2021年夏に開催された東京オリンピックから一年少々が経過した。この節目を契機に、大会が生み出した「レガシー」の検証作業などが活字・映像メディアでも報告されはじめている。一方で、大会スポンサー企業と元組織委員会理事が贈収賄容疑で逮捕された事件は、今もなお連日のようにメディアを賑わせ続けている。この汚職事件は、招致が決定した2013年以降、次々と問題が明るみに出て批判され続けてきた東京オリンピックの、まさに象徴的な出来事といっていいだろう。
この東京オリンピックについて、開催前から疑問を投げかけ、スポーツウォッシングの観点から一貫して批判してきたのが平尾剛氏だ。ラグビー元日本代表という経歴を持ち、現在はスポーツ教育学者として大学で教鞭を執る平尾氏は、スポーツ界と研究者の世界を繋ぐ希有な経歴の持ち主だ。平尾氏はまた、現役選手たちに対して社会の出来事に積極的に声をあげよう、という「アスリート・アクティビズム」も提唱している。
スポーツウォッシングに晒される現代のオリンピックやメガスポーツイベントの現状と、平尾氏が提唱するアスリート・アクティビズムの可能性と課題について、腰を据えてじっくり話を聞いた。
平尾剛(ひらお・つよし)
1975年大阪府生まれ。神戸親和女子大学教授。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。京都新聞、みんなのミシマガジン、プレジデントオンラインで連載中。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。
「これまでもオリンピックは、どんな大会も終わってしまえばいつも『成功した』ということにずっとしてきたんですよ」
閉幕から1年が経過した東京オリンピックについて訊ねると、平尾氏は開口一番にこう指摘した。実際に、東京都のウェブサイト〈大会後のレガシーを見据えた東京都の取組〉の冒頭は、以下のような文章で始まっている。
開催前から様々な醜聞が飛び出して大会首脳や重要な役職の人々が次々と入れ替わり、終了1年後の現在も贈収賄事件が世を騒がせる根源となったスポーツ大会であっても、主催者たちはあくまでも大成功だったと強弁していることは、上記サイトの記述に明らかだ。
このなし崩しのような「歴史修正」に対して、平尾氏は以下のように指摘をする。
「今回の東京オリンピックは、新型コロナウイルス感染症が世界的に蔓延していた時期の開催でした。公的には成功したことになっていますけれども、その水面下では『ああ、あのときのオリンピックって実態はこうだったよね』と冷静で真摯に捉えている人も多いように思います」
平尾氏は、この東京オリンピック開催前から様々なメディアやツイッター等を通じて、開催意義への疑問やオリンピックというイベントそのものに対する反対を積極的に表明してきた。
「反対意見を表明した最初の頃は、『僕が言ったからといっていったい何になるんだろう』という、半ば無力感のようなものも強く感じていました。世の中の大勢は『オリンピック万歳、これで盛り上がろう』という雰囲気に流れていく中で、こんなことを言って意味があるのかとも思ったけれども、そうやって発言していくことで、東京オリンピックやオリンピックそのものの裏側、実体、といったものの幾分かを白日の下に晒す一助になれたのかもしれない、とも今は思っています」
参考までに、NHKが東京オリンピックの開催一年後に総括として行ったレポートでは、
と、当時の世相の実態を客観的かつ公正に記している。
開催を巡る賛否の世論が二分された最も大きな理由は、第5波の真っ只中にあった当時の感染状況だが、再開発のしわ寄せが常に社会的弱者たちへ及ぶという、オリンピック開催地でいつも起こる問題にも一定の注目と関心が集まった。東京オリンピックの場合でいえば、都営霞ヶ丘アパートの取り壊しや、〈復興五輪〉と謳いながら人的資源や物流などのリソースがオリンピックの開催準備に奪われていったこと等々が挙げられる。
