カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 最終回

「話」らしい話のない未来

永田 希(ながた・のぞみ)
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本論ではこれまで、人類史における情報技術の諸段階、情報をめぐる哲学、そしてメタフィクション的な文学作品を扱ってきました。
最終回となる今回はこれまでの議論を締め括るべく、情報技術にとっての基底現実ともいえる計算資源、書字媒体、そして時間についてまとめ直します。また、メタフィクションを読む読者にとっての時間という問題を振り返り、今後の情報技術の展望を模索してみようと思います。

瞬間と永遠を繋ぐ「枠」

 本論でこれまで触れてきた文学作品の多くは「枠物語 frame story」と呼ばれるものです。それは『デカメロン』のように、物語の登場人物がそのなかで別の物語の語り手となる、という入れ子構造をもつ物語です。
 『デカメロン』の場合の「枠 frame」は、疫病に見舞われたフィレンツェ郊外で登場人物たちが語るそれぞれの物語です。『あなたの人生の物語』では、語り手のバンクス博士が書いている手記が「枠」にあたります。また『失われた時を求めて』をも「枠物語」として捉えるなら、語り手〈私〉の記憶が「枠」に相当します。
 『はてしない物語』では、主人公のバスチアン少年が手にしているファンタージェンの物語が描かれた書物が「枠」となっています。彼が読むその書物のタイトルが、読者が「読む」まさにその作品と同じ題名であることで、『はてしない物語』の枠物語としての効果は独特なものになっています。
 『順列都市』も、コンピューターとそこでプログラムとして実行されるコピー人格(一種のAI)が作中作のように描かれている点で、やはり一種の「枠物語」と言えるでしょう。この世界では、コンピューターを動かすことでコピー人格が実行され、その「生きる時間」が仮想的に生み出されています。語り手、語り手の声、語り手が書く文字、書物、そしてそれらを代替するものとしてのコンピューターが、それぞれ「枠」の役割を担っているのです。

 ところでコンピューターを動かしてプログラムを「走らせる」とは、そこに記述された所定の計算を実行することです。そのためにはコンピューターと、コンピューターにプログラムを実行させる人間(オリジナル人格)がともに存在している世界(本論でいうところの「基底現実」)での時間が必要になります。計算には特定のコンピューターを必要な時間だけ占有する必要がありますが、当然それには費用が発生します。計算資源はこの費用によって確保されているのです(わかりやすい例としては、ウェブサイトを開設するために業者に費用を支払ってサーバーをレンタルすることを思い浮かべればいいでしょう)。

 書物と貨幣を対象とする議論を続けてきた本論で枠物語に紙幅を割いたのは、『順列都市』における計算資源と費用および時間と の関係が、他の枠物語における「枠」 にも見出せると考えたからです。
 『はてしない物語』では、バスチアン少年が書店から作中作の書かれた書物を盗みます。彼はそれを対価を払わずに手に入れますが、作中作の物語を読むために一晩の時間を費やします。『デカメロン』では語り手たちが語りに費やす時間の経過によって、外界に蔓延している疫病の流行の鎮静化が待たれています。『あなたの人生の物語』でも、バンクス博士は自分の娘の命(=時間)を代償に手記を書いていると言えなくはありません。もしバンクス博士が娘の死を知ることがないのであれば、この手記が書かれることもないからです。

読み上げと時間

 あらゆる枠物語はこのように、物語のなかに「枠」を作り出すための代償として物語内時間を必要とします。それはすなわち 物語内のキャラクターが「生きる時間」です。ある物語の読者は、その物語を記した書物を購入するために対価を支払うだけでなく、それを読んでいるあいだにかかる時間をも対価として支払っているのです。

