さて、徳光さんとの話に戻ろう。前回も話に出てきた性豪……じゃなかった、ラテンの黒豹、ペドロ・モラレス。
「ええ」
前回でも少し触れましたが、僕は馬場さんご本人にも確認したことがあるんですけど、あの32文ロケット砲を指導してくれたのがモラレスだったみたいですね。
「そうだったんですか」
馬場さんの記憶によれば、ロサンゼルスのリングで飛ぶコツを習ったようです。
「なるほど」
馬場さんが回っていたツアーに、たまたまモラレスも参加するようになって「自分も、あんたみたいに華麗に宙を飛んでみたい。どうすればいいか」と訊いたそうです。そのときモラレスは「ポイントは思いっきりのよさと、着地にときに絶対に頭を打たないこと。それだけ頭に入れて、あとは反復練習をすればなんとかなる」と言い、実際に試合前のリングでドロップキックのコツを教わっていた、と。
「ちなみにですよ、私が最初ですから、馬場さんの32文ロケット砲が放たれた試合をテレビで実況したのは」
それはいつの試合?
「忘れもしません、初来日となるブルーノ・サンマルチノとの――」
おおお、懐かしき人間発電所!
「インターナショナル選手権試合!」
1967年(昭和42年)3月2日、大阪府立体育会館で行なわれた選手権試合ですね(結果は1対1の引き分け。馬場が9度目の防衛を果たす)。
「試合前、ジョー樋口さんが私に近づき、こう耳打ちしたんです。〝馬場さん、飛ぶみたいですよ〟って。思わず、え、何がって聞き返したんです。そうしたら〝サンマルチノにドロップキックを決めるみたい〟と言うので驚きましたね。あの巨体で宙を飛ぶ、ドロップキックを仕掛けるとなると一体、どんな風になるのか、うまく想像がつきませんでした。それで試合のゴングが鳴り、しばらくすると馬場さんがサンマルチノからパッと離れてロープに走ったんです。瞬間的にここでドロップキックを出すんじゃないか、と感じた私も実況席で身構え――」
飛びましたか。
「飛びました、馬場さんが」
おおおおお。
プロフィール
1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。