アスリートにはもっと声をあげてほしい
このような、いかにも日本社会的な風土を刷新してスポーツ界がスポーツウォッシングのくびきから逃れるためにも、現役のアスリートたちが積極的に社会と関わり、行動し、発言していく〈アスリート・アクティビズム〉が重要だ、と平尾氏は訴えている。
「自分自身がラグビーをしてきた経験からも思うんですが、スポーツをしていれば、特にその競技のトップクラスを経験していれば、セオリーのあえて裏をかくことや思い切った決断などが勝敗を分けることをよく理解しているはずなんです。なのに、ムラ社会的な同調圧力に対してノーと言える人がどうしてこんなに少ないんだろう、ということはずっと考え続けています。
アスリート側から声を上げないと、スポンサーや主催者側の利益になる格好でどんどん利用され続ける一方ですよ。要するに、これは〈パンとサーカス〉なんです」
〈パンとサーカス〉とは、古代ローマの詩人ユウェナリスの言葉だ。その詩篇のなかで、ローマ市民が食料と娯楽を無償で与えられることで政治に対して従順になっていく様子を記した描写に由来する。これはまさに、スポーツウォッシングで市民が様々な問題から目をそらされている姿そのものだ。
「そこに歯止めをかけることができるのは当事者であるアスリートです。スポーツは格好の金のなる木だから、利用されやすいんですよね。自分たちがきちっと防波堤を築いて押し戻さなければいけないけれども、もう、かなりのところまで浸食されていると思います。だから、何を差し置いても、まずはアスリートたち自身がもっと賢くなって、社会に対してもう少し意見を持ち、押し戻してほしい。今は、これ以上になったら大変なことになるよ、という状況に来ていると思います」
世界と日本のトップアスリートを比較したとき、彼我の最も顕著な違いのひとつが、この〈社会に対するコミットメント〉のあり方だ。たとえばNFLのコリン・キャパニックが人種差別に反対して試合前の国歌斉唱時に片膝を突いて抗議を示した行為は、東京オリンピックでも各国の女子サッカー選手団が試合前に援用し、差別反対の意志を広く共有した。
日本代表選手たちも賛同し、膝をつくパフォーマンスを示したことは、当連載の最初でも紹介した。とはいえ、BLM(ブラック・ライブス・マター)やレインボーカラーをまとって人権抑圧や様々な差別に積極的に異を唱える行動は、世界的にはけっして珍しい行為ではない一方で、日本ではそのような意思表示はまだごく稀な例外といっていいだろう。
「日本ではそのような言動が極端に少ないのはなぜだろう、ということをずっと考え続けています」
そう平尾氏は言う。
「学校教育でも、人と違う意見を言うことに対するハードルは高い。空気を読む、ということがいつも暗に求められている。そういう環境に長く身を置いて、指導者の指導に従ってパフォーマンスを上げることだけに集中させられる小・中・高時代を過ごしてくると、本当は感じていることを口に出しにくくなってしまう、という要素は大きいと思います。
そして、そういう社会の中でアスリートとして育っていくと、成長したときに応援してくれるスポンサーも、当然ながら日本企業が多くなる。たとえば、2020年の全米オープンで大坂なおみ選手がBLMを支持し、犠牲者の名前を記した黒いマスクでコートに登場したとき、アメリカ企業のNIKEは彼女の行動に理解を示し、積極的に支持しました。ところが、日本のスポンサー企業は踏み込んだコメントをせず、その事なかれ主義的な態度にかえってファンが反発して炎上を招く事態にもなりました。
この一件でもよくわかるとおり、やはり日本企業は、自分たちがスポンサーについている選手にはそういう方向で目立つことをしてほしくないと考えている。だから、そういう行為はやめてくれ、というような直接的間接的な働きかけはきっとあるでしょう。競技団体の側も、特に資金が潤沢ではないマイナー競技では、そのスポーツを支えていく健全なイメージを崩さないでほしい、とにかく騒ぎを起こさないでほしい、という意向も働くかもしれません。だから、社会に対してメッセージを発し意思表示をしたいと思っていても、そんな状況の中でがんじがらめになっている選手たちもいるのかもしれません」
