分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
今回紹介するのはカナダ人女性作家マーガレット・アドウッドの代表作であり、ドラマシリーズも人気を博している『侍女の物語』。
みなさんもご存じのとおり、大学の文学部に入学すると、いつかは卒論を書かなければならない。いや、そうでない学校も最近はあるのかもしれないけれども、少なくとも早稲田の英文科ではずっと昔から、ある程度の長さの卒論を書くことが義務である。今まで授業で出された課題をこなすのに精一杯だった学生は、ここで初めて、自分が何について書きたいのかを問われることになる。急に自由な意見を言え、と言われて当惑する学生も多い。
このとき、僕はいつもこう指導している。卒論でこれから取り上げる作品が、立派だとか、有名だとか、文学史的に重要だとかいうことは考えなくていい。むしろ読んでいて自分の気分がよくなるもの、この作家の書いた作品ならもっと読みたい、と思えるものを選びなさい、と。だが、これがまた困難なのだ。そもそも、今まで自分の気持ちに即して読む本を選んだことなどない、という学生も多い。ここは、大学で文学を教えることの難しさだろう。
学校とは、他人に教わったことをきちんと覚え、身に付ける場所だ。だが、そもそも文学は芸術の一種であり、芸術とは、自分の内側から出るものをいちばん大切にしなければならない。すなわち、自分に従わなければ文学はできないが、他人に従わなければ学校は卒業できないのである。まさに大いなる矛盾と言えよう。けれども、大学に文学部を設置したのは僕ではないので、そこは許してください。
さて、長年卒論を指導してきて、学生たちが選ぶ作品には一定の傾向があることが分かってきた。何より、自分と似たような年代の主人公が活躍する作品を選ぶことが多い。一言で言えば、アメリカの青春文学が常に人気があると言えよう。たとえばF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(中央公論新社)である。
中西部からニューヨークに出てきた青年が、ギャツビーという得体の知れない大金持ちの男と出会い、戦争体験や悲恋といった青春の葛藤を目撃するという内容の、20世紀アメリカ文学における名作である。自分はちゃんと社会の中で生きていけるのか、はたして好きになった人に愛されることができるのか、そういった青春の不安をギュッと詰め込んだ本作に彼らが惹かれる気持ちはよくわかる。
その点では、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』(河出書房新社)なんかも似ている。田舎のガリ勉の女子高校生だった主人公が、やがて奨学金を取り、きらびやかなニューヨークの広告業界でインターンをする。だが、途中で自分にはこの世界が向いていないことに気づいて、心の均衡を失ってしまう。せっかく買い揃えた素敵な服も捨ててしまい、恋人の浮気に傷つき、精神の均衡を失って、ついに精神科に入院する。だが、良心的な医者に導かれる形で、なんとか一時的にでも平静を取り戻す。
他にも、J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(中央公論新社)や、ポール・オースターの『ムーン・パレス』(新潮文庫)など、学生に人気の青春小説は枚挙にいとまがない。したがって、指導する教員の方はいくつになっても、毎年20歳の気持ちを取り戻した上で、学生たちと一緒に、青春の煉獄を巡り歩くことになる。これはこれで楽しいが、ときどきふと、自分はすごく奇妙な仕事をしているなあ、と思う。
だが一方で、世界の深刻な矛盾を正面から見据えた作品を選ぶ学生もいる。たとえば、アメリカ南部における人種差別とカトリックの問題を、奇妙で残酷な作品を通して探求したフラナリー・オコナーだ。「善人はなかなかいない」(『フラナリー・オコナー全短篇〈上〉』ちくま文庫)など、何度読んでも、なぜ、そうなるのかがわからない難解な作品を取り上げて、自分なりに考察しようとする学生がいるのは頼もしい。彼らの姿を見ていると、正解を出すことではなく、常に問い続けることが文学なのだ、とあらためて教えられる。
そうした流れに連なるのが、今回取り上げるマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』(ハヤカワepi文庫)だろう。Huluで映像化もされた本作は、何度読んでも凄惨極まりない。同時に、細かい気づきや人生における喜び、そしてそこはかとないユーモアなど、多くの楽しみに満ちている。アトウッドには優れた作品がいくつもあるが、読みやすさと面白さ、思考の深さの点では、これがナンバーワンなのではないか。僕も、アトウッドで何を読めばいいかと訊かれたら、まずはこの『侍女の物語』を勧めることにしている。
