ガザの声を聴け 2024 第3回

崩壊した街

清田明宏

ガザ市へ

今回の 3 月 20 日からの訪問はガザ南部のラファを基盤にした南部3県(デイルバラ、ハンユニス、ラファ)が中心だった。ガザの北部にあるガザ市や北ガザ県も訪問したかったが、治安の状況、UNRWA を取り巻く厳しい状況があり、最初の2週間はできなかった。しかし、4 月 6 日と 8 日、2 回、ガザ市を訪問できた。

4 月 6 日の訪問は WHO との合同ミッションで、爆撃で負傷した職員をガザ市からラファへの医療避難させるためだった。4 月 8 日の訪問はガザ市内の UNRWA の臨時クリニックへ医薬品を運ぶものであった。今回はガザ市内での滞在時間が長かった 4 月 8 日の訪問について述べる。

当日の訪問は複数の国連機関との合同ミッションであった。UNDSS(国連安全保障部)、OCHA(人道問題調整事務所)、UNMAS(国連地雷対策サービス)、WHOそして UNRWA に、防弾車 4 台と医薬品を積んだトラックからなるコンボイだ。当日ラファの OCHA 事務所に朝 7 時に集合。それからイスラエル側の移動許可が出るまで3 時間待ち続ける。この長い待ち時間は結構普通だ。そして、許可が出てラファから、海岸沿いの道を北上、ハンユニスを経てガザ中部のデイルバラに着く。そこで海岸線を離れ内陸部に向かい、ガザを南北に縦断するサラハディン通りに到着。そこを北上しながら、ガザ市の入り口になるワディガザを超え、ガザ市に向かうルートだ。

出発 1 時間ぐらいでガザ中部のデイルバラを抜け、内陸部のサラハディン通りに近づいた。すると崩壊した建物が増えていく。あたり一面爆撃でやられている。2014 年の戦争を思い出し、不安感が増す。

デイルバラからサラハディン通りに向かう途中。4 月 8 日

サラハディン通りを北上する。4 月 8 日

そして、サラハディン通りをガザ市に向け北上を続けると、ガザ市の入り口のワディガザに出る。ワディガザにかかる橋を越え、ガザ市に入る直前にイスラエル軍の検問所がある。そこを過ぎるといよいよガザ市だ。そこで、私の心が止まった。

ガザ市に入る道。4 月 8 日

凄まじい崩壊だ。目を疑った。しかし私の心が止まった本当の理由は、崩壊のためではない。この道のせいだ。この写真の道は当初は戦争中に新しくできた道だと思っていた。全く見覚えがなく、舗装がない砂埃が舞う道だったからだ。どこにいるか分からず、北上を続けていた。そして、ふとスマホの地図アプリを見た。そして、心が止まった。この道はサラハディン通りだったのだ。

サラハディン通りはガザを南北に走る幹線道路だ。片道3車線のハイウェー、広い道だ。ガザに行った際、何度も通って仕事先に向かった。クリニック、難民キャンプへだ。馴染みのある道だ。それが、この砂埃に包まれた道なのか。信じられず地図を再度見た。間違いない。よく見れば道の真ん中に高い電柱がある。サラハディン通りだ。でも、まだ信じられない。この目で見たものが全く信じられない。信じたくない。

この衝撃はガザ市訪問中、ずっと続いた。そして、今も続いている。自分の目で見たものが信じられない、納得できない。私の知っているガザ市はどこに行ってしまったのだろうと。心が止まっている間も防弾車は進んでいく。そしてさらに決定的な衝撃が待っていた。崩壊した道の先に1000人を超える男性が立っているのだ。どこにいくでもなく、死んだ表情で、痩せた男性が立っている。ある人が、ゾンビのようだ、と言っていたが、そう感じた。彼らがずっと我々の方を見ている。「死の街」と感じた。呆然とした。

