ある日、いきなり大腸がんと診断され、オストメイトになった39歳のライターが綴る日々。笑いながら泣けて、泣きながら学べる新感覚の闘病エッセイ。

39歳にもなって、いまだに行き当たりばったりの生活を送っているなと思うときがある。たとえば昨日は、10歳年下の元同僚を当日の流れで家に泊めた。深夜1時過ぎまでラーメン屋で飲んだ後、「狭くてごめんだけど、全然いいよ〜」とアパートのワンルームへ連れて帰ったのはわたしのほうだ。
そこからまたしばらくの間、寝る準備を整えながら彼女の恋愛話を聞く。彼女は自分の話をひと通り終えた後、わたしの話を少しだけ聞いて「ねー! 早くよくなるといっすねー! じゃ寝ますかー、おやすみなさーい!」とあっさり眠った。
さすがに閉口してしまった。いや、落ち着け。相手はまだ20代の女の子だ。がんの知識なんてあるはずがないし、そして何より酔っている。そもそも、こうなることは事前にある程度想像できたのではないか。それでも彼女を泊めようと決めたのは、ほかならぬ自分自身だ。わざわざ自分から傷つきにいくなんて、本当にどうかしている。わたしは馬鹿だ。彼女に腹が立ったというより、自分が無防備すぎることに苛立った。
つい先日、「痛みレベル」を用いたコミュニケーションについて考えた。けれど、このコミュニケーション方法は「相手が自分より苦しんでいたら、当然労わるでしょ」という、ある意味で性善説に近い前提の上に成り立つものだ。だからこそ、どちらか一方でも余裕を失っていたり、今回のように酔っていたりすると、それは簡単に崩れてしまう。そもそも、前提となる思いやりを持たない人だっているだろう。電気を消した部屋の中、隣で眠る彼女の寝息を聞きながら、一人眠れずに天井を睨む。なしなし! 痛みレベルの話は全部嘘でーす! 嘘でした〜!!
今のわたしは、一に生存、二に生存。大事なのはとにかく生き延びることだ。だからこそ、今の日常を脅かす要因はできる限り遠ざけたい。わたしと彼女は、かつては同じ船に乗っていた。でも今は違う。もう二度と会うことはないだろう。それぞれの航海に幸多からんことを。それじゃ!
……なんて割り切れたら楽だったのかもしれませんが。
今朝、起きてそれぞれ化粧をしているときに、
「まみさんが元気でいてくれたらなんでもいいです!」
「昨日教えてくれた本、読みたいです!」
「本とか全然読まないんですけど、まみさんのおすすめなら読んでみたいです!!」
なんて、嬉しいことを言ってくれちゃったりするんですよね。ずるいって。こんなに食い下がられて、心がぐらつかない人なんているの? わたしは自分の単純さゆえに、彼女の調子のいい愛嬌をやっぱり可愛らしく思ってしまう。
もし、わたしががんじゃなかったら、昨晩だって何も気にせずゲラゲラと笑い合えたのだろうか。そう考えそうになって、すぐにやめた。がんじゃなかったら、なんて考えたって仕方がない。だって、実際がんなのだから。1、2程度の痛みをそっと胸の奥にしまう。
がんになってこの先の人生が180度変わることはあっても、これまで時間をかけて形成してきた性格は、そう簡単には変わらない。わたしはこの先もずっと馬鹿で、単純で、お人好しのままだろう。こんなわたしが来年不惑? 無理無理、惑う。四十にして全然惑う。人生どころか、いまだにそのへんの道にすら迷うのに。けれど、一人で生きている以上、わたしを守れるのはわたししかいない。わたしはこれからもわたしのままで、いつか訪れるその日まで生きていく必要がある。
そのためにも、わたしはすべてから学んで成長し続けなければならない。惑いを少しでもなくすために。いや、本当にそうなのか? わたしは勉強や仕事などを通じて「成長の先によい未来がもたらされる」と無意識にすり込まれている。だからこそ逆説的に、未来、つまりこの先の生存ルートを得るための手段として、成長しようとしているのかもしれない。それはある種の願掛けのようなものだ。実際のところ、寿命と成長に相関関係はない。じゃあ、やっぱりわたしはただ祈っているのだろうか。どうか「未来」がもたらされますようにと。
わからない。祈りの先の現実がどこまで続いていくのかなんて。けれど、彼女とまた会うのが「今」じゃないことだけはわかる。彼女を見送ってまもなく、「昨日今日はほんとありがとうございました」というLINEメッセージが届いた。ほんの少し胸が詰まって、若干のつらさを感じていたことを正直に返信した。しばらくして届いた謝罪のメッセージは、すごく時間をかけて言葉を選んだことが伝わってくる、それは丁寧なものだった。自分の大人げなさを苦々しく思いつつ、スマホを置いてため息をつく。連絡先は消していない。わたしは彼女の溌剌さを今もしっかりと愛している。
互いに生きてさえいれば、会える可能性はゼロに収束しない。大事なのは、また会えるかもしれないという可能性があることだ。その「可能性がある状態」こそが生きるということなのだと思う。だから、また会う日まで元気でね。わたしもきっと、元気でいるから。
わたしはこれからも失敗を重ねたり、ああでもないこうでもないと思い悩んだり、そんな中でも成長しようと試みたりするだろう。全部、自己満足かもしれない。でも、生きるって結局、そういうことの繰り返しだよな。うまくいかない日だってたくさんある。それでも、わたしは今日も生きている。願いのように、祈りのように、今ある可能性を感じながら。
立ち上がる。窓を開ける。また新しい一日を始める。
(本連載はこちらが最終回です。ご愛読、ありがとうございました!)
プロフィール

ライター
1985年生、都内在住。2024年5月にステージⅢcの大腸がん(S状結腸がん)が判明し、現在は標準治療にて抗がん剤治療中。また、一時的ストーマを有するオストメイトとして生活している。日本酒と寿司とマクドナルドのポテトが好き。早くこのあたりに著書を書き連ねたい。