スーフィズム入門 第十回

対談 スーフィズムとカリフ制①

カリフ制を再興するのは誰か?

中田 考×山本直輝

山本直輝先生のトルコからの一時帰国を契機として、今回から3回にわたり「スーフィズムとカリフ制」と題し、現代における世界のスーフィー教団の動向を踏まえて、山本先生の同志社大学時代の指導教授でもあるイスラーム学者中田考先生とお話しいただきます。EUとエルドアン政権のトルコとの軋轢など現代イスラーム世界の表面的なニュースの背後にある、スーフィズムを中心とした思想史的流れとカリフ制再興運動との関係を踏まえることで、より深い考察の一助となると考えます。

構成=木村風雅 資料作成協力=久間達也

 

山本 中田先生は長年の研究生活を通して、スーフィー教団の長老たちのほか、ムラービトゥーン運動(スコットランド人劇作家の改宗ムスリムを創始者に持つスーフィズム由来のイスラーム運動)の参加者やサラフィー主義者(イスラームの伝統学知を批判し原初的なムスリム共同体を志向する人々)などと実際に関わってきました。今回の対談を私が思いついたのは中田先生がそのカリフ制研究の第一人者であり、日本のカリフ制再興運動を率いるパイオニアだからです。

中田 第一人者、というかOnly One、私しかいないんですがね。

山本 今回、現代イスラーム世界にまだスーフィズムが生きているのだとしたら、何に注目できるか?と考えたときに、その一つはカリフ制運動ではないかと考えました。

スーフィズムとカリフ制再興運動の関係を考えることが重要かつオリジナリティがあると考えた理由は後ほど詳しく話すのですが、まずスーフィー教団(タリーカ)というスーフィーの修行集団が、カリフ制とどのように関係しているのかという問いがあります。

現代のカリフ制再興運動の重要なアクターとして西洋世界では二つのスーフィー教団が知られています。

 まず一つがムラービトゥーン運動(後述)、もう一つはシャイフ・ナーズィム(2014年に没したトルコ系キプロス人でナクシュバンディー教団ハッカーニー派の導師)が率いるナクシュバンディー運動(中央アジア起源のスーフィー教団ナクシュバンディー教団の運動)の流派です。なかでもナクシュバンディー教団は現代のスーフィズムとカリフ制復興運動を考えたときに、ヨーロッパだけではなく世界中に広がっているカリフ制運動と言えます。今回はこのスーフィーたちによる二つのカリフ制再興運動を支えるスーフィズム的世界観や彼らの活動の特徴、彼らの運動から現代社会を理解するキーワードなどを考えていきたいと思います。

最初に、スーフィズムとカリフ制再興運動の関わりを考えたい理由をお話しします。スーフィズムのイメージについては残念ながら様々な偏見があります。たとえば「スーフィズム=イスラーム神秘主義」のような、スーフィズムを「不思議なこと、スピリチュアル的なもの」としてだけ理解しようとする傾向がそれにあたります。

たしかにスーフィズムは神と人間との合一や、良い人間になるための哲学とか倫理として語られてきたことが研究上でも言われています。その具体例としては、ヨーロッパ等で評価されているスーフィズム、特にイブン・アラビー(1240年没。12-13世紀のイスラーム神秘主義思想の大学者)系の神秘哲学研究です。

しかしスーフィズムの古典を読んでみると、神秘哲学や道徳だけでなく、政治論や経済論、社会風刺、冗談話など様々なジャンルがあることがわかります。

スーフィズムは神秘思想だけではなく、修行文化でもあり、芸術文化でもあり、社会改革運動でもあり政治運動でもあります。このようなスーフィズムが作り上げる世界観を紹介するための一つの方法として、現代に生きるスーフィーたちのカリフ制再興運動の一面を紹介したらどうかと考え、今回の対談を企画しました。

中田 そうですね。欧米や日本のスーフィズム研究は偏っており、特に政治運動との関わりについては、あまり触れられないか、触れても表面的なものが多いから、こういう企画には意義があると思います。

中田先生とナクシュバンディー教団のシャイフ・ナーズィム

 

スーフィー教団とは何か?:スーフィズムの世界観と政治

中田 まず現代のスーフィズムを考える上で一番大きな問題を指摘しておきたいと思います。それはイスラーム世界だけじゃなくてキリスト教世界でも同じなのですが、中世においては、宇宙が階層、ヒエラルキーを成しているという世界観があった、ということです。つまり一番上にアッラーという超越存在があり、その超越存在である創造主と被造物の関係を考えることがイスラームの営為、学問だったわけです。

これが現代の世俗化されたイスラーム世界では、もう真剣に考えられなくなってしまいます。サラフィー主義、特にイブン・タイミーヤ(1328年没。現代のサラフィー主義者の理論形成に大きな影響を与えているマムルーク朝期の大学者)に代表されるようなスンナ派の正統主義には被造物と創造主を截然と分け、中間者を認めないという世界観があったのですが、前近代では少数派でした。創造主と被造物の間に中間者、媒介者があるというスーフィー的な階層的世界観がくずれ、前近代においては伏流であったサラフィー主義が表面化してきたというのが現代だということです。

山本 それはつまり、ヒエラルキーのバランスが重要ということですね。

中田 そうですね。基本的に平等とか民主主義とはまったく違います。そもそも先生と弟子っていうのは等しくない、等しくないから先生と弟子なわけですから。ただしこれは現代ではウケないんで、世間でウケようとする人たちは言わないわけですね。そこがすごくつまらなくなっている。実はそこの世界観が重要なのです。世界観のレベルにおける中間者、天使や聖人などを無視してスーフィズムを語っても意味がないのです。形而上学的にそういう世界観があるかどうか、それが一番重要なんですが、それを持って居いないのが今のスーフィーです。

