当事者の意見聴取なしで負担増を決める官僚の横暴ぶり
さらにいえば、上に引用した答弁で石破首相が「(高額療養費制度の)持続可能性を維持するために」と述べているような、上限額を引き上げなければ制度が持たないというロジックは、はたして正当なのかどうか。たしかに国家支出全体のうち、国民医療費の伸びがどんどん増大していることは、今までにもことあるごとに指摘されている。おそらく、じっさいにそのとおりではあるのだろう。
治療効果が非常に高いけれども非常に高価な薬剤が続々と開発されているため、高額療養費制度に要する支出が近年では飛躍的に伸びている、ということを政府・厚労省側は何度も繰り返してきたが、ではそれは果たして国家の財政支出全体のうちどれくらいの割合を占めているのか、医療に関わる金額全体のうちどれほどの金額なのか、健康保険の収支状況のうちどのような割合を占めているのか。
彼らの言説は、定量的で実証的な検証に基づいたものというよりもむしろ、抽出データやグラフの見せ方などで恣意的に定性的な傾向を強調して示そうとする、ある種の「印象」を操作しようとしている感は拭いきれない。
また、このような医療にかかわる話題では、「世界に冠たる国民皆保険制度」という表現がいつも枕詞のように使用されるけれども、西欧諸国の知人などに話を聞いてみると、フランスでもイギリスでもイタリアでも各国なりに皆保険といえるシステムが機能しているように思える。我々日本人はともすれば、かなり特殊な例外だろうアメリカの自由診療制度と比較することが多いために、本邦の医療制度は「世界に冠たる」システムだという印象を持ってしまいがちなのだが、21世紀も4分の1ほどを過ぎた現在、西欧や北欧諸国と比較すれば、日本の「国民皆保険制度」は、もはや世界に冠たる、というに足るほどのものでは、じつはないのかもしれない。
そしてさらに〈そもそも論〉的なことをいうならば、今回の高額療養費制度見直し案は、なぜこの時期にいきなり出てきたのか。新聞報道などでも散々指摘されてきたように、これはやはり、岸田政権時にぶち上げた「異次元の少子化対策」の実施に必要な社会保障費抑制で、法改正をしなくても容易に手をつけることのできる高額療養費制度が狙い撃ちにされたからではないのか。
しかも、厚労省の審議会議事録を読めばわかるとおり、11月21日、28日、12月5日、12日の4回の医療保険部会の審議では「(現状の自己負担上限額に対して)+5%、+7.5%、+10%、+12.5%、+15%の5パターン」等、あくまでもざっくりとした概論的な話しかしていなかったにもかかわらず、この(たった)4度の審議会の後に福岡厚労相と加藤勝信財務相の大臣折衝と合意があった翌々日、12月27日に行われた財務省政府案閣議決定令和7年度予算案で具体的な数字を盛り込んだ案、しかも現状に対して+70%もの金額がいきなり示されていたのは、いったいなぜなのか。そしてこれらの厚労省審議会には患者団体等の制度利用当事者が加わることもなく、ヒアリングも行われず、パブリックコメントを受け付けることもなかったのはなぜなのか。12月末の〈見直し〉案発表後には医療関係者や患者団体が大きな危機感を抱いて東奔西走した結果、幸運にもギリギリの段階でひとまず見送られることになったわけだが、なぜ官僚機構というものは当事者たちをさしおいたまま(シビリアンコントロールが効かない状態で)こんなふうに勝手に暴走してしまうのか。このような出来事はおそらく過去にもいくつも類例があったのだろう、ということくらいは容易に推測できる。
……とまあ、このように「高額療養費制度」というモノを通じて見えてくる様々なことがらや疑問について、次回以降では専門家等に話を聞きながらあれこれ究明したり模索したりしてみたい。というわけで今回は以上。ではまた。
プロフィール

西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。