スーフィズム入門 第六回

心の境地(2)

ما هو التصوف

山本直輝(やまもと なおき)
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Clip to Evernote

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。

一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の武士道におけるストイックさに通じる香りがする。

はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による入門連載第六回!

 

第六回 心の境地(2)

山本直輝

 

神のしもべとは自由であることだ。

自由とはいかなる被造物にも支配されず、

あらゆる権力の軛から解放されることである。  

ビルギヴィー(16世紀トルコのスーフィー)

 

 虚構を取り除く

 今回も引き続き神秘階梯の紹介をしたい。スーフィーによれば、人間の心は自分や他人が作りだした実体を持たない、リアリティのない虚構や幻想に囚われているという。「悔悟(タウバ)」によって自らの弱さや業を受け入れ、世界と真摯に向き合う「諦念(タワックル)」の境地を会得し始めた修行者は、次に心を縛る幻想を取り除く境地の獲得を目指す。人間の心を支配しようとする「実体を持たない虚構」をアフマド・スィルヒンディーは「心の中と地上に巣くう神々」と呼び、それを打ち破ることが修行の本質であると説いた。実際に人間社会は「社会制度」や「お金」、「国境」など多くの決まり事によって成り立っている。お金は記号でしかなくそれ自体に価値はないし、国境沿いに行ってもそこにあるのは地面や海である。虚構によって人間は生かされもするし、生きる場所を奪われもする。

 スーフィズムは価値があるように見えてじつは実体のない虚構(ワフム)から心を解放し、真理を見つめるための眼を養う営みである。この真実を見極める眼のことをスーフィズムでは心眼(バスィーラ)と呼ぶ。実体のないものを見抜くためには見えないものを分析する訓練が必要である。人間にとって最も身近な「目に見えない、分かりにくいもの」が心であり、心を磨く営みは人間を取り巻く様々な見えない決まり事やシステムを知り、その働きを理解するための土台を作るのである。

 

 充足(リダー)と服従(タスリーム)

 充足(リダー)の境地を獲得するために、しばしば導師は「貧しさ(ファクル)」、「豊かさ(ギナー)」について弟子と対話を重ねる。貧しさというとお金が無い、食べ物が無いなど何かが無い状態を思い浮かべるが、アラビア語では「貧しさ」とは常に何かを必要とする不安定な状態を指し、一方「豊かさ」とは自立自存し何かに依存していない状態を指す。スーフィズムでは人が何かが無いことに苦しむとき、そのほとんどは自らの心が作り上げる虚像であると考える。「貧困」とは多くの場合、他人や自分の理想と比べたときに湧き上がる惨めさなど「心理的なつらさ」を指していることが多い。他者との比較の中で自らの「貧しさ」、「豊かさ」を決めている限り心は不安定な状態に陥ってしまう。現世のいつ変わるかもしれない基準に自らを当てはめず、真理の道を歩むことが本当の豊かさであるとスーフィーは考える。そして自らを苦しめていたものが実はリアリティを持たない想像上の貧困であることに気づき、それに惑わされない豊かな自己を確立した状態が「充足」の境地である。

 スーフィーは決してこの世に存在するあらゆる貧困は本人の心持ち次第と言っているわけではない。それはただの現実逃避であり、今直面している課題の解決を先延ばしにすること(タスウィーフ)はスーフィズムでは厳しく