見えるかってことを意識していましたよね」

 

 受け身の攻防において、しゃべるテンポも変えたりはしていたのですか。

 

「そう、ソコなんですよ、肝心なところは。私の場合、レスラーの試合の流れに沿ってしゃべりに緩急をつけるようにしていましたね。一方が派手な投げ技を繰り出したらテンポを上げ、その流れでグラウンドの攻防になったらテンポを遅くする。この緩急をつける実況スタイルというのは、そもそも先輩の清水アナが、ほとんど【急】ばかりの実況スタイルだったので、先輩との差別化を図るためにはどうすればいいか悩んだ末に、自分は【緩】を取り入れようとした結果なんです」

 

 なるほど、なるほど。

 

「このスタイルの一番の利点は、両者がグラウンドの攻防になった際に【緩】にしていたのですけども、しゃべりが緩やかな分、わりと丁寧に各選手の経歴などを茶の間に伝えることができたこと。それから、実況する相手の呼吸といいますか、動き出すタイミングを計る訓練ができたことです。

 例えば、両者がグラウンドの攻防に入りますよね、そこで動きをよく観察していると、この攻防は1分くらい続くだろうと読めるようになるわけです。そうしたら、その1分間で選手の経歴やトピックスを丁寧にゆっくりとしゃべる。それで動きの変化から両者がスタンディングで激しい攻防になりそうだなとなれば【緩】のしゃべりから【急】の語りにチェンジする。この【緩急】をつけた実況は、その後の仕事にもいい影響といいますかね、役に立ちましたよ。プロレスの実況を通し、私はアナウンサーとして育てられましたけど、この【緩急】をつけた語りの重要性も学ばせていただいたかな。

 それこそ後に私は音楽番組や歌謡ショーの司会を担当しましたが、そういう仕事こそ【緩急】の語らいが活きてくるんですよ。例えば、歌謡ショーのステージで歌い手さんがしずしずと登場してくる。曲のイントロが流れてくる。そのときに【緩】の語りでゆっくりと味わい深く曲の世界観を語り、歌い出し寸前に【急】のテンポで歌手名と曲名を告げる――。“落とした涙を一つずつ拾い集めて歌うよな”……ここまでは【緩】のテンポにしておいて“さあ、八代演歌の決定版『舟歌』です”と【急】のテンポでしっかり紡ぐ」

撮影/五十嵐和博

 

 パチパチパチパチ。

 

「そんな感じです、ええ、はい(笑)」

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

 
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