 物語に時間を対価として差し出すということと、その物語をどのように読むかという問題との間には、いっけんしたところ関わりがないように思えます。しかし書物に書かれていることを声を出して読み上げる音読は、声を出さずに読む黙読よりもはるかに時間がかかります。言い換えるならば、黙読は音読よりも「経済的」なのです。
 ところで、アマゾン社のアレクサ、グーグル社のグーグルアシスタント、アップル社のシリのように、音声でユーザーとやりとりをして機器を操作する技術は「音声インターフェース」と呼ばれます。ジェイムズ・ブラホスの『アレクサvsシリ――ボイスコンピューティングの未来』によれば、これらのテクノロジー企業は音声インターフェースがAIの技術と結びつき、画面を見てタッチパネルやキーボードでいちいち入力する手間を省く技術として発展することを見込んでいます。
 枠物語と計算資源の話から音声AIへと話を繋げたのは、このテクノロジーが音読、黙読に続く「読み聞かせ」という第三の読み方を可能にするからです。読み聞かせは、自分で文字を読むことのできない子供や老人、障害者にとって本を「読む」重要な方法ですが、健康な視力をもつ成人には不要だと思われるかもしれません。
 しかし音声AIによる「読み聞かせ」はそのような人にも恩恵となります。 たとえば家事をしながら、あるいはあまり精神集中を必要としない手作業をしながら、読みたいものを「読む」ことを可能にしてくれます。音声AIが登場するよりも前から、ラジオ放送や朗読を録音したカセットテープによって「読み聞かせ」は受容されてきました。渋滞した道路を毎朝毎晩通勤しなければならないアメリカ都市部の労働者など、読み聞かせの恩恵に浴している人は少なくありません。
 「ながら聞き/ながら読み」が可能な読み聞かせは、音読や黙読とはまた異なった経済性を帯びてくるでしょう。読み聞かせ用のコンテンツが音楽配信プラットフォームで配信され、定額読み放題のようなこれまでの書物とは異なる対価の仕組みができるかもしれません。

主観時間と秘密と永遠

 すでにみたように、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』は司書たちの「生きる時間」と、時間性を超越した書物とを対比することで、書物と時間の関係についての新たな視点を提供してくれました。そのボルヘスに『内緒の奇跡』という短編作品があります。 この作品は、ユダヤ人排斥政策をとっていたナチスドイツに併合されたオーストリアで、秘密警察ゲシュタポに捕らえられ、処刑されることになった1人の作家の姿を描いています。
 ユダヤ人作家フラディークは、銃殺隊によって処刑されるまさにその瞬間、ある作品を完成させるためにあと1年の時間が欲しいという祈りを神に捧げます。その祈りが通じ、彼は殺されるまでの 一瞬(客観時間での一瞬)が、1年分の体感時間(主観時間の1年)に引き伸ばされるという体験をします。神の恩寵によって フラディークが体感時間の1年をかけて脳内で作った作品は、彼が処刑されてしまうためにおおやけにされることはなく、ゆえにこの作品は「内緒の奇跡」となるのです。
 ボルヘスの短編集『伝奇集』には『内緒の奇跡』に続けて『ユダにまつわる三つの解釈』という作品が収録されています。この作品では、キリスト教の開祖イエスを裏切り、銀貨と引き換えにイエスの刑死の直接の原因となった使徒ユダをどう解釈するかという神学の論争が記述されています。 イエスを死に追いやり、その対価として貨幣を受け取った裏切り者というユダのイメージは一般的なものです。しかしこの作品では、そのユダすらも全能の神が創造したものであり、その裏切りにも何か聖なる意味があるのではないか、という考察が検討されます。
 この考察においてユダは、イエスが刑死することになり自分も裏切り者として永遠に侮蔑されることを知っています。そのうえでユダは、 イエスの刑死というキリスト教を成立させるために欠かせない事態を実現するために、敢えて裏切り者になったとされるのです 。このユダの「裏切り」の尊さは、『内緒の奇跡』におけるフラディークの創作と同様、 客観的には判断ができない主観時間におけるものです。本人の意図がどのようなものであっても、客観的にはユダはやはり裏切り者であり、やはりイエスは刑死することになるからです。

