スーフィズム入門 第三回

スーフィズムの修行(1)―心の型

ما هو التصوف

山本直輝(やまもと なおき)
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白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。

一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じる香りがする。

はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による入門連載第三回!

 

第三回 スーフィズムの修行(1)――心の型

山本直輝

知識とは、真理を知ることだ

真理とは、汝自身を知ることだ

お前は汝自身について何も知らない

ならば学びに何の意味があろう

ユヌス・エムレ 

(12~13世紀トルコのスーフィー詩人)

あらゆるものの内、汝自身よりもっとも汝に近いものは無い

汝が汝自身を知らないとすれば

他のものをどうして知ることができようか?

ガザーリー『幸福の錬金術』

(11世紀末ペルシアのスーフィー)

 

心を形作る

 前回はスーフィズムの伝統では師と弟子の関係が重視されること、そして師匠から教えを授かるなかで、弟子達は様々な「スーフィー道(タリーカ)」を打ち立てていくことを説明した。今回からスーフィズムにおける修行論の具体的内容を見ていきたい。スーフィズムの修行論は大まかにいって二つに分けられる。
 一つ目は、人間の心の働きを分析する「心(ラターイフ)論」、二つ目は修行者の日常の作法や師匠との向き合い方、祈祷や瞑想法を規定する「修行者の作法(アーダーブ・ムリード)論」である。そして心の分析と修行実践をつなぐジャンルとして、「神秘階梯(マカーマート)論」と『心の旅と実践(サイル・ワ・スルーク)』論がある。
 トルコではスーフィーは「心の権威(ギョヌル・スルタン)」と呼ばれる。またスーフィズムは別名「心の学問」、「感情の学問」ともいわれるなど、スーフィーは心の在り方と心から生じる感情の分析を重視する。スーフィーの詩人や思想家は「自己を知る者はその主(アッラー)を知る」という預言者の言葉(アリーの言葉であるなど諸説あり)を引き合いに出しながら、自己の心の在り方を知ることは神の真理に繋がると考える。しかしながら、スーフィズムにおける「心を重視する姿勢」を理解する際に注意しておくべき点がある。
 しばしばイスラームの概説書ではスーフィズムは「外面よりも内面を重視する」、「イスラームの形式化を批判する改革運動」と説明されるが、この表現は誤解を招くと思われる。なぜなら形よりも心を、外面よりも内面を重んじるものとしてスーフィズムをとらえてしまうと、スーフィー達がなぜ事細かに日常の作法や祈祷法を規定したのかが理解できないからだ。スーフィーの修行書を紐解けば、日常の呼吸法から特定の時間帯に唱える祈りの言葉や祈祷の数さえも厳しく決められている。例えばナクシュバンディー教団の修行では祈祷の「数」は真理の門に至る「鍵の形」であるとする。彼らによれば鍵の形が違っていれば決して扉は開かないように、祈祷の数を間違えれば決して真理には至らないとする。一見すると、スーフィズムはイスラームの一般的な教義よりも厳格な「戒律主義」にも思えてしまうくらいである。筆者はスーフィズムにおける外面と内面、実践と心の関係性において、日本文化を代表する修行の伝統としての茶道に似たものを感じている。茶道では部屋の入り方から袱紗のたたみ方、抹茶の淹れ方、お茶道具の拝見の仕方まで事細かに作法が決まっているのだが、所作の型と心の関係について茶道の解説書で次のような説明がある。

「ある茶人が、点前を習うことは利休の所作をまね、それによって利休の心をまねることだと書いておられたことがある。点前の型をたどることで、点前のもととなるはたらきと思いやりの心を自分自身の中に再現し、人間的な成長をはかるというのが本来の稽古の姿であろう。」(岡本浩一『心理学者の茶道発見』淡交社、2017年)

 

 またイスラーム研究者である中田考は、スーフィズムを次のように定義している。

「(スーフィズムは)『形』に対して『心』を重視する、といったものではなく、むしろ、それは『心』をも『形』に対応させる、つまり特定の心の状態をもたらすための行法の形式を定める、という方向性をもつものであった。それが『修行者の作法』と呼ばれるものである。」(中田考『イスラームの論理』筑摩選書、2016年)

 筆者は茶道における「利休の所作をまね、それによって利休の心をまねる」働きは、スーフィズムにおける修行と心の関係そのものだと考える。スーフィズムもまた様々な人間の微細な心の働きを分析することを通して、理想の心の型を作り上げるために日常のあらゆる場面での適切な日常作法、修行の「型」を探っていく営みだからだ。

 例えば19世紀中国に生きたイスラーム思想家である馬聯元(ばれんげん)(1903年没)は主著『天方性理阿文注解』の中で、人間の身体と心の在り方を次の図のように4種類に分けて説明している。

左上 スーフィー 右上 預言者
左下 無知な一般人 右下 学者

 

 上記の円図形は外側から身体、心、魂(本性)、真心(真理を認識する心)の順番となっている。円の中の黒色や黒点は真理に至るのを阻む身体や心の「濁り」を表している。左下の図である無知な一般人は、心は動物的欲望にまみれ、本性は常に悪に誘っているため、真心は全く働いていない。右下の図である学者は、イスラームの基本的な実践である礼拝や喜捨は行うため円の一番外側の身体は清らかである。しかし一方で心は豊富な知識が足かせとなって常に雑念に悩まされている。知識と雑念の葛藤を抱える学者の本性は常に自己に反省的であるが、彼もまた真理に至る清らかな真心を持つには至っていない。
 左上のスーフィーは長年の修行によって身体と心は磨かれ、一点の濁りもない。しかし本性にはいくばくかの汚れがまだ残っている。馬聯元によれば、これはスーフィーとしての「驕り」を表しているのだという。なぜならスーフィーは長年の修行を積んできたという自負があり、この自負は我の意識を増大させる。この我を克服することができなければ、熟練のスーフィー修行者であろうと真理を理解するには至らない。そして欲望、雑念、我を克服した人間の理想形がアダムからムハンマドまでの歴代の預言者達であるという。修行者は、先達の預言者やスーフィー導師達の行跡をたどることで各々が内に抱える濁りや陰りを取り払うことを目指していく。

