スーフィズム入門 第一回

スーフィズム入門

ما هو التصوف

山本直輝(やまもと なおき)
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白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。

一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じる香りがする。

はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

Photo:UNIPHOTO PRESS

 

第一回 序にかえて イスラーム神秘主義とは何か?

人心これ危うく、道心これ微かなり
名師を訪ね、護衛を求めなさい。そして玄門をくぐり真機を得るのです
劉智『五更月』(中国ムスリム思想家のスーフィズム詩)

 日本人にとってイスラームはなかなかとっつきやすいものではない。日本とムスリム諸国の交流の歴史は浅く、メディアで取り上げられる「イスラーム像」は中東諸国でのテロリズムや過激派と関係したものがほとんどで、映し出される映像は恐ろしいものが多い。一方で、ムスリム諸国からの訪日観光客は年々増え続けており、日本で暮らしているムスリムは20万人もいると言われている。「ハラール食品」など、ムスリムの生活に関するトピックもよく聞こえるようになった。過去には異質な他者でしかなかったムスリムは今や私たちのとなりで生活している。世界的にも中東や南アジア、東南アジアだけでなく、ヨーロッパやアメリカでもムスリム人口は増え続け、イスラームを理解することはもはや世界の動向を理解することと言っても過言ではない。

 一方でムスリム諸国にとって日本はどう映っているのだろうか。中東やトルコは地理的に遠いこともあり、大体は「日本人はみんな機械に詳しい、ハイテク社会で暮らしている」くらいの漠然とした偏見に覆われたイメージしかないのだが、若者の間でとてもよく知られている日本文化がある。マンガとそれを原作としたアニメである。筆者は現在トルコの大学でイスラーム学を専攻する学生達の前で講義を行っているのだが、休み時間に学生と日本の話題になると必ずマンガとアニメの話がでる。「キャプテン翼」は言わずもがな、「美少女戦士セーラームーン」や「名探偵コナン」、「ちびまる子ちゃん」などいろんなマンガの名前が飛び交うが、特に「NARUTO」などの「少年マンガ」が非常に人気である。現在は「鬼滅の刃」と呼ばれるマンガが有名になりつつあるようだ。

 筆者は「NARUTO」が有名なのはなんとなく海外で受けのいいニンジャを取り扱っているからだろうくらいにしか思っていなかったのだが、周りの日本マンガ好きのトルコ人学生と話しているとどうもそれだけではないことに気が付いた。少年マンガの中で描かれるストーリーやキャラクターの成長物語は、イスラームの伝統的価値観に近いものがあるのだそうだ。特にトルコ人学生が言うには「スーフィズム」と呼ばれるイスラーム文化に多くの共通点があるという。

写真1 イスタンブール、メヴレヴィー教団の修行風景

 日本にとってイスラーム文化はまだまだ遠いが、ムスリムは実は日本をマンガという媒体を通して非常に親しみを持って見ているのである。では、トルコ人が日本のマンガとの共通点を見出した「スーフィズム」とはどのようなイスラーム文化なのだろう。

 スーフィズムは日本語では「イスラーム神秘主義」と専ら訳され、スーフィズムを実践する人を「スーフィー」と呼ぶ。イスラームの共同体は現在大まかに言って「スンナ派」と「シーア派」に分かれているが、スーフィズムは両者どちらにも存在する、哲学や倫理・道徳、修行論など様々な角度から人間の内面に迫るイスラームの精神的営みである。日本で比較的よく知られているスーフィーはトルコのコンヤで栄えていた旋回教団(正しくはメヴレヴィー教団)という修行集団であろう。真っ白な修行服に身を包み、片手は天を指し、もう片手は胸に置きながら弧を描き踊る神秘修行である。あるいは、哲学に詳しい方であれば日本が誇る碩学井筒俊彦が東洋哲学の深淵として紹介したイブン・アラビーの神秘哲学も、スーフィズムの一端である。