さて、『侍女の物語』とはどんな作品なのか。近未来のアメリカを舞台としたディストピア小説である。アメリカ議会が少数のテロリスト集団に襲われ、憲法が停止される。やがて再び秩序が取り戻されるが、それはいままでのアメリカ合衆国ではない。代わりに樹立されたのがギレアデ共和国である。ギレアデにはある特徴がある。堕落した現代文明を排除し、かわりに政治と宗教を一体化した神権政治が打ち立てられたのだ。すなわち、猛烈に抑圧的で性差別的な、アメリカ入植初期のピューリタン国家が復活したのである。
一言で言えば、ギレアデは白人男性のユートピアだ。それを実現するために、黒人など少数民族は追放され、徹底した女性蔑視のシステムが打ち立てられた。有毒物質がはびこり、出生率が劇的に低下したギレアデでは、女性全員が職業を奪われ、財産を没収される。そのうえで彼女らは、司令官の妻、下働き、そして子どもを産むのが仕事の侍女に分類された上、社会の各所に配分される。
この作品の語り手であるオブフレッドが配属されたのも侍女だった。彼女たちは高齢の司令官の家に派遣され、元の名前を奪われて、「オブフレッド」(フレッドの)といった所有物としての名前を与えられる。そしてひたすら司令官と性交を伴う儀式を重ね、もし妊娠に失敗すると、不完全女性として有毒物質処理に回され、死を迎える。
人としての尊厳を完全に奪われた彼女たちだが、密かな抵抗は続く。買い物中のほんの少しの目配せで他の侍女たちと意思を疎通し、短い囁きで情報を交換することで、広大な領域のネットワークを構築する。彼女たちを支援する組織もある。地下鉄道と呼ばれ、各地のクエーカー教徒などが協力しながら、秘密裏に侍女たちを匿い、カナダまで逃がす。
作品は、主人公が配属された司令官の家から組織の手伝いを得て逃げ、地下に身を隠した状況で終わる。彼女が無事カナダまで行けたかどうかは誰にもわからない。ただ、組織の拠点で発見された二十世紀のカセットテープに吹き込まれた証言から、彼女の不完全な足取りが判明するだけだ。そしてこの作品自体が、このカセットテープの書き起こしという設定になっている。
このような作品を描いたマーガレット・アトウッドとは、どのような人物なのか。2013年にノーベル文学賞を受賞し、2024年に亡くなったアリス・マンローと並んで、彼女は押しも押されもせぬ現代カナダ文学の代表者である。いや、むしろ現代カナダ文学を作った立役者とすら言っていい。彼女は『サバィバル: 現代カナダ文学入門』(御茶の水書房)という評論で、アメリカ文学とは違ったカナダ文学の特徴を述べ、現代カナダ文学を考える上での視点すら定義した。アメリカ合衆国という強大な隣国に影響を受けながら、過酷な自然の中で生き延びることをめぐってカナダ文学は展開してきた、というのがそれだ。
アトウッドは1939年、オンタリオ州オタワで生まれた。トロントに在住していた彼女は幼少時には、昆虫学者だった父親とともに、カナダ北部によく出かけていた。自然への彼女の鋭い感覚は、こうした経験が反映しているのだろう。彼女が作品を書き出したのは、なんと5歳のころである。その後トロント大学で学び、さらに1962年に、アメリカ合衆国のラドクリフ・カレッジで修士号を取得する。ちなみに、ラドクリフ・カレッジは現在ではハーバード大学の一部となっている。
彼女は詩人としても高名であり、また小説だけでなくノンフィクションも手がけている。何より有名なのは『侍女の物語』だが、「マッドアダム三部作」と呼ばれる『オリクスとクレイク』(早川書房)、『洪水の年』(岩波書店)、『マッドアダム』(岩波書店)もよく知られている。この三部作でも、環境破壊と科学の暴走のなかで生き延びる人々の姿が描かれている。
さて、『侍女の物語』の世界に戻ろう。そこでは、白人男性のユートピアを実現するために、3種類の人々が迫害されている。知識人とマイノリティと女性たちだ。そのうち知識人は、基本的に殺されてしまっている。大統領や国会議員だけではない。医師や弁護士、大学教授など、ギレアデの体制を批判しそうな人々は、予防的に皆殺しにされているのだ。そもそも、政府以外のメディアもすべて廃止されているから、ギレアデ政府を批判する組織自体が存在しない。
次にマイノリティである。キリスト教神権政治を行っているギレアデでは、すべてが聖書に基づいて運営されていることになっている。だが、この聖書が曲者で、ギレアデの支配に合うように書き換えられてしまっているのだ。ということはつまり、ギレアデは、本当はキリスト教に基づいた政治ですらない、単なる独裁国家だということになる。書き換えられてしまう前の聖書を読むためには、ギレアデの支配層に加わるしかない。そしてもちろん、ユダヤ教も含めた他の宗教の信者は徹底的に弾圧されている。
地下鉄道の運営にクエーカー教徒が携わっているというのも、いかにギレアデでの宗教的な抑圧が強いかを示している。と同時に、19世紀のアメリカにおいて、黒人奴隷を北部やカナダに逃がしていた地下鉄道で、クエーカー教徒が重要な役割を果たしていた、という事実を思い起こさせてくれる。さらに、黒人などの人種的マイノリティは強制移動させられてしまっている。したがって、元アメリカでありながら、見渡すかぎり白人しかいない。もっとも、日本人の観光客は登場するのだが、すぐに本国に帰ってしまう彼らは、ギレアデの脅威にはなり得ない。