彼らは、食料を積んだトラックが来るのを待っているのだ。そして、トラックを見たら、全員が走る。無表情で、あるものは怒りの顔で。我先にとトラックの荷台に乗り、食料を奪い取る。この略奪は防ぎようがない。閉鎖されたコンテナにすれば、と思ったが、それでも彼らはコンテナの上に登り、穴を開け、中を確認するそうだ。そして食糧があれば全て略奪する。無法地帯、無秩序とも言えるが、それほどの食糧危機だ。

我々のコンボイにもトラックが 1 台ある。医薬品を積んだトラックだ。今回のコンボイでは、私の乗った車が先導者で、その後ろをトラックが、そしてその後ろにもう一台車がある。薬だと略奪されないので、荷台や荷物(段ボール箱)に「薬」と大きく書いたが、このトラックを見た彼らはトラックに向かって殺到する。以前、薬の下に食料を隠して運ぼうとした例があるく、トラックに向け走っていく。先導する車の横を駆け抜けていく。車のサイドミラーで彼らの動きを確認する。トラックにつくと、荷台に登り、内容を確認している。段ボールの下の方まで探っている。そして、薬だけだと確認したようで、彼らはトラックから降りていく。略奪もなくそのままトラックの移動が続く。もしあれが食料であったら、その場で全て略奪されていた。ガザの荒廃、人々の心の崩壊、そして社会の荒廃をこの目で見た気がした。

医薬品を積むトラック。出発前、ラファで。4 月 8 日

群集を通り抜け、コンボイは進んでいく。しばらくいくと、市街地のようなところに到達した。両側に崩壊したビルが続く。凄まじい破壊だ。そして、再度スマホを確認する。やはり我々はまだサラハディン通り上であった。信じられない。地図を見ると、確実に以前来たことがある場所だ。全く見当がつかない。正直どこにいるのか全く分からない。知っているはずの街なのに。この衝撃は大きかった。心が大きく壊れていく気がした。

ガザ市内。4 月 8 日

そして、北上を続けたサラハディン通りから左に曲がり、通りの西側に広がる市街地に入っていった。依然として崩壊した街並みが続く。そして人がいる。このとき初めて多くの人がいることに気づいた。この崩壊した街にまだ人が多くいる。女性や子供もいる。子供を抱えて歩いている女性もいる。自転車で移動する人もいる。この崩壊した街でどうやって暮らしているのだろうか。推計では 30 万人いるらしい。全く想像ができない。

ガザ市内。4 月 8 日

市内には大きな空爆の跡だろうか、クレーターがあった。周りの建造物が全て壊されていた。崩壊した街の中を進む。しばらくすると真ん中に木々がある2車線と思われる通りに出た。見たことがある気がしたが、またも全く分からない。どこだろうか。そこでまた恐る恐る地図アプリを見た。ガザ市の一番賑やかであるはずのオマールモクタル通りだった。これも衝撃だった。今まで何度も来たことがあり、私の好きなパレスチナ刺繍の装飾屋、洒落たカフェもある通りだ。全然違う。私の知ったガザ市ではない。

ガザ市内。4 月 8 日

このオマールモクタル通りと思われる通りを右に折れ、また左に回り進んだ。すると、通りが完全な砂道になった。いきなりガザ市から郊外の砂地に出た気がした。もちろん、どこにいるか全くわからない。ガザ市内に砂浜の道はなく、元々は塗装だったのでは、と運転する同僚に聞いてみると、大きな軍事車両等が通ると、その重みで舗装が全て取れ、下にある砂地が出てくるらしい。そのせいか道には大きな窪みがあり、我々のような4輪駆動の車でなければ進行が困難だ。地図アプリで場所の確認は続けて行ったが、地図と目で見るものが全く合わない。ガザ市ではない、とずっと感じていた。

ガザ市内。4 月 8 日

そして最後に衝撃的なビルが待っていた。シーファ病院だ。ガザ最大の中央病院、今まで、何度も行っている。それが無残な姿を晒していた。爆撃であいたと思われる穴が多くあり、焼け焦げたところも多い。今まで多くに人々の命を救ったあのシーファ病院が死に絶えている、そう感じた。私の知っているガザ市は無くなってしまった。そう感じた。その瞬間、私の心も大きく壊れた。