 スーフィズムは決して過去の遺産ではない。トルコを例に挙げれば、世俗主義政策によってイスタンブールに存在したスーフィー教団の修行場(トルコ語でテッケという)は1925年に閉鎖されたものの、個々人の活動として民衆の間で密かに受け継がれてきた。トルコの政治家で首相にもなったネジュメッティン・エルバカン(1926-2011)は、スーフィー教団の一員であったことはトルコ国内では公然の秘密であった。エルバカンの師匠であったスーフィー教団の指導者ザーヒド・コトクは、現在のエルドアン政権の中心的支持層であるイスラーム保守派の精神的基盤を作り上げた。厳格な世俗主義政策によって公共圏でのイスラーム教育や活動を厳しく管理しているトルコ共和国において、そのカリスマ性によって市民感情を動かし政治にも影響を及ぼす力を持ちうるスーフィー教団の導師達の動向は近年議論の的となっている。スーフィズムは、個々人の精神的営みであると同時に、社会全体を大きく動かす政治思想運動でもある。

写真2 左はスーフィー教団の導師ザーヒド・コトク、右はエルバカン

 

スーフィズムは何を語るのか?

 哲学や倫理・道徳、修行論、政治など様々な要素を含むスーフィズムだが、その中心的テーマは、「人は弱く、間違いを犯す存在である。しかし師の助けを通じて人間の精神的完成を目指す中で、人間を見捨てず絶えず導こうとしているアッラーの愛に気づく」ことである。キーワードは人間と、師と、神(アッラー)である。

 

「師と弟子」

 スーフィーの修行法は、彼らの残した様々な文献を読むことでその足跡を追うことができ、モロッコからインドネシアまでスーフィー教団の伝統は人々の間で受け継がれ、現在でも多くの地域で見ることができる。スーフィー達は己の内面と向き合い、精神を磨き、真理に到達することを目的とした精神統一法や祈祷、瞑想法や、日常作法を編み出した。
   このようなスーフィズムの修行は「スルーク:実践」と呼ばれ、特定の実践法を採用する組織化した修行集団はスーフィー教団「タリーカ(tariqa)」と呼ばれる。タリーカとはアラビア語で「道」を意味し、剣道や柔道、武士道や茶道などの「道」とほぼ同じ用法である。日本語ではタリーカはスーフィー教団と訳されるが、スーフィー道、イスラーム道などと訳した方が本来の意味に近い。

 例えば茶道が表千家や裏千家、武者小路千家など様々な流派に分かれているように、タリーカもカーディリー教団やティジャーニー教団、シャーズィリー教団、ナクシュバンディー教団など地域によって様々な流派が存在し、独自の修行法を持っている。タリーカの名前はその流派を開いた導師の名前に由来する。現代トルコではナクシュバンディー教団が主流であり、さらにナクシュバンディー教団内部でいくつかの派が存在している。

写真3 イスタンブール・ウズベクテッケ

例えば上の写真はイスタンブールにあるナクシュバンディー教団の修行場である。オスマン朝時代には、この部屋でタリーカの師匠が学生達にスーフィズムの教科書の講読会を行っていたという。

 タリーカの修行は個人や集団での祈祷や呼吸法、学問書の講読など様々な方法があるが、共通するのは師から弟子に伝えられる一子相伝の伝統文化であることだ。本稿の初めに紹介した中国のムスリム思想家劉智(1730年頃没)の詩は、人間の弱さとそれを克服し、真理へと至るための師を見つけることの重要性を端的に説いている。師と弟子は生涯を通じて教え学び、スーフィズムの知識の継承を行う。スーフィズムでは、理想とされるスーフィーは「自らを完成へと至らせるだけでなく、周りの者も完成へと導く者」と呼ばれる。ただ徳が高いだけでは十分ではない。スーフィーは、自らだけでなく、他者を導くことによって初めて本物のスーフィーになれるのだ。
 知り合いのトルコ人学生によれば、「NARUTO」における自来也とナルトなど師と弟子の関係性の描き方や、ナルトとサスケの友情の中で描かれる、間違いや悩みを重ね、師匠でさえ己の不足を感じながらも「人間の可能性」を信じ「思いを繋げていく」様は、タリーカの修行やそれにまつわる物語に似ているのだという。

写真4 トルコ版『NARUTO』 42巻より (C)岸本斉史/集英社
Naruto 42 adlı eserin materyalleri Gerekli Şeyler’in izni dahilinde kullanılmıştır.

