もうひとつの11月25日
これもまたか、とためらいつつ。
やはりリマスタリングして書いておこう。
その20日前の11月5日にアルバート・アイラーはマンハッタンの自室から失踪していた。アイラーはモダンジャズを誰も予想できないやり方でぶち破る。テナーサックスの一吹きでニューオーリンズのカオスに立ち戻った創造的破壊者である。
11月25日、三島由紀夫が死んだ日。この夜の新宿には彼の死体がイースト・リヴァーに浮かんだという話が流れてくる。Webなんかないから、おそらくジャズ好きの海外特派員ルートだろう。当時、新宿にはジャズの店が30件以上あった。そのころもうフリージャズを脱したアイラーの新作はまったく売れなかった。ピットイン・ティールームでさえ、かかるのは稀だ。麻薬の売人に追われていたという噂に納得する者は多いのである。
こちらの鼻先は、こういうオフオフ・ブロードウェイ劇番外編に向いている。市ヶ谷じゃない。この夜には坂本龍一とアイラーのことも話したと思うが、リマスターしても画像が鮮明にならないのである。
繰り返そう。当時のピットイン・ティールームは最新の輸入レコードが鳴る店だ。ほぼ黒人たちによる先鋭なジャズばかり。この年、1970年3月にマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』が出ている。これがフュージョンだって? ジャズもロックも同時に聴いて育った耳には、マイルスがフリージャズに突入した新展開として響くのである。黒人解放運動が壁にぶつかって、ジミ・ヘンドリックスもアイラーも相次いで逝く。ブラックミュージックの曲がり角を告げる問題作が連発されていた。
こちらにはクラシカルな音楽的教養が恥ずかしいほどない。
坂本龍一と比べるなんて、おこがましいもいいところ。
レコードを聴く自分の部屋も時間もまったくない環境で生まれ育っている。いまもたいして変わらない。カテドラルの尖塔に高く響きわたるバッハの「マタイ受難曲」を身も心も体験するには、相応のスペースとゆとりのある生活時間が必要なのだ。
だから音は体の中にある。この体にしかない。
自営の小商店は家そのものが小さな町工場である。小学生のころ、職人が働く仕事場で鳴るのはAMラジオの轟音だ。浪曲演歌、望郷民謡、永六輔と中村八大の戦後ポップス、青春歌謡からようやくグループサウンズになる。若い職人たちはラジオに合わせて鼻歌くらい口ずさまなきゃ、力仕事に精が出ないのである。
こういう音楽の裏通りから飛びだしたのがクレージーキャッツの冗談ジャズだ。このあたりから洋楽の壁は決壊した。中学生になれば、すぐにローリングストーンズや黒人ブルース、そしてザッパへも突入する。さらに瞬く間に前衛ジャズへとぶっ飛んでいったのが1968年である。
唯物論と火の音楽
坂本は3歳でピアノを習い、10歳で作曲家に師事すると、すぐに現代音楽のコンサートを経験した。私には異星の人である。となると、西洋音楽の充分な教養と演奏力を持つ彼は、こういう黒人たちの音楽をどう聴くのかな?
こんな疑問を坂本に投げかけたくてしかたがなかったのである。
じつに素朴な質問である。同時にしかし巨大な問いである。高校のクラスメートに高名なジャズ・ギタリストの弟子がいた。仲はいいが、その知識と技術はモダンジャズ・メソッドの枠内での修練の結果にすぎない。当時の革命少年たちは誰でも「世界~」が大好きなんです。ジョン・ケージや武満徹を知る坂本はもっと大きな見方をしているはずだ。
つまり世界史的かつ唯物論的に、ジャズってどうなんだろう――と、会うたびに言葉を呑み込んだのである。
そしてアルバート・アイラーが溺死した日、その時が来る。
「アイラーが死んだけど、どうなの?」
ところが暗闇での会話はいっこうに弾まない。
ジョン・コルトレーンについては、当時まさに脂の乗ったジャズ評論家である相倉久人が限界まで語っている。坂本も私も相倉が書く『ジャズ批評』誌を紀伊國屋のリトルマガジン・コーナーで読んでいるのである。だからセシル・テイラーやオーネット・コールマン、アルバート・アイラーやアーチー・シェップについて尋ねると、いつだって「そうねー」とか言うだけだ。まあ緻密な楽理的分析を語られても、こちらにはさして知識の受け皿がないのはたしかなんだが。それでも聞きたいのである。
坂本龍一はなにも語らない。
だが、こちらの体は別の聴き方をしている。
最も進んだ資本主義国アメリカの中で続く黒人たちへの最も遅れた植民地的支配。ここから、打ち続く黒人解放闘争がそのままアメリカの解体、世界の革命に向かうという妄想的構想はリアルに見えた。こういう頭の中でブラックな前衛ジャズは「ファイア・ミュージック」(アーチー・シェップの作品、1965年)に聞こえている。全世界を焼き尽くす「火の音楽」である。それが実際のところ、どういうものかわからないとしてもだ。
人が創り出す音の現象はもっと深くて広いものなんだよ。悲しみや怒り、激しい感情だけじゃない。情動だってそのままでは音楽にならない。君にはそういう音楽体験がないかもしれないけれど――。すでにテリー・ライリーやスティーブ・ライヒを聴いていた坂本龍一は、そう言いたかったのかなと思うのである。
こういう坂本とすれ違う事情は竹田賢一も気になっていたらしい。
フリージャズって彼はできないと思うんだ。
(2023年5月29日収録インタビューより)