シーファ病院。4 月 8 日

この後、我々はさらに車を進め、ガザ市内にある UNRWA の学校に向かった。そこに最近できた臨時診療所に行き、運んできた薬剤を届けた。働く職員に会い、話を聞き、お礼を伝えた。以前から知った顔も多く、再会は本当に嬉しかった。戦争が始まってからずっとガザ市に残り、想像を絶する厳しい環境を生き延びている。皆体重は減り、肉は全く食べていない。その厳しい環境のなかを、自宅から 1 時間ぐらい歩いてクリニックに通っている。ガザ市内ではガソリンがなく、車も多く壊され、移動手段は歩くのみだ。それでも通ってくる。ガザ市内にある4つのクリニックで働いていた職員がここに集まっている。患者の世話をし、理学療法もしている。薬剤を運んできて本当に良かった。少しでも恩返しができた。そう思った。

47

ガザ市内の避難所。4 月 8 日

しかし、私の心は大きく壊れた

今までよく知っていた街がこれほどまでに壊されたのを見るのは初めてであった。圧倒的な破壊を目の前にし、自分がどこにいるか、全くわからない。地図で確認しても、全く認識できない。目から見えるものと、心の中の想いが、全く相容れない。そのショックはとても大きかった。

今回のガザ市訪問では多くのビデオ、写真を撮った。通常、出張の際に撮った写真はその日の夜に見る。どんなものが撮れているか、きちんと撮れているかを確認するためだ。今回の訪問中も、ラファやその他のガザ南部を訪ねたときは、撮った写真をその夜に確認した。それが、今回のガザ市の訪問では、当日の夜ラファに帰った後も写真を全く見られなかった。見る気が全く起こらない、というより見たくない、というのが正直な気持ちだった。こんなことは初めてだ。

今回のガザ市の訪問前、ガザの UNRWA の事務所で働く現地のパレスチナ人と話をした。ガザ市出身の彼は、戦争開始直後にガザ市から家族でラファに避難し、それ以降ガザ市には帰っていなかった。その彼が最近ガザ市を業務で訪問をした。その時のビデオを見せてくれた。私が見たのと同じひどく崩壊した街であったが、彼にとっては自分が生まれ育った街だ。その日から1週間、彼は怒りが収まらなかった、怒りで夜もよく寝らなかったと。今までの自分の思い出、想いが完全に壊されている。彼の想いがどれほどのものかは、私には想像すらできない。

4 月 8 日のガザ市の訪問が今回の最後の現地訪問であった。4 月 9 日はラファにいる同僚と最後のブリーフィングをし、翌 4 月 10 日にはガザを出て、エジプトのカイロに向かった。

そして、4 月 11 日には居住地のヨルダンのアンマンに戻った。それでもガザ市で撮った写真・ビデオは全く見なかった。見る気が起こらなかった。最終的にそれらを見たのは 4 月12 日だった。それも自分の意思というより、日本のメディアの方の取材があり、その方がわざわざアンマンまで来てくださったので、初めてビデオと写真を見た。取材に答える形で、だ。結構きちんと撮れているな、という感じと、やはり見たくない、という複雑な思いはまだあった。

今回の訪問中はイスラム教の断食月にあたり、それが 4 月 9 日に終わり、4 月 10 日は断食後の大きな祝祭日に当たる。通常は家族・親戚で集まり、お祝いをする。子供たちは新しい服を着て嬉しそうに街を練り歩く。日本でいうお正月と同じ雰囲気だ。その雰囲気はガザでは全く感じなかった。新しい服を着た子供は若干いたが、断食明けのお祝いの雰囲気は、ない。それが、ラファで国境を越えたエジプト側では全く違った。普通のラマダン明けの祝日であった。子供たちは新しい服を着、家族・親戚で集まっていた。平和がそこにあった。ガザから 1 キロも行かないうちにそれがあった。その落差に愕然とした。楽しく集まっているエジプト側の子供達を見て、ガザの子供達を思い出した。泣きそうになった。

