カルチャーから見る、韓国社会の素顔 第1回

『82年生まれ、キム・ジヨン』――原作と映画、それぞれの凄絶

伊東順子

私はキム・ジヨン、でも夫はコン・ユではない 

 それはともかくコン・ユはすごい俳優だ。原作と映画における最大の違いは彼の存在だ。原作にはいないコン・ユが映画にはいる。これが実に大きな問題なのだ。

 「なんで? チョン・ユミだっているじゃん」

 コン・ユ推しの友人の反応はいちいち敏感だが、映画と原作の最大の違いはキャストの存在である。キム・ジヨン氏役のチョン・ユミをはじめ、原作では見えなかった登場人物の姿形が、映画で視覚化された。特に原作では全く存在感のなかった夫チョン・デヒョン氏だが、映画では彼(つまりコン・ユ)の葛藤する姿がストーリーの中心となる。

 原作の登場人物に「顔がない」。その構造を見事に表したのは、日本語版の表紙カバーを担当した名久井直子さん(装丁)と榎本マリコさん(装画)だろう。表紙に描かれた女性の顔は白抜きで、まるで観光地の2次元コスプレさながら、そこに入れば誰でもキム・ジヨンになれる。 

 ところが映画ではそれぞれが顔をもって登場した。しかも皆が一流の役者だけにインパクトは強く、映画を見た後では原作に言及しようとしても、登場人物が全て映画の中の人物でイメージされてしまう。ここで一つ心配が生じる。果たして映画を見た後で原作を読む人々は、そこに自分や周囲の人々を投影できるだろうか?

 アメリカで始まったフェミニズム運動には「個人的なことは政治的である」という考えがあった。個人的な体験、自分だけの問題、自己責任だと諦めていたことが、じつは社会全体の問題であること。同じようにつらい思いをしていた人がたくさんいること。2018年に韓国で始まったMetoo運動と同じく、原作には女性たちの連帯意識を喚起する力があった。

 映画はどうだったか。少なくとも韓国では原作ほどの力は発揮できなかったように思う。ネットでの匿名書き込みなどを見ても、そんな感想が並んでいた。

 「そもそも夫がコン・ユっていうのが、非現実的だよ」

 なるほど、私はキム・ジヨン、でも夫はコン・ユではない、か。

でも、キム・ジヨンはお金に困っていないでしょう?

 くりかえすようだが、今回、あらためてコン・ユという俳優の人気ぶりを実感した。韓国で映画の感想を聞くと、ほとんどの人がコン・ユの話をするのだ。

 彼とチョン・ユミのコンビがこの映画に出演すると知った時、それはとてもいいと思った。特にコン・ユは映画『トガニ』(養護施設での入居者への性的暴行を題材にした映画。2012年、ファン・ドンヒョク監督)の印象が強く、軍服務中に原作を読んで自ら映画化を構想したというエピソードはよく知られていた。また芸名に父親と母親の姓を合わせて使用していることでも好感度は高い。韓国は中国などと同じく結婚しても夫婦別姓のままだが、以前の法律では子どもは父親の姓を継ぐものと決められていた。そこで女性運動をする人などでは、意識的に両親の姓をつなげて使う人もいた。その後、民法改正で母親姓も可能になったが、今も父親姓を名乗る人が圧倒的に多いことは原作に詳しく書かれている。

 ところで、登場人物の顔とともに映画で視覚化されたのは、彼らの暮らしぶりだった。マンションの規模や室内の様子、自家用車、それぞれの職場環境。日本人にとっては「外国映画」だから、その暮らしは興味深いし、想像力の入る余地も十分にある。そこに共通点を発見すれば、韓国でもそうなんだと共感も深まる。でも、韓国で暮らす人にとっては、生々しい。映画が「中間層」を表現しているのはよくわかる。富裕層でもなく、貧困層でもなく、平均的な韓国人の生活空間。家具やベビーカーなども、キム・ジヨンの周りにあるもの全て普通だ。

 「でも、キム・ジヨンはお金に困ってないじゃん」 

 映画を見てイラついたという3人の子どもの母親に、じゃあ大学生の娘にも感想を聞いてみてと頼んだ。

 「若い子は現実を知らないからね。映画、とっても面白く見たって言っていた。ちょっと悲しかったけど、でもこれが現実だから。リアルな映画だと思ったそうよ、コン・ユみたいなイケメン夫以外は」