実はサラフィー主義者は世俗主義と非常に相性が良いんです。神は超越者なので、神と被造物の間には何もなくて、被造物はすべて平等というわけです。こういう考え方が現在は広がっており、今はスーフィズムと言われているものも実はこちら側なのです。だから今はそういうちゃんとした階層的世界観を持っているスーフィーはいないので、それがむしろ問題なんですね。それを復興しようとする運動がいくつかあります。

山本 トルコのエルドアン大統領のスポークスマンであるイブラヒム・カルンが重要視しています。イブラヒム・カルンが私の大学(イブン・ハルドゥーン大学)に来た際、イスラーム学における人間理解をもう一度考え直すのに必要であるのがそのスーフィー的ヒエラルキーだと言っていました。つまり、元々のイスラーム学の世界観はヒエラルキーに基づいており、そのヒエラルキーというのは当然不平等を認める思想ですよね。

中田 そうです。

山本 今の文脈で「ヒエラルキー」と言われると、なんとなく不平等な権威主義な体制や独裁体制などを喚起し、人間の自由がないと捉えられがちですが、ヒエラルキーとは、各人間がアッラーから与えられた能力を個々人がヒエラルキーという人間関係、あるいは社会の中で理解し、社会の中でその能力を一番発揮できる部分が何かを支える機構なのです。例えば筋力のある人間が筋力を活かさないところに配置されても何の意味もないわけです。また、筋力がない哲学者が工場労働者として働いても、何の役にも立たないわけじゃないですか。

中田 そうなんですよね。

山本 アッラーから自分に課されたものがなんなのかを理解したときに、その人たちを(使命と能力に基づき)適切な場所に配置するというのが古典的なイスラーム政治の目的であり、「アダーラ」と言われます。

「アダーラ」は日本語で言うと、公正とか正義と訳されますが、古典的な意味ではアッラーから与えられた能力を社会において適切に分配することです。そして、イブン・アラビーの『神の配剤』などで語られているスーフィズム的政治論では、それを実現する役割を担っているのがスルタンと、そのスルタンを支えるスーフィー教団の導師だった。そのような世界観が失われ、人間は皆平等だとか、なりたいものになれるといい始めた頃から、イスラーム世界がグダグダになってしまったというのが知識人たちの認識です。

中田 その通りですね。その点において、現在のトルコのイスラーム運動が、そういうイスラーム学の基礎というか世界観というレベルのものに興味がないムスリム同胞団の一派かのように思われているけど、まったく違うんですね。同胞団というのは近代運動で、そういう階層的世界観がほとんど残っておらず、むしろ平等だとか言ってる人たちなので。実はトルコのイスラーム運動の間にもそれをめぐる争いというか対立がずいぶんあるんですよね。

山本 トルコの公正発展党(AKP:Adalet ve Kalkınma Partisi)も「アダーレット(既出のアラビア語の「アダーラ」のトルコ語読み)」という語が党名に入っていますが、そのアダーレットとは、このスーフィー的世界観のアダーレットなのではないかと思います。それは、適切な人間を適切に配置する元々の中世的ヒエラルキーです。中世的ヒエラルキーというと現代では克服するべきネガティブなもののような雰囲気がするので伝えにくいのですが、トルコのイスラーム運動もこのような世界観の復興を目指しているのではないかと思います。

中田 だからそこが他の地域と全く違うところなんでね。ですのでスーフィズムの考え方だと、元々神を中心に見えない世界のヒエラルキーっていうのがあって、そこにスーフィーの聖者なんかがおり、そちらの方が本当は真実の秩序であって地上にその影のようなものとして、この世のスルタンがいる。そういうヒエラルキーがあって、実はその裏にある聖者のヒエラルキーが世界を支えている、という考え方なのです。ただしスーフィー聖者は表に出ないっていうのが基本だったのですよ。しかし実際にはそのカリフたちがスーフィーに従っている、それが本来のあり方なのです。それを復活させようっていうのが現在のトルコの動きです。ただそこでエルドアンがそういう意味で現在もスーフィー教団の導師に従って行動しているのかどうかは残念ながら私にはよくわかりません。

エルドアンの政治における師匠であったエルバカン(第54代トルコ共和国首相)はザーヒド・コトク(ナクシュバンディー教団のスーフィー指導者)の弟子であることは公然の秘密でした。エルドアンももちろん政治家としては独自に動いているわけですが、もともと彼もスーフィーの弟子ですからその後ろには導師がいるかもしれない。しかしもうエルドアンも老齢ですから彼の導師は既に亡くなっている可能性が高いですね。もともとスーフィーの導師と弟子の関係はパーソナルなもので他人には知らせないのが原則ですから分からないのが基本です。表に出るのはスルタンであっても、実はその裏には世界観的なヒエラルキーがあってそれを体現するような聖者たちのヒエラルキーがあるという、世界の秩序は重層構造になっているというのが元々のスーフィズム、カリフ制の基本ですね。そこから話さないと全部薄っぺらい話になってしまいます。

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スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

中田 考×山本直輝

 

 

中田 考(なかた こう)
1960年岡山県生まれ。イスラーム学者。イブン・ハルドゥーン大学客員教授。東京大学文学部卒業、同大学院修士課程修了後、カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(哲学博士)。在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター所長、同志社大学神学部教授等を歴任。『カリフ制再興』(書肆心水)、『増補新版 イスラーム法とは何か?』(作品社)、『イスラームの論理』(筑摩選書)、『イスラーム 生と死と聖戦』『イスラーム入門』(集英社新書)、『俺の妹がカリフなわけがない!』(晶文社)、『みんなちがって、みんなダメ』(ベストセラーズ)他著書多数。

 

山本直輝(やまもと なおき)
1989年岡山県生まれ。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。 現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
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