裏切りと銀貨

 ボルヘスは『伝奇集』所収の別の短編『刀の形』や『裏切り者と英雄のテーマ』においても、やはりこの「裏切り」と主観時間と客観時間のズレを描いています。
 裏切りは一瞬の出来事であり、ユダたち裏切り者はその後、永遠に罪を負うことになります。しかしさきほどの解釈が正しければ、客観的に罪とされる時間を超越した永遠のなかで、たびたび「裏切り」を演じるユダの聖性を帯びた一瞬は再生され続けることになるのです。
 ユダは、イエスの命と銀貨を受け取るという負債を代償にして、自らを聖なる一瞬のなかに畳み込み、罪という永遠に自らを登録したとも言えるでしょう。その「裏切り」を解釈するたびにユダの「生きた時間」は再生され、読者の前に開かれることになるのです。
 ユダがイエスを売り渡すときに受け取った銀貨は、その額面がいくらであったにせよ、またそれが何枚であったにせよ、救世主の命と釣り合うものではありませんでした。また、ボルヘスの記した解釈が妥当なのだとしたら、ユダはただイエスを裏切るだけでよく、対価の銀貨を受け取る必要はなかった筈です。
 そもそも貨幣をもちいた取引において、支払われる金額が妥当であるかどうかは重要ではありません。ある商品の価格は恣意的に決定され、その根拠は究極的には存在しないからです。ユダが受け取った銀貨と、その銀貨の受け取りという取引が事実上に意味する「裏切り」は、解釈しなければその聖性を見出すことのできないもの、つまり聖性を隠しもつブラックボックスなのです。
 わたしは本論で、メソポタミア文明の遺跡から、人類が貨幣を用いるようになるよりも前にトークンを使って、のちに楔形文字を記した粘土板を用いて、牛などの在庫管理を行なっていたことに触れました。粘土板に記されていた文字が、現存する人類最古の文字、ということになります。現存していない、より古い年代の粘土板が存在することも十分に考えられますが、 粘土板の帳簿が現存最古の書字の記録であるということは、文明の最初期から数字が使われてきたということをあかしだてています。
 数字は、それが具体的な何を数えたものであるかに関わらずそれを抽象化し、数えあげられた当のモノを捨象してしまいます 数字と単位のセットとして存在している貨幣もまた、この数字の抽象化とモノの捨象作用を帯びています。岩井克人が『貨幣論』で指摘したとおり、貨幣は商品とは無関係に自己言及的なシステムを作っており、マルクスが『資本論』で持ち込もうとした労働時間(労働価値)が残存できる余地はそこにはありません。

文芸的な、あまりに文芸的な 

 芥川龍之介は遺作となる『或阿呆の一生』を書いたのと同じ1927年に『文芸的な、余りに文芸的な』という評論を連載していました。そこには1925年にフランスでアンドレ・ジッドが発表した『贋金づかい』で目指していた「純粋小説」と同じ単語(「純粋な小説」)が使用されています。

 「「話」らしい話のない小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するのであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。」

 『文芸的な、余りに文芸的な』は、用語の定義も結論らしい結論もなく、論旨を汲み取りにくい評論であり、この評論で芥川がいう「純粋な小説」が何なのか、結局のところ判然としません。しかし芥川が「最上のものではない」と断り書きを添えながらも、「最も詩に近い小説」「画に近い小説」という言い方で、他ジャンルに接近する小説こそが「純粋な小説」であるという主張を試みていることは読み取れます。それこそが「話」らしい話のない小説ということでしょう。。
 この評論そのものが、読み解けないブラックボックスであるということもできますが、敢えてこのブラックボックスを開く、つまり解釈をしてみるならば、次のようになるのではないでしょうか。ボルヘスの『伝奇集』に収められた先述の『ユダについての三つの解釈』のような、それ自体が「ブラックボックスを開ける」ような物語は芥川にとっては「話」らしい話のある小説であり、芥川はそれを迂回するような小説を模索していた、と。ブラックボックスを開けることのない話とは、枠物語の「枠」が「枠」として機能せず、開けるべきブラックボックスを見つけることができないような物語です。それはかつて『杜子春』や『魔術』のような、あからさまに「ブラックボックスを開ける話」を書いてきた芥川が、自己批判的に見出した路線だったのかもしれません。