 

賢者(スーフィー)を真理から遠ざける障(さわり)は我の意識

智者(イスラーム学者)の障は知識

愚者(一般人)の障は欲望である

劉智『天方性理』

(17~18世紀中国のイスラーム学者)

 

 スーフィズムはこのように人間は身体、心、本性において様々な「形」が存在し、さらにその形に応じて様々な修行の「型」があると考える。各人の状態に応じて適切な修行の「型」を用いることによって心をあるべき形に作り上げていくことが、スーフィズムという学問と実践の営みに他らない。修行者が預言者の慣行や過去のスーフィー修行者の日常倫理、祈祷法などを習い、熱心に自身の生活に取り入れようとするのは茶道の心と同じように「先人の所作をまね、それによって彼らの心をまねること」であり、「預言者、スーフィー修行者の型をたどることで、修行のもととなるはたらきと心を自分自身の中に再現しようとする」試みなのである。

 

心の基本形と魂の発展

 セルジューク朝の時代に活躍し、スーフィズムを神学、法学に並ぶスンナ派の正統学問として確立させたイスラーム中興の祖アブー・ハーミド・ガザーリー(1111年没)は『宗教基礎学四十の教理』の中で、人間の本性を次のように語っている。

「人間は、様々な性質が混ざりあってできている。即ち動物的性質、猛獣的性質、悪魔的性質、君主的性質である。動物的性質からは欲望、強欲、驕りの感情が、猛獣的性質からは怒りや嫉妬、敵意、憎しみの感情が、悪魔的性質からは策謀や計略の感情が、君主的性質からは傲慢や自己承認欲求、権力欲といった感情が生まれる。以上の四つの基本的性質は人間の髄に練りこまれているため、決して逃げることはできない。理性とシャリーアによる信仰の光によってのみ、この暗い感情から救われることができるのだ。」(ガザーリー『宗教基礎学四十の教理』悔悟の章)

 人間の本質が何であるかは性善説や性悪説など様々な宗教や哲学によって異なるが、イスラーム、特にスーフィズムでは人間は生まれながら暗くドロドロとした感情を内に抱え、常に悪への誘惑を受ける弱い存在であると考える。まずこの人間の心の基本の形を自覚することがスーフィーの修行道の始まりである。そして心に巣くう暗い感情や欲望、雑念は、シャリーア(イスラーム法)に従い人間の志向性を決定する魂(ナフス)を発展させることによって克服できるという。ここではシャリーアは日常倫理から礼拝や喜捨などの崇拝行為などムスリムとして生きるための基本的な倫理規範を指す。さらにナクシュバンディー教団の修行書『内観の法学(フィクフ・バーティン)』では、人間の精神的成長の度合いによって魂は次の7段階に分かれると考える。

 

魂の発展段階

第一段階 悪を命じる魂 
 スーフィズムの修行を行っていない普通の人間の魂がこれにあたる。人間の本性である暗い感情や欲望に常に惑わされ、正しい道を見出せない状態である。

第二段階 非難する魂
 スーフィズムの修行を始めたばかりの人間の魂である。修行を始めたことによって魂に光が宿り始めるが、未だ過ちも犯してしまう。しかし過ちを犯すたびに後悔し、自分自身を責めより良い人間になろうともがいている段階でもある。

第三段階 神に導かれる魂
 後悔と反省を繰り返しながらも修行を続けていくと、ある時を境にアッラーからの神秘的導きが心に現われるようになるという。この神秘的導きをイルハームという。この段階の魂はあらゆる逆境を耐え忍び、神からの恵みに感謝するようになる。

第四段階 穏やかな魂
 風がやんで海面が静かになった凪のように、心から雑念や葛藤が取り除かれた状態を指す。この状態に至ると修行者は社会の中にいても心は常に祈祷を通してアッラーとつながり、穏やかな境地を保てるという。

第五段階 満たされた魂
神の御心を理解し、自らの運命を神にゆだねた境地のことを指す。良いことであろうと悪いことであろうと全てアッラーの計画であると受け入れ、今この時を満たされた心で受け入れ生きようとする心の状態である。

第六段階 神が(よみ)する魂
この状態では修行者の心からは我欲が完全に消え、神の手足となって神に帰依し、他者に尽くす。この状態の修行者は「神の行為の写し」と呼ばれる。

第七段階 完全なる魂
真理に達した完全な魂の状態を指す。この境地に達した修行者は完全人間(インサーン・カーミル)、「神の御名の写し」と呼ばれる。スーフィズムでは人間の完全性とは自己の救済ではなく、人々を導き(イルシャード)、完全さに至らせる(タクミール)ことだという。

 以上、スーフィズムによる人間の心の状態と魂の発展による人間完成の概要を紹介した。スーフィズムではさらに人間には感情の働きをつかさどる心の様々な部位(ラターイフ)があると考え、特定の部位に決まった祈祷を行うことで上記の魂の発展が達成できると考えられている。次回はこの心の部位と祈祷法について紹介したい。

 第二回
第四回 
スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。

現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
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スーフィズムの修行(1)―心の型

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