韓国カルチャー 隣人の素顔と現在 第8回

ドラマ『私たちのブルース』

済州島、そしてコ・ドゥシムやイ・ビョンホンのこと
伊東順子

「最高のろくでなし」を演じる、イン・ビョンホン

 とはいえ、情けない男ばかりも困ったものだ。その中でもぶっちぎりの「ろくでなし」はイン・ビョンホンが演じるドンソクだろう。お母さんに対しての当たりがひどく、いつもチュニおばさんやウニに諌められているが、全く反省しない。その理由は最終回で明らかになるのだが、見ている視聴者は毎回やるせない気持ちになる。

 このドラマの第1話にイ・ビョンホンが登場した時は全世界が驚いた。それは大げさだが、韓国が誇るトップスターがいきなり、トラックの引き売りをしているお兄ちゃんになり、しかも完全なチョイ役だ。

 「こんな贅沢なイ・ビョンホンの使い方があるのか」

 当初は主役がリレーするという形式がわかっていなかったため、そんな感想をもらした人も1人や2人じゃなかった。チャ・スンウォンだけでもすごいのに、そこにイ・ビョンホンが脇役のように登場し、さらに市場を見渡せばキム・ヘジャとコ・ドゥシムがいるではないか。二人の大女優たちにみんなの興奮は高まる。

 加えて、12話ではオム・ジョンファまで出てきて、オールドファンの頭の中にはファンファーレが鳴り響く。古くからの韓国エンタメファンには、大人になってからお年玉をもらったような気分だ。さらにハン・ジミン、キム・ウビン、シン・ミナと、続々と登場するスターたち。

 「いったい、このドラマの制作費はいくらなんだろう?」と、そこを心配する人もいた。

 ただし14人の主役の中には「無名の新人」もいて、その1人が大きな話題となったのだが、それについては後でふれるとして、ここではイ・ビョンホンについて書きたい。

 「それにしても、イ・ビョンホンはこういう役をやらせたらうまいよね。市場のアジョシのステップもリズミカルに軽やかに」

 という皆様の意見には完全同意。さらに私が感動したのは、彼がカップラーメンを食べるシーンだ。おそらく三口で完食? 後でチャジャンミョンを食べる場面もそうなのだが、韓国男性の野趣は麺類の食べ方にあると思っている。わずか数秒で一気に食べる技。真似したくはならないが、つられて同じものが食べたくなる。

 しかし、このドラマでのイ・ビョンホンの見せどころは「コルラヨ、コルラ(さあ買いなはれ)」と手足でリズムを踏む「物売りのアジョシ」や「ラーメンの一気食い」だけではない。「幼なじみの素敵なオッパ」、「クールな兄貴」、「やんちゃな後輩」、そして「孤独な息子」と、まあそのたびに「こういう役はうまいよな」と思わせる。いったい彼はどんな役がもっとも「はまり役」なのだろう?

「イ・ビョンホン」を振り替える

 1970年生まれのイ・ビョンホンは今年52歳だ。ドラマ『冬のソナタ』をきっかけに韓流ブームが起きた2000年代初め、彼はペ・ヨンジュン、ウォンビン、チャン・ドンゴンらと共に「韓流四天王」と呼ばれ、日本でも一気に有名になった。

 デビューは1991年、当初は主にドラマで活躍する「青春スター」だったが、その後に映画にも進出する。ただしドラマが『明日は愛』(1992年、KBS)を皮切りに、大ヒット作『美しき日々』(2001年SBS)など順調だったのに対し、映画のほうはなかなかヒット作に恵まれなかった。ソン・ガンホとの共演が話題になった『JSA』(2000年、パク・チャヌク監督)まで、彼が出演した映画を見たという人は少ないと思う。

 彼が主演した映画のラインナップはハードボイルドあり、ホラーあり、歴史ものあり、まさに縦横無尽だ。近年「こんな役もやれるのか」と皆が驚かされたのは『KCIA南山の部長たち』(2020年、ウ・ミンホ監督)。特に後半からクライマックスまではイ・ビョンホンの真骨頂と、一般からもメディアからも大絶賛された。

 そのイ・ビョンホンが市場で「コルラヨ、コルラ」と腰をふる。最初はたまげたけが、そういえばこの人は昔から、ドラマでも映画でも、メジャーでもマイナーでも、役を選ばず、またどんな役でもやれる人と言われてきたのだった。韓国の俳優はみんな演技がうまいが、このカメレオン的な大スターは南山の部長から済州島の行商人まで、どっちも「彼でなければ、これは成り立たなかった」と言わせてしまうのだ。

 『私たちのブルース』もイ・ビョンホンの「はまり役」だったと思う。彼が演じたドンソクという男の不安定な内面。それは幾つもの顔になってあらわれるのだが、その違いを絶妙に演じきる人。もちろんドンソクに限らず、人には喜怒哀楽があるし、役者はそれを上手に演じる。ところがドンソクの場合は単に感情ではなく、1人に中に何人もドンソクがいる。

実は本来それが人間というものなのだが、イ・ビョンホンが丁寧に演じてくれたおかげで明確になった。多重アイデンティティというほど大上段に構えることなく、情けない自分もちゃんと引き受けようと思えるのである。

 最後に付け加えるならば、イ・ビョンホンの天才はその言語能力にもある。済州島出身のユーチューバーが彼の済州島方言をべた褒めしていたが、それは彼がハリウッド進出した時にもよく聞いた称賛だった。彼の英語の発音は素晴らしい。日本でも方言を使うドラマは、地元の人が聞くと上手い下手がはっきりわかるというが、イ・ビョンホンは完全に及第点をもらったようだ。

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プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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