ガザの南部(ラファ、ハンユニス、デイルバラ)の滞在中には、うちの職員に会い、彼らの心が壊れていることを強く感じた。そして、ガザの社会構造・社会の繋がり(social fabric)も壊れていることを感じた。建物の崩壊も見たが、人間として、そして社会として大事なものが壊れていることを感じ、大きな不安を覚えた。ガザは今後どうなっていくのだろうか、と思った。ただ正直に言えば、私はその対応に全力を尽くすが、私が直接抱える問題ではない場合が多いとの思いがあった。

それが、ガザ市の訪問で、全く変わった。これまでの人の心の崩壊、社会構造の崩壊が、ガザ市の崩壊を見て、全て自分の問題になった。なぜだか自分でもよくわからない。初めての経験だ。自分が今までよく知っていた街が、あまりの崩壊で、ひどく変わり、自分がどこにいるかわからない、目で見るものと自分の心が繋がらない、認識できない、あるいは認識したくない、そう感じた時、ガザの人の心と社会構造の崩壊が、完全に自分が抱える問題となってしまった。そして私の心は粉々に壊れた。そう感じた。

そのショックは今も続いている。ガザ市のことを思い出すと、心が痛む。とてつもない絶望感に襲われる。どうなっていくのだろうか、そして私の心は大丈夫だろうかと、感じる。本当に怖い。

最後に。そしてマワシ

この原稿を書いている 5 月中旬、ラファへの侵攻が続いている。70 万人を超える多くの人々が既にラファを逃れ、海岸沿いのマワシ地区等に避難を始めた。ラファで働く我々の同僚も多くがラファを離れた。家族のためにマワシ地区で1000ドルでテントを買った人もいた。新たな避難民生活だ。ラファを避難した多くの人はラファに移動した国内避難民だ。彼らの苦悩を思うとやるせない。なぜこれほどの苦悩を我々は彼らにさせてしまうのか。

そして、今回の新たな避難先と指定されているマワシ地区も実はすでに避難民が大量にいる。マワシ地区はガザの中部のデイルバラからハンユニスを経て、ラファへ続く海岸線上に広がる地帯だ。元々は砂浜の空き地で、農業が盛んな場所だ。ただ今回、避難先といっても、大きな体育館や空き地があるわけではなく、避難先は自分で探さないといけない。そして、マワシはすでに人でいっぱいだ。テントも多く、新たにテントを作る空き地はあまりない。一体どうするのだろうか。皆がとても不安になっている

戦争はまだ終わっていない。人々の混乱・避難は続く。絶望が続いている。ラファの同僚が再度の避難をするにあたり、「世界はいつになったら我々(ガザの人々)を人間として認めてくれるのか」といってきた。言葉がない。なんといって良いかわからない。ともかく私たちは、支援を続けていく、心を寄り添っていく、そして、声をあげていく、それしかない。今回私の心は壊れた。でも、ガザの人は心だけでなく、家族、一族、そして社会構造さえも壊れている。ラファの同僚の問いかけが、間違っている、といえるまで、仕事を続けていくしかない。

 第2回
ガザの声を聴け 2024

2019年刊行『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』(集英社新書)の著者であり、現UNRWA保健局長の清田氏による現地からの緊急レポート。2023年10月から始まったイスラエルとイスラム組織ハマスとの戦闘。大きな攻撃を受けたパレスチナ・ガザ地区に滞在した3週間の様子を綴る。 

関連書籍

天井のない監獄 ガザの声を聴け!

プロフィール

清田明宏
1961年福岡県生まれ。国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA=ウンルワ)の保健局長で医師。高知医科大学(現・高知大学医学部)卒業。世界保健機関(WHO)で約15年間、中東など22カ国の結核やエイズ対策に携わった。2010年から現職。中東の結核対策では、患者の服薬を直接確認する療法「DOTS」を導入し、高い治癒率を達成。その功績が認められ、第18回秩父宮妃記念結核予防国際協力功労賞を受賞した。
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崩壊した街