聴き手として、すごく気になって、たくさん聴いている。もちろんアーチー・シェップなんて聴いているけれど、 シェップってわかりやすいよね。たとえば「オン・ディス・ナイト」みたいな曲は近現代音楽を下敷きにしているから。そういう意味では、とてもわかりやすい。それから例えばセシル・テイラーは根っこがドビュッシーだから聴いてよくわかる。話をしてもツーカーで通じる世界なんだね。だけどそれを自分でやろうとすると、できないんだよ。そういう意味でのブラックなものを、坂本龍一は持っていない。
生きるための音
2015年ごろかな。ブラック・ライブズ・マターの最初の波がうねる中で、坂本龍一にこんな提案をしたことがある。
――ぼくら二人で、それぞれ聴いてきた黒人音楽のレコードを10枚ずつ出し合おう。自分がこだわる作品について話し、お互いの作品にコメントする。その対話に手を入れて一冊の本にできないかな。
超理論派と超体感派によるBLM時代のブラックミュージック・ガイドである。こちらはロバート・ジョンソンからジョン・リー・フッカー、パーカー、マイルスからオーネット、アイラーへ。そこにニーナ・シモンやサム・クック、ファンカデリック、パブリックエネミーも入り混じった偏向教科書的リストを考えた。
「ブラックミュージックはわが魂」。これが私のつたない信条である。
彼にとってはそうではない。それは充分に承知している。だからこそブラックパワーから半世紀、BLMのこの時に「生きるためのブラックミュージック cool&hot版」を。という企画なのである。
反対方向から語り合う。聞いただけで音楽を理論的な諸要素に分解してしまう彼のような人間は、警官に銃を突きつけられた人間が上げる声としての音楽をいまどう聴くんだろう?
そのとき坂本龍一から帰ってきた答えは、さらりとこんな感じである。
――ぼくはそういう聴き方をしてこなかったから。ムリだよ。
うーん。まあそうだろうな、と思いつつ。
それでは彼にとって「生きるための音楽」とはなんだろう。外から意味づけられるのを拒む。これが彼にとっては譲れない創造の核心である。それとも、音楽はもともと生物が生き延びるための呼吸の仕方だ。だからブラックミュージックだけのことじゃない。そういうことなのかな?
彼にも子どもが生まれ、私も連れ合いとどうにか2人の娘たちを育ててきた。
そういう時間が過ぎた。
事実として、坂本龍一が創り遺していった膨大な音響を「生きるために」聴く者が世界中にいる。例えば、京都の李朝茶房でピアノに耳を傾ける人たちにとってもそうなのかもしれない。AIは音楽らしきものをいくらでも生成できるだろう。それでもそれは「歌」ではない。最期に彼が行き着いたのはここではないのか。これも「ぼくらが話さなかったこと」の一つなのである。
どんな人間も謎である
坂本龍一が逝っても東京の街はどんどん変わっていく。
たぶん悪いほうにね。
彼と交わした肉声や電子文字として脳裡に刻まれたものは、どれだけあるのだろうか。それが真黒い墨の跡として大脳側頭葉の海馬体に残されている。海馬ってなんだ?ヒトが蓄える長短の記憶を仕分けて保存する脳の司令塔のことである。
馬が遊ぶ記憶の海。そこに流れる墨の筋が日を追うごとに濃くなっていっていく。
どんな人間も謎である。
あいつは本当のところ、どう生きたのだろう?
まったくの愚問である。じつに胡乱な思い込みだ。だいたい私自身が謎なのである。
みんな自分のことが一番わからない。だからこう言い換えよう。長い間にわたって坂本龍一が描く光跡が、自分の謎を問いかける魔法の鏡のように見えていたのである。
もしかすると、と思う。そう感じるのは私一人だけじゃないのかもしれない。
彼が遺した音はこの列島を超えて、これからの地球で生きる者たちにとって、揺らめく魂の波紋を映す水の鏡になろうとしているのではないか。そう思いめぐらすのである。
末期の坂本龍一が創り出した音は「水」なのである。
坂本龍一の背はけして高くない。荘厳で長大なシンフォニーもピアノ協奏曲の名品を遺しているわけじゃない。それでも彼の音楽的精神は同時代の規格を外れて大きかったと思う。ヨーロッパとその鏡像としてのアジアを超えて、これからも水は流れる。私は夜の虫のように、そういう水音を遠くの草むらから聞き入っていたのである。
(次回更新は未定です)
2023年3月28日、1人の音楽家が世を去った。坂本龍一、71歳。 著者の平井玄は、都立新宿高校で坂本の1年後輩。1968年の夏、2人は出会って意気投合し、高校生全共闘運動を共にするようになる。 約半世紀、長い沈黙も含めて「異論ある友情」を続けた坂本と平井。 平井は「僕らがついに話さなかったことがたくさんある」と言う。 だから、坂本龍一を探して旅に出ようと決めた。未知の存在も含めて、坂本を知る人びとに会ってみよう、と。 それはこの国の戦後文化史であり、この時代の精神史にもなるだろう。
プロフィール
文筆家
1952年、東京・新宿二丁目生まれ。1968年、都立新宿高校に入学。1974年、早稲田大学文学部抹籍。
家族自営業をへて校正フリーターに。早稲田大学や東京藝術大学、立教大学の非常勤講師を務めた。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、非正規労働者運動にも参加する。
著作に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『千のムジカ』(青土社)、『暴力と音』(人文書院)、『ぐにゃり東京』(現代書館)など。最新刊は『鉛の魂』(現代書館)。