高額療養費の「現金給付」と「現物給付」は何が違う?
それにしても、いったん立ち止まることになったとはいえ、今回の高額療養費制度〈見直し〉案に関する一連の政府・厚労省の姿勢にはどうにも釈然としない点が多い。というよりも、そもそもこの見直し事案はなぜ昨年冬に唐突に浮上してきたのか、何のためにこの制度にいきなり手をつけようとしたのか、そこがどうにもよくわからない。正直なことを告白すれば、ワタクシはこの制度を15年以上利用して治療費の支払いなどで漫然と恩恵を受けてきた側の人間だが、今回の見直し案提示が契機となって、その背景にある医療と社会保障の様々な課題を恥ずかしながらようやくハッキリと認識しはじめたような状態だ。そして、そこでわかったのは、上限額見直しなどよりも先に手をつけるべきことが山ほどあるでしょうに、という現実だ。
たとえば前回紹介した、保険者が変わると多数回該当がリセットされてしまうという長年の制度的問題をちゃんと理解できたのは、じつはつい最近である。だいたいが健保そのものに対する認識自体、自分が加入している保険のこと以外は、医療専門家や研究者などでもないかぎり、誰しもあまりよく理解していないものだろう(自分も含めてね)。そんな認識のギャップが利用者側にもあるためか、健保を変わる際に発生するこの大きな問題は今に至るも手つかずのままである。
健保の違いに関連することでは、ワタクシは30年以上ずっと個人事業主として国民健康保険に加入してきたわけだけれども、大企業の健保組合や公務員が加入する共済組合の場合にはどうやら付加給付というものが存在して、たとえば高額療養費を支払った場合でも上限額に対してさらに補助のような形で一定金額が支給され、付加給付のない国保や中小企業の協会けんぽの加入者よりも事実上の負担が軽くなるらしい……ということを知ったのも、本当についこの間のことである。
また、知らないといえば、今回の一連のニュースで高額療養費という言葉を初めて聞いたような人々には、「現金給付」と「現物給付」という2種類の支払い方法があることやその違いについて、直観的な理解はかなり難しいと思う。現金給付とは、自分自身がいったん窓口で治療費の全額(3割負担)を払ったうえで、後日に高額療養費上限額との差額を自分が加入している健康保険から払い戻してもらう、という方式だ。
たとえば、自分の収入区分が該当する高額療養費上限額は8万円で、1ヶ月の入院治療に90万円かかったとしよう。その場合、一般的な保険の3割負担分にあたる30万円をひとまず病院に支払ったうえで、後日に健保から高額療養費上限額との差額22万円が自分宛に払い戻されることになる。これで結果的に、高額療養費制度による自己負担分は差し引き8万円になる、というわけだ。
一方、現物給付の場合は、保険証等とともにあらかじめ「限度額適用認定証」を病院に提示することで窓口では上限額(この例の場合だと8万円)のみを支払えばすむ、という方式だ。本来の3割負担分と上限額の差額にあたる22万円は、健保から病院へ支払われることになるそうだ。「限度額適用認定証」とは各健保が発行する証書で、ワタクシのような国民健康保険の場合は国保を発行する自治体に申請して毎年新たなものを作ってもらう、という手続きになる。会社の健康保険を利用している人の場合だと、各所属組織の総務や厚生部などの該当部署に申請して認定証を発行してもらうそうだ。
また、マイナ保険証を利用する場合は、限度額適用認定証がなくても病院窓口で自動的に現物給付の手続きになるようだ。ワタクシは現金給付の手続きをするほどの金銭的余裕がないので、十数年間にわたり、ずっと限度額適用認定証を病院窓口で提示して現物給付方式を利用してきたのだが、上記の利便性があるゆえに現在では医療機関で常にマイナ保険証を提示している。後日に差額が払い戻される現金給付は、現実的な支払い面でかなり負担が大きい制度なので、できれば現物給付に一本化できるようなシステムにしていただきたい、というのが利用者としての本音である。
それにしても、「現金」と「現物」給付という似た語感の言葉でありながら、じっさいにはかなり大きく運用が違うこれら両方式は、不慣れな者が言葉を聞いただけではどちらがどちらなのか、なかなか理解できないのではないだろうか。「現物」とは医療サービスそのものを指すためにどうやらこのような用語になっているようなのだが、あまりにも不親切なお役所用語、という感は拭えない。どうせだからこの機になんとかしてもらえないだろうか。
と、このように高額療養費制度には、改善してもらいたい制度的問題が以前からいくつもあったのだが、それらを差し置いて今回の高額療養費制度上限額見直し騒動がいきなり降って湧いた、というわけだ。ともあれ、この騒動の本質に関わる部分でいえば、最後まで政府・厚労省がこだわり続けた今年8月からの値上げ案について、見送り決定後の3月13日衆院予算委で、石破首相はこの値上げの根拠を「物価上昇分、賃金上昇分、その分だけはぜひともご理解をいただきたい」「この制度が重要なものであればこそ、持続可能性を維持するためにそれだけはご理解をいただきたい」という考えで実施する予定だった、と述べている。
だが、物価上昇分とはいっても、薬価や診療報酬はこの10年間据え置かれたままで、医療関係者たちがSNSなどでそれを散々指摘していることは、第1回の記事でも紹介したとおりだ。また、賃金上昇分も、そこから差し引かれる社会保険料が賃金上昇分以上に高くなっているために、手取りの所得はむしろ下落傾向にあることは、社会人の皆さんも日々実感していることだろう。
そもそも、仮にその人の賃金が上昇したのであれば、高額療養費を決定する所得区分が上がることで負担限度額も上昇するわけだから、所得区分の区切りを細かくしましょうという議論ならともかく、各所得区分を全部いっせいに値上げするというやりかたは、値上げありきの議論を煙に巻くための詭弁のようにどうしても思えてしかたない。
プロフィール

西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。