 ほお、大学生からみてもコン・ユはイケメンなんだ。それはともかく、原作の時もそうだったが、映画もやはり世代によって見方がかなり異なる印象だ。家族でも見えている「現実」が違う。

 この大学生の娘さんは大学のフェミニズムサークルに加入し、それとは別に日本アニメの同人サークルもやっている。小さい頃から日本大好きと言っていた。そこでふと思った。彼女は果たして「日本の現実」を知っているだろうか。たとえば、女だからという理由で「家から通える地方大学以外は行かせない」と言われる子たちが今の日本にはいることを。30年前の韓国の話ではなく、今の日本の現実として。

 

過去は日本よりも悲惨だったが……

 さて、ここからは日本の話をしよう--とサンデル教授のように言いたいところだが、それはテーマではないので少しだけ。過去はともかく現在に関しては、おそらく日本の方が、特に若い女性の置かれている状況はしんどいように見える。

 小説『82年生まれ、キム・ジヨン』は、キム・ジヨンの成長にしたがって、韓国女性の地位が変化していく様子が、まるで年表のように順を追って描かれている。それを読んでいくと、日韓の逆転が始まるのが2000年代初頭だということが見えてくる。

 メルクマールとなるのは2005年の戸主制廃止決定だろう。日本の植民地支配の置き土産的といわれた戸籍制度はなくなり、個人登録制に切り替わった。これに向かう韓国社会の熱気はすごかった。テレビは朝夜ともに未婚の母をテーマにした連続ドラマを放映し(『あなたはまだ夢を見ているのか』(MBC、2003年)『黄色いハンカチ』(KBS、2003年)、それら戸主制をターゲットにしたドラマは大ヒットしたばかりではなく、数々のテレビ大賞を総なめした。ちなみにこの少し前に韓国ではテレビ部門に「男女平等賞」(のちに両性平等賞)がもうけられ、男女平等を意識した番組が精力的に作られてきた。

 よく知られているように、韓国のドラマは映画などに比べても、はるかに女性たちが活躍する現場である。私ごとだが1990年代半ばに韓国のテレビ業界の仕事を少し経験した折、ソウル大卒ディレクター志望みたいな女性が一挙に増えたのを覚えている。それまで女性といえばアナウンサーか放送作家だった。

 韓国ドラマは一貫して「女性の味方」だった。2000年代から10年分の作品に関しては、ジェンダー研究者の山下英愛さんの『女たちの韓流――韓国ドラマを読み解く』(岩波新書、2013年)に詳しい。それ以前にも男児選好思想に正面から切り込んだ「息子と娘」(1992年、MBC)が40%超えの視聴率で大きな話題となったこともあった。

 日韓の逆転という意味で、もう一つ付け加えたいのは2010年代に入って韓国の地方自治体ごとに制定されていった「学生人権条例」である。そこには生徒への体罰の禁止だけでなく、服装や頭髪の自由や持ち物検査の禁止、校内集会の禁止等も盛り込まれた。これに関しては拙著『韓国 現地からの報告--セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書、2020年)に詳しく記したが、「茶髪もミニスカートもOK」という自由を中学生で経験した子たちが、今ちょうど大学生である。日韓の姉妹校交流などに参加してみると、韓国の子たちの垢抜けた様子にびっくりする。

 それと比べて、日本の中学生はいまだにがんじがらめの規則の中にいる。寒くてもタイツ禁止とか、コート禁止のところもあると聞いた。さらにマスクも白限定とか、不合理極まりなさに目眩がする。日本には私自身が30年以上前に体験した悔しいことが今もそのまま残っていたり(夫婦別姓の不可なども)、また中高生に関しては私の時代よりも状況が悪化していると思えることもある。

 それなのに、日本には「韓国は遅れた国だ」と思っている人が少なくない。露骨な嫌韓書ではないものの、韓国の問題点を強調したネット記事なども多い(その方がヒット数が稼げるという話も聞いた)。日本人の隣国への視線は少し歪んでいると感じることが時々ある。

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第2回  
カルチャーから見る、韓国社会の素顔

「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。

プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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『82年生まれ、キム・ジヨン』――原作と映画、それぞれの凄絶