謎と謎解き

 本論では数字を含む文字全般を、 最小単位のブラックボックスとして扱ってきました。数字や数に依拠する貨幣のことも、交換対象とされる商品との関係を捨象し、その関係を不可視化するブラックボックスとして捉えてきました。人類が獲得してきたすべての情報技術は、さまざまなモノやコトを不可視化してパッケージした複層的なブラックボックスです。本論の前半では歴史を遡るかたちで、それらのブラックボックスを次々に開いてきました。

 ところで、ある「謎」 (ブラックボックス)があり、そこで不可視化されているものを明るみに出すということは、「それがなぜそうなっているのか」を語ることです。したがって「それがなぜそうなっているのか」を語らない、芥川のいう「純粋な小説」は、ブラックボックスを開かず「ただそこにあることをそのままに書く」ものだと理解することができます。
 なるほど確かに、「ただそこにあることをそのままに書く」ならば、「『話』らしい話」にはなりません。その小説はただそこにひとつのブラックボックスとして存在し、その作品が自らを「開く」(解説する)ことはないからです。ある文字列がそこにあり、しかも何を意味しているのかわからないとき、このブラックボックス的な文字列は「暗号」と呼ばれます。芥川が「純粋な小説」と呼んだものは、それ自体が意味不明な暗号文であるということではないでしょう。しかしたとえばボルヘスの書いた『ユダについての三つの解釈』ではなく、その元ネタになっている『聖書』において、ユダが描写されている箇所ならばどうでしょうか。それ自体が謎めいている聖書のユダの行状は、『ユダについての三つの解釈』をボルヘスに書かせる程度にはブラックボックス的なものでした。そして芥川もまた、聖書のように「解釈可能だが、それ自体では解釈を行わない」ような話として「純粋な小説」を模索したのかもしれません。

 なぜそうなのか、なぜそうなったのか、それを説明する話(「話」らしい話)ではなく、ただそうである様子を書き記したもの。謎解きではなく、謎そのものを提示するということ。小説は、それ自体がブラックボックスである文字や言語によって書かれるものである以上、小説で語られる物語(話)がブラックボックスを開ける(謎を解く)ものであっても、不可視化されたものがすべて可視化されるわけではありません。芥川はそのことに自覚的であり、謎解きの物語を不純物として排除した「話」の意義を論じたかったのではないでしょうか。