「そもそも、『オリンピックが来るぞ』となると、このメガスポーツイベントを利用した強引な立ち退きや道路の拡幅工事、地域の再開発は待ったなしで一気に進んでしまう。そのような強権的な行為も、スポーツの健やかなイメージを利用して行われていますよね」
と、平尾氏は指摘する。
東京オリンピックをはじめとする巨大スポーツイベントは、それを開催することで開催地やスポンサー各社の社会的存在感(プレゼンス)を高める大きな効果を持っている。だからこそ、さまざまな企業がスポーツイベントに群がり、近年では中東諸国も幅広い競技で積極的な誘致を行っているのだろう。しかし、それらの行為は真っ当なプレゼンス向上の活動なのか、それとも何らかのスピンコントロール(政治的情報操作)を狙った行為なのか、一見したところ区別がつきにくく、境目が微妙で曖昧に見えるケースも少なくない。
平尾氏は、犠牲者の有無がその境界線を見極めるひとつの判断基準になるだろう、という。
「端的に言ってしまえば、そこに関わった人の人権が守られているかどうか、犠牲になる人がいるかいないか、じゃないですか。その意味では、オリンピックでは、今回の東京もそのひとつ前のリオ・デ・ジャネイロも、社会的弱者の人たちが開催の犠牲になっています」
リオ五輪の際も、ファベーラ(貧民街)の強制的な立ち退きや警察の過剰な取り締まりは日本でも報道された。だが、スポーツがもたらす大きな勇気と感動の前に、これらの事実はあっさりと押し流されてしまった。東京オリンピックの場合も、開催前には賛否が大きく分かれたものの、終わってしまうとなしくずしの結果オーライで総括されようとしている。とはいえ、開催賛否の議論を契機にスポーツウォッシングという視点が紹介されはじめたことは、日本人と日本のスポーツにとって収穫だったといえるだろう。
「スポーツウォッシングという言葉自体は、以前から五輪研究者の間では当たり前のように口にされているワードですが、巷ではおそらくあまり聞かない用語だったと思います。新型コロナウイルス感染症が蔓延しているときにオリンピックがやってきて、それをきっかけにスポーツウォッシングという言葉やその意味することを知った人々は、『確かにそうだな。じゃあ、スポーツって社会の中でいったいどんな価値があって、どういう役割を果たすものなんだろう?』と考える機会になったのかもしれません。今はまさに、(社会とスポーツの関係が)変わっていく時期に来ているのだと思います」
元アスリートのスポーツ研究者という立場からのオリンピック批判は一定の支持を集めたが、一方では批判や腫れ物に触るような扱いも受けたという。
「たとえ現役を引退していてもスポーツに関わっていたのだから政治的発言をするな、という難癖に近い批判が、匿名の人物からツイッターのアカウントに寄せられたこともありました。
あと、違和感を憶えたのは、たとえば学会などに出席したときに、皆があまりスポーツウォッシングの話題に触れようとしない傾向が強いことです。五輪研究者の間では広く知られている概念で、僕がメディアで発言していることも知っているはずなのに、まるで腫れ物に触るように誰も何も言おうとしない。よく顔を合わせる旧知の研究者のなかでも『じつは僕も反対なんだけど』と声をかけてくれたのは、とある目上の方ひとりだけでした。同調圧力というか、スポーツ界のムラ意識のようなものを感じました。
また、別の研究会では、オリンピックで動く巨額のお金やジェントリフィケーションの問題(都市の美化や再開発で生じる様々なしわ寄せ)などをパワーポイントを使ってしっかりと指摘していたにもかかわらず、最後の結論は『今やめるのは無責任だ』というものだったので驚きました。僕の結論はまったく逆なので、『ここまで肥大して社会に負担をかけているのだから、いったんやめようとするのがむしろ責任ある行動ではないですか』と発言しても、他の皆さんも全員同じ研究仲間だったようで、うまくはぐらかされました。
結局、こういう同調圧力がスポーツウォッシングにうまく利用されてしまう、という側面もあるのだと思います」
プロフィール
西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。