アメリカ文学の新古典 第9回

粘ること、生き続けること―オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』

都甲幸治

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
今回紹介するのは黒人女性SF作家のオクテイヴィア・E・バトラーの短編集『血を分けた子ども』

 アメリカ合衆国のSF作家と聞いて、あなたはどんな人物を思い浮かべるだろうか。白人男性で、ちょっとオタクっぽい雰囲気で、笑顔を浮かべている。髭なんかも生えていて、よれっとしたTシャツを着ている、みたいな感じかもしれない。ご存知のとおり、有名なアメリカのSF作家で黒人はすごく少ない。サミュエル・R・ディレイニーぐらいだろうか。ならば女性はと言うと、これもすごく少ないだろうことは容易に想像がつく。パッと思い浮かぶのはアーシュラ・K・ル=グウィンぐらいだろう。ならば黒人女性はと言えば、ほとんどいないのではないか。だが、ここに例外がいる。今回取り上げる、オクテイヴィア・E・バトラーだ。

 2000年代の初頭、僕がロサンゼルスの南カリフォルニア大学に留学していたころから、彼女はとても有名だった。彼女が、ロサンゼルスのすぐ隣町であるパサデナ出身というのも、強く影響していたのかもしれない。要するに、誇るべき地元の作家というわけだ。そのころ、大学院で指導していただいていたベトナム系作家のヴェエト・タン・ウェン先生も実はSFが大好きで、バトラーについて授業中、何度も言及していた。だから当時、彼女の作品を一冊購入した記憶がある。

 けれども、そのあと僕は日本で就職し、なんだかんだ忙しくて、彼女の作品を読まぬまま、気づけば20年の時が過ぎていた。だからこそ、最近になって学生に促されて、バトラーの短篇「血を分けた子ども」を読み、その鮮烈なイメージと、扱っているテーマの複雑さ、そして作品の中を流れる感情の的確な細やかさに圧倒されてしまった。

 「血を分けた子ども」はこんな話だ。舞台は、地球から遠く離れたある星である。ここには、かなり昔に宇宙船で地球から逃げてきた人類の子孫と、トリクと呼ばれる謎の生物が住んでいる。手足をたくさん持つ節足動物で、クモやムカデのような形をしている、大型の知的生命体だ。

 それ以外にも哺乳類っぽい家畜がいるが、細かいところまではよくわからない。地球で殺されたり奴隷にされたりすることを避けるために、人類はわざわざこの星まで逃げてきた。そして先住民であるトリクたちに囚われ、今では彼らに家畜のように飼われている。

 いや、それは言い過ぎかもしれない。人類は保護区の中に住んでおり、そこではある程度、人権も守られ、いくばくかの敬意を持って扱われている。なぜ人類はそのように守られているのか。それは、トリクには人類の身体を利用しなければならない理由があるからだ。

 彼らは自分たちだけでは子孫を残すことができない。ぜひとも何らかの別の動物の体内に自分たちの卵を産み付け、孵化させる必要がある。そして、芋虫のような姿となって卵から出てきた子孫は、宿主の身体を食べ、ある程度大きくなったところで、宿主の皮膚を食い破って外に出てくる。

 人類がやってくる前、トリクたちはほかの動物の体に卵を産み付けていた。しかし、その動物は次第にトリクたちに逆らうようになり、ほとんどの子孫を殺してしまうようになった。確かに、この星には人類以外にも、現在家畜となっている別の大型動物がいる。だが、最初からその動物に産み付けられた卵から生まれたトリクは、たくましく育つことができない。

 だからこそ、今やトリクたちは人類の身体に卵を産み付けるしかない。ただし、文明人としてのトリクは人類の人権を守るために、幼虫が卵から孵化するまでだけを人類に担当させている。そしてその後は、幼虫を人類の身体から取り出した上で、他の大型動物に移し替える。こうして、人類への負担をできるだけ最小にとどめながら、自分たちの生殖のために人類を利用しているのである。

 しかも人類の再生産を促すために、トリクたちは自分たちの卵を、基本的には男性にしか産み付けない。彼らは女性に産み付けることで人類が滅亡してしまうことを避けたいのだ。したがって、今やほぼすべてのトリクは、人間の男性から生まれた、ということになる。

 人類の各家族は、男の子を一人だけ家主としてトリクに差し出す、という決まりになっている。主人公であるギャンもまた、そうして選ばれた一人だ。ギャンが幼いころから、彼の家族の一員としてトリクであるト・ガトイがいた。まさにギャンは、トリクの存在を身近なものとして育ったのだ。そのこともあって、ギャンは自分の宿主としての運命を当然のこととして受け入れている。反対に、彼の兄は絶対にトリクの言いなりにはならないと逆らってばかりだ。

 ギャンはト・ガトイが大好きで、暇さえあれば彼女のたくさんある腕に抱きしめられたがる。そうしていると、なぜだかうっとりしてしまうのだ。しかも、不安なことがあれば、ト・ガトイの尾に生えている毛針で刺してもらう。そして謎の化学物質を注入されたギャンは幸福感に包まれることになる。