融解する「枠」

 批評家の東浩紀は『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』という論考 で、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の作者フィリップ・K・ディックの諸作品を解釈しながら、実在しないにもかかわらずあたかも実在する空間のように語られる「サイバースペース」について論じています。
 東はエドワード・サイードの『オリエンタリズム』と『オリエンタリズム』をサイバースペースに結びつけた「テクノ・オリエンタリズム」という概念 を参照しつつ、サイバースペースの空間性を批判的に読み解いていきます。その過程で、ディック作品において枠物語の「枠」が、いわば融解して遍在するようになる様子が指摘されます。
 枠物語においては、その「枠」のなかにある世界(つまり虚構世界内虚構世界)は「実在しないにもかかわらずあたかも実在するかのように語られる空間」すなわちサイバースペース的な場所です。ただしサイバーパンクの元祖と呼ばれるウィリアム・ギブスンの作品では、登場人物は現実空間とサイバースペースとの間で物質的身体から電子的身体に「乗り換え(スイッチング)」するだけで、その同一性が脅かされることはない、と東は論じています。
 しかしディックの諸作品においては、サイバースペースへの没入(ジャック・イン)の前後でその同一性は惑乱し、サイバースペースから帰還したはずの登場人物の世界に、サイバースペースの世界の事物が現れるようになったりします。
一般に時間は空間と対比的に語られますが、少なくともディックのある種の作品の登場人物たちにとって、時間と空間は不可分なものになっているのです。そのため、客観的には単に「サイバースペースという仮想空間に没入して、それを終えた」という体験をある登場人物が経験することによって、その人物がサイバースペースをある意味で通過した時間軸に、その作品世界の全体が巻き込まれていくことになります。ディックが『ユービック』や『ヴァリス』で描く世界は、客観的な空間と時間ではなく、登場人物の主観的な空間と時間が支配しているのです。
 客観的な時間が強固に存在しているイーガンの『順列都市』やチャンの『あなたの人生の物語』、ボルヘスの『バベルの図書館』のような「閉じ(永遠)と開き(生きる時間)」の鮮烈な対比は、ここにはもはや存在しません。ブラックボックスは勝手に開き始めるのですが、最後まで 謎は解けず、登場人物たちはわけがわからないまま主観時間の進行に身を任せ、あがくことしかできません。ディックのこれらの作品においては、ブラックボックスをいくつ開いても、作品に描かれている「ただそこにある」謎はまったく解明されず、このことがひとつのきわめて強力なリアリティを作品に与えているのです。
 ディックは、芥川が晩年に指摘した「『話』らしい話のない小説」を、その意味では描き得ていたのかもしれません。
 本論をしめくくるにあたって、さまざまな枠物語を例に挙げたうえで、最後に枠物語を否定するような芥川とディックの作品の例を引いたのは、文学作品がどのようにブラックボックス性と向き合ってきたのかを示すためでした。すでに触れたとおり、それ自体がブラックボックスである文字と言語を用いて、文学作品はひとつのブラックボックスを作り出します。枠物語はこの「ブラックボックスでブラックボックスを作る」という文学の構造を利用した自己言及的なジャンルですが、芥川やディックは、その自己言及性を否定することで枠物語というブラックボックスをさらに外側から可視化しようとしたとも言えるでしょう。
 本論を読み終えた読者諸氏それぞれの主観時間において、本論から目を離したときに見ることになるモノやコトのひとつひとつが、あらためて開かれることを待つブラックボックスに見えてくるようになれば幸いです。
 なお本論は、そのほぼすべてがわたしの手のなかに収まるひとつのブラックボックス、つまりiPhoneで執筆されました。執筆の最中の推敲には、iOSに内蔵された音声AI「シリ」による読み上げを利用しています「不可視化」という(逆説的ながらも)視覚的な表現で、本論のメインテーマであるブラックボックスを性格づけてきましたが、本論の読み上げを聞いているときのわたしは、本論を自分でも十分に捉えきれないひとつのブラックボックスとして捉えていました。

 音声AIはiPhoneのようなスマートデバイスに限定されるものではありません。家電や自動車、街中の広告などがわたしや読者に語りかけてくる未来はすぐそこまで来ています。誰が、何が、なぜ、どのように語りかけてくるのかが不可視化される、かつてないブラックボックスの時代が未来には訪れるでしょう。その頃には、本論で扱ってきた書物や貨幣は見ることも触ることもできない姿になっているのかもしれません。(了)

※本論は大幅に改稿し、集英社から『世界は「見えない箱」でできている』(仮)として2021年夏以降、新書化される予定です。

 第15回 

プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)

1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評家・著述家。書評サイト『Book News』主宰。「時間銀行書店」店主。「週刊金曜日」書評委員。「ダ・ヴィンチ」でブックウォッチャーの1人として毎月選書と書評を担当。「HONZ」「週刊読書人」「図書新聞」などでも書評家として活躍。著書に『積読こそが完全な読書術である』『サイコパスの読書術 暗闇で本を読む方法』など

 
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