 

「神の愛」

 スーフィズムの修行は、師匠と弟子という二人の人間が紡ぎだす営みであるが、人間完成の終着点は「神を理解すること」である。イスラームの神はどんな存在なのかを考える点ではイスラーム神学と呼ばれる学問とも重なる部分があるが、スーフィズムではアッラーと人間の感情を通じた関係性に注目する。井筒俊彦が紹介したスーフィズムの神秘哲学は、アッラーという名前さえも超越した絶対的「存在者」の側面が強調されているが、むしろスーフィズムの詩や神秘思想、修行論ではアッラーの人格神としての側面も同じくらい、あるいはそれ以上に追求されている。例えば、オスマン帝国の有名なイスラーム詩人スレイマン・チェレビー(1422年没)は以下のような詩を残している。

 

心の底から念いを込めて、「アッラー」とひとたび唱えれば、
いかなる罪も秋の枯葉のようにはらり、はらりと落ちていく
スレイマン・チェレビー『預言者生誕賛歌』
(オスマン朝時代のスーフィズム詩)

 

 この詩はトルコで最も有名な詩のひとつで、今でも敬虔なトルコ人の間で預言者ムハンマドの誕生日とされている日に詠まれている。スーフィズムでは師と弟子の一対一の長年にわたる修行が重んじられるが、人間がアッラーを心から望んでいるならば、イスラームの唯一神アッラーは儚き人間の努力などいとも軽く飛び越え、人間を破滅から救いへと導くような愛情にあふれた存在であるという。スーフィズムではこのような「神の愛」を味わうことを究極目的とし、スーフィーの思想家達は人間の儚さと神の愛の尊さを詩や神秘哲学など様々な形で表現してきた。上記のスレイマン・チェレビーの詩にあるように「心からアッラーを求めていれば、その名を唱えさえすれば罪は赦され救われる」という思想は、南無阿弥陀仏、「阿弥陀仏の本願」思想に親しんでいる日本人にとっても決して理解が難しいものではないだろう。

 

スーフィズムが映し出す、「イスラームの色彩」

 以上、スーフィズムのいくつかのキーワードについて、日本文化との類似点、接点も探りつつ紹介してみた。なぜなら、他文化との接点を探りつつ人の業(わざ)、神の業の意味を探っていく過程そのものもまた、スーフィズムの営みであると考えられるからである。例えば、本稿の最初に引用した中国ムスリム学者劉智は、中国スーフィズム詩を書くにあたって四書五経のひとつ『中庸』の章句序から「人心これ危うく、道心これ微かなり」を引用するなど、自らの東アジアの知的伝統との結節点を探りながら自らのスーフィズム思想の構築を図っている。

 フランスの東洋学者のヴァンサン・モンテイユの主著『イスラームの5つの色』によれば、イスラームは「唯一神理解(タウヒード)」という核は保ちながらも、アフリカやアラブ、トルコ、ペルシャ~インド、マレー地域に伝播するにあたって現地の文化と対話を重ねながらそれぞれの独自の色彩を獲得していったという。そして歴史的にそのようなイスラームの様々な色彩を作り上げていったのは、スーフィーである。ならば日本人の我々もまた、日本文化を「ものさし」として使いながら、イスラームを理解するような試みを始めてもいいのではないだろうか。

 本企画では、いまだ日本であまり紹介されて来なかったスーフィズムの思想と実践について書かれた古典紹介を中心に、現代イスラーム世界の実例を交えつつ、さらに日本文化との接点を探るという試みを行いたい。

 

 

スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。

現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
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