そして、本作で何より中心となるのは、女性たちへの抑圧だ。クーデターが起こった瞬間、アメリカに住む彼女たちの出国は停止される。それだけではない。彼女たち名義の銀行口座は封鎖され、同一家族内の男性にすべての金額が電子的に移転される。つまり、彼女たちは自分で資産を持ち自由に使う権利を、知らぬうちに奪われてしまうのだ。そして次に、すべての職場から追われ、スタジアムなどに集められて、ギレアデによってどう利用されるかが決定される。支配に抗議する者は、その場で射殺されてしまう。
オブフレッドに与えられたのは侍女という役割だった。侍女とは何か。ギレアデの司令官の家に配属され、そこで子どもを産むための奴隷として扱われる女性たちのことだ。おそらく核戦争後だろうこの時代、環境汚染は深刻化しており、それに伴って子どもの出生率も極端に下がっていた。加えて、司令官の子どもしか受け入れないギレアデは、既婚である年配の司令官の家に侍女をあてがい、なんとか人口を増やそうと画策していたのだ。だが、侍女たちは容易に妊娠しない。そして、妊娠しても多くが死産で終わる。このように、子孫を作ることに失敗した侍女たちは廃棄物処理班に回され、そこで被曝し、遅かれ早かれ亡くなることになる。
不妊の理由は環境汚染だけではない。ギレアデにおいて、子供ができない理由はすべて女性側に押し付けられていた。けれども、冷静に考えてみればわかるように、年配の司令官の男性の生殖能力が高いとは思えない。だが、こうした当たり前の事実さえ、ギレアデのイデオロギーを脅かすものとして否定されている。こうした矛盾を乗り越えるために、侍女たちの一部は健康診断の時に医師たちの男性に身を任せたりして、なんとか妊娠しようと画策する。子供さえできれば、彼女たちは祝福された上、殺されずにすむのだ。だが、その試みの多くは失敗に終わる。
本書に出てくる夜の儀式はかなりグロテスクだ。まず、ベッドに司令官の妻とオブフレッドが上下に並んで横たわる。もちろん、妻が上で、オブフレッドが下だ。そして、ベッドインした司令官は、オブフレッドの下半身とセックスをしながらも、決して彼女を見てはいけない。司令官が見ていいのは妻の顔だけである。したがって、彼は縦に長い一人の女性と寝ているふりをし続けなければならないことになる。
当然ながら彼はこのとき、オブフレッドとの心の交流はない。けれども、そうした建前は、やがて司令官の方から破られることになる。ひょんなことからオブフレッドは家人に知られることなく、司令官の部屋に通うことになる。実は司令官は、オブフレッドにあることを求めていた。それは、なんとスクラブルをすることだった。
スクラブルというのは、アルファベットの文字が書かれた小さな板を並べながら、即興でクロスワードパズルを作っていくゲームのことだ。そして、この言葉を介した遊びを通して、司令官はオブフレッドと精神的につながろうとするのである。実は司令官は妻との関係において孤独を感じていた。だからこそ、彼はほんの少しのぬくもりをオブフレッドに求める。
そして彼女のほうは、司令官と交渉しながら、様々なものを少しずつ手に入れていく。まずは保湿のために顔に塗るバターである。そして次には、ギレアデ成立前に発行されていた女性用のファッション誌だ。実は彼女は昔、こうした雑誌を馬鹿にしていた。だが今、彼女は重大な事実に気づいている。そうしたファッション誌は、実は服を紹介していたのではない。「それらの雑誌の本当の希望は不死の夢だった」(284ページ)。そして、司令官が隠し持っていた雑誌のグラビアで大胆に肌を出し、両足を開いてしっかりと大地に立つモデルたちを見て、オブフレッドは過去に存在していた強い女性像を思い出す。そしてまた、彼女自身がその一人だったことも。
女性を利用可能なものとして扱うギレアデにおいて、権力を独占した白人男性たち。だが、彼らもまた幸福ではない。おそらく、人を物とみなす社会では、そんなふうに他人を見る人々自身もまた物となってしまうのだろう。だからこそ、スクラブルというささやかな子どもの遊びの時間だけが、司令官にとって自分の人間らしさを感じられるひとときになっているのだ。だが当然ながら、こうした時間は長くは続かない。
やがてオブフレッドは解放組織と連絡を取ることに成功し、姿を消す。そして、おそらく今まで司令官の家で何が起こっていたのかが暴かれ、司令官とその妻はともに罪に問われることになる。そして2人はギレアデによって殺されてしまうのだろう。差別は、誰も幸福にしない。アトウッドの本書は、そのことをはっきりと示している。
(次回へ続く)
参考文献
マーガレット・アトウッド『侍女の物語』斎藤英治訳、早川epi文庫、2001年
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分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
プロフィール
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とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。