このような話題になると、「スポーツに政治を持ち込んではならない」という言葉を金科玉条のように掲げる人々が必ず現れる。選手たちは、そんな人々が作り出す空気を読み、〈圧〉に気圧されて、社会に対して意思表示をしようと考えたとしても、その口をふたたび閉ざしてしまうのだろう。
「政治、といっても、べつに政党や政策の支持を表明するわけじゃなくて、人権に関わることに意志を表明するのは人として普通のことですからね。『私はそれは違うと思うよ』と言うだけなんですが、選手たちはマネージメント側からメディア対応のアドバイスやマニュアルなどのトレーニングも受けているだろうから、どうしても常套句や定型的な言葉ばかりになってしまう。
SNSがこれだけ普及して世界的に広がったことも、アスリートたちの発言を控えさせる要因になっているんでしょう。炎上したり誹謗中傷が飛んできたり、ということを避けるために、これから羽ばたいていく若いアスリートに対しては特に、SNSの使い方の研修やアドバイス、教育が行われていますよね。そうすると、もう箸にも棒にもかからないような、『スタバのコーヒー、おいしかった』とか、食べ物の写真を載せるとか、そんなものしか載らなくなってしまう(笑)。
そんなふうに、無難にSNSを活用するスキルは覚えていくけれども、炎上させずにきちっと自分の意見を言う、というスキルは教えてくれない。むしろ、自分の意見を言ってくれるな、余計なことは言ってくれるな、というのがスポンサーや所属事務所の本音でしょう」
そして、このような状態に陥っているのはスポーツが舐められているからだ、とも平尾氏は指摘する。
「アスリート自身はたぶん、スポーツが舐められているとは思っていない。それどころか、『炎上を避けている自分たちは賢くうまくやれている』と思っているかもしません。一概には言えないけれども、おそらく全体の傾向としては、そのようなことは自分が言うべきことでもないし、言ってもどうにもならない、という考え方なのでしょう。この意識は、先ほど言ったように、日本の学校教育や小中高のスポーツ環境がそうさせている要素も少なからずあると思います。
でも、アスリートは自分の言葉をきっちりと持っているべきです。べつに、きれいにうまく言おうとしなくてもいいんですよ。難しい単語を使わなくてもいいし、それこそ訥々と詰まりながらでもいいんです」
そう。アスリートたちの心の底から出てきた発言は、その表面的な言葉以上に聞く側にしっかりと内容が伝わるものだ。そして、それらの言葉の本意を汲み取って伝えてゆくのが、記者やメディアに求められる力量と手腕でもある。逆に、薄っぺらな発言からは薄い内容しか伝わらない、ともいえるかもしれない。
「アスリートは、自分が社会に対して影響を持っていることを自覚しているはずです。だって、子供たちに夢を与えるとか人々に感動を与えるとか言っているわけですから。自分の存在や発言は社会に対して何かしらの影響力がある、とわかっているにもかかわらず、その社会に向けた発言だけが、なぜかいつも空洞のようにポコンと抜けている。それにずっと違和感があります。
一様に言葉が軽く、『感動を与える』『勇気をもらう』という常套句や定型表現に乗っかってしまうことがすごく多くて、取材するメディアの側もその定型句でくくってしまう。本当はもっと豊かものなのに、そこが切り捨てられてしまって、うまく伝わっていかない。
だから、『スポーツっていいよね』という薄っぺらなイメージが作られて、誰も踏み込んだことを言わないし批判もしないし、『なんだかんだいっても皆が感動するしね』と政治利用されるんですよ。要するに『汚れがよく落ちる洗剤だな』っていうことですよ(笑)」
プロフィール
西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。