 だが、いざト・ガトイの卵を産み付けられる日が近づいてきたとき、ギャンはある光景を目撃してしまう。家の近くで、人間の男性が倒れていた。彼もまたトリクの宿主で、一人きりのときに体内の卵が孵化したのだ。幼虫は毒素を出し、宿主を身動きできなくする。そしてある程度時間が経ったころ、幼虫は宿主の体を食べ始める。

 彼を見つけたト・ガトイは、命を救うために彼の体を切り裂き、血まみれの幼虫を何匹も取り上げる。幼虫はいずれも元気に大きく育っていた。彼らを見てト・ガトイは大いに喜ぶ。さらに、幼虫についた人間の血をうまそうに舐める。その姿を見ていたギャンは、ずっと身近な家族だと思っていたト・ガトイに、絶対的に理解不能な面があることに気づく。そして、自分でもわからぬうちに涙を流していた。

 ショックを受けたギャンは、ト・ガトイに向かって言う。もう自分は宿主にはならない、と。だが、ト・ガトイが、それではギャンの姉に卵を産み付ける、と言うと、彼は苦しむ。果たして自分の身勝手のせいで姉を犠牲にしても良いのだろうか。そして、彼女を守るために、ギャンは改めて宿主となることを受け入れる。それは彼の英雄的な行為だったのか。だが、そうとも言い切れない。なぜなら、自分が宿主になるのを拒むことで、ト・ガトイの愛情が姉に移ってしまうことを、ギャンは内心恐れていたからだ。ならば、これは一つの愛の行為なのだろうか。そうして、彼はトリクの母親となるべく、自分の肉体を提供する。

 「血を分けた子ども」を表題作とするバトラーの短篇集では、各作品の後に筆者自身による短い解説がついている。その冒頭で、彼女は本作を奴隷制の物語ではないと、はっきり語っている。しかしながら、その言葉を鵜呑みにして、本作が黒人たちを数百年にわたって家畜扱いした奴隷制とは無縁のものである、と結論づけるのは早急すぎるだろう。むしろバトラーが言いたいのはこういうことではないか。

 確かに、この作品の筆者は黒人女性である。そして黒人が書いた作品は潜在的に、すべて奴隷制を巡るものである、とアメリカでは理解されてきた。言い換えれば、それだけを指摘していれば足りる、と読者は考えがちだ。だからこそ、奴隷制以外のたくさんの要素にも目を向けてほしい、と。

 彼女の言葉にも関わらず、というか、その言葉ゆえにこそ、この作品の中心には奴隷制の歴史があると僕は読まざるを得ない。まず、この星にいる人類がかつて、殺されるか、もしくは奴隷にされる運命を逃れてこの星に移住してきた、という基本設定がある。

 実は、アメリカでの人種差別を逃れてアフリカに帰還しようという運動は、アメリカの歴史を通じて何度も起こった。そして実際に、アフリカに戻り、1847年に西アフリカにリベリアを建国した人々すらいた。あるいは、実際には戻らないまでも、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエを敬愛し、常にアフリカ大陸を心の故郷として憧憬するラスタファリズムを信奉する人々もいる。レゲエ・ミュージシャンのボブ・マーリィはその一人だ。あるいは、宇宙船に乗って移動するというのは、黒人たちと最新のテクノロジーを結びつけるアフロ・フューチャリズムを思い起こさせもする。

 この星に宇宙船でたどり着いた人々は奴隷の運命を逃れることができた。けれども、今度はトリクたちに、大型の動物として飼育されることになってしまう。しかもトリクたちとは外見がかけ離れた人類は、彼らから見れば、昆虫のような存在だ。ここで、人類と昆虫の関係が入れ替わっている。実はバトラーはこの物語を、人間に卵を産みつけるペルーのヒフバエの話から思いついたという。つまり、この作品の人類は、白人たちから逃れたがゆえに、今度は巨大な昆虫に囚えられてしまった、と読むことができる。

 最初人類は、囲いの中で、男女一緒にされていた。そうやって交配させられ、できた子孫を売られていたのだ。だが、人類の精神生活に気づいたト・ガトイたちが、人類に家族を持たせ、彼らの文化を尊重するという現在の制度を作り上げた。他のトリクからの圧力に逆らって保護区を開設したのも、ト・ガトイたちの努力による。しかし、そうしたソフトな支配は果たして、人類にとって幸福なものなのだろうか。むしろ急激にトリクへの反感が高まり、トリクと人類が血みどろの争いになって、果てにはそのどちらかが滅亡することを避けるために考え出された、より巧妙な支配の形ではないのか。

 そうした、優しさの裏側に存在する欺瞞が、作品からはじわじわと伝わってくる。ならば、人類はそうしたシステムの嘘を見抜いて、トリクたちと徹底的に戦えばいいのか。だが、もはや一度家畜化された彼らは、大したテクノロジーを持っていない。この星を出て行く宇宙船もないし、強力な武器もない。あるのは、先祖から受け継ぎ、隠し持っている数丁のライフルだけだ。そして、もちろんそうしたものでこの支配をひっくり返すことなどできない。

 ただ彼らに可能なのは、トリクたちの所有物として、ある場合には感情的なつながりを維持しながら交渉し、昨日より少しでも生きやすい状態を手に入れることだけだ。もちろん、それはあきらめの一種だろう。だがそれでも、幸か不幸か、人類は日常の中にあるほんの少しの喜びさえあれば生き続けることができる。

 ここまで考えてきて、僕らはあることに気づく。本作に登場する人類たちは、アメリカに住む黒人だけでなく、現代の我々全員の比喩なのではないか。我々もまた、この文明世界の中で自由の幻想を抱きながら生きている。だが、社会による支配は常に巧妙化していき、知らず知らずのうちに我々をあやつる。いかにメディアや学問がそのことを暴き立てたところで、今度は支配の手法がさらに巧妙化していくだけだ。こうした状況下で生き続けるとはどういうことなのか。甘い解決法を提示していない分、バトラーの作品は僕らに人生の真実を突きつけてきている。

 その他、本作には様々な心理的な仕掛けがある。どうしても男性が母親にならなければならない世界において、彼らはどのような気持ちを持つのだろうか。あるいは、違う生物を支配するのではなく、彼らに支配されるという状態において、感情はどのように動くのか。我々が普段当たり前だと思っている前提をひっくり返したとき、思考の可能性が顔を出す。優れたSFは、そうした新たな空間を常に開いてくれる。

 こうした作品を描いたバトラーとはどのような人物なのか。彼女はルイジアナからやってきた母親の子として、1947年にカリフォルニア州パサデナで生まれた。小さいころから内向的、読書ばかりしていたという。本短篇集に収録されたエッセイには、貧しい中、雇用主が捨てた本を母親がせっせと家に持ち帰り、バトラーはそれらを読んで育ったとある。やがて彼女は、自分が空想し、書きとめた物語の世界に没頭するようになった。身長が180cmまで伸びた少女にとって、周囲からの攻撃を避けられる安全な場所は自分の作品だけだった。そうした彼女が作家を目指すのも、いたって自然なことである。

 だが、状況は彼女に味方しなかった。ただでさえアフリカ系の人々が作家になるのが難しい時代に、女性でなおかつSF作家を目指した彼女には、当然ながら苦難の道が待っていた。長い年月、雑誌から送られてきた断り状を溜め込んでいたという話は、読者の胸を打つ。

 だが、驚異的な才能を持った彼女を、文学の世界は放っておかなかった。ハーラン・エリスンに勇気づけられた彼女はついに、1976年に長篇『パターンマスター』を出版する。それから立て続けに長編小説を執筆していく。1979年に出版した『キンドレッド』は日本語訳も出ており広く知られている。

 1984年には短篇「話す音」で彼女はヒューゴー賞を、さらに「血を分けた子ども」でヒューゴー賞とネビュラ賞を獲得する。気づけば彼女は黒人女性作家として、押しも押されもしない存在になっていた。1995年には天才奨学金とも称されるマッカーサー賞を受賞したことからも、彼女の評価の高さがわかる。だが、2006年に惜しくも彼女はワシントン州シアトルで亡くなった。

 この短編集には「前向きな脅迫観念」と「書くという激情」という2本のエッセイが収録されている。これらを読むと、どういう気持ちでバトラーが作品を書いていたのかがよくわかる。幼いころ、作家になりたいと伯母に言うと、伯母は「黒人は作家にはなれないよ」と否定してくる。怒ったバトラーは「黒人だってなれるはずだよ!」(150ページ)と強く言い返す。

 しかし考えてみれば、生まれてから13年のあいだ、彼女は一度も黒人が書いた作品を読んだことがなかった。そして、ここで伯母の言葉を受け入れてしまわないのがバトラーの強さだ。だったら自分の力で世界を書き換えてしまえばいい、というのが彼女の考え方である。

 だが、ただの反抗心で状況を変えることはできない。「書くという激情」によれば、それに必要なのは習慣的に書き続けることと学び続けること、そして自分の想像力を信じることだ。閃きを待たず、毎日、時間を決めて粘り強く書き続ける。才能などに思い悩まず、常に本を手にして学び続ける。断り状を受け取っても気にしない。自分には想像力があると確信して、とにかく書き続ける。ただやめないこと、そして毎日続けること。そうした地道な積み重ねの先に、ようやく変化がやってくる。

 こうしたバトラーの言葉は、すべての仕事にも当てはまることであろう。彼女がどうやって作家になったのか、というエッセイを読みながら、僕は多くのことに気づかされた。そして、彼女のこの言葉は強い。「私たちはみな、ふだん考えているよりもはるかに高いところに達することができる。/もう一度言おう。大事なのは「粘ること」だ」(166ページ)。

参考文献
オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』藤井光訳、2022年。

 第8回
アメリカ文学の新古典

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。

プロフィール

都甲幸治

とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

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粘ること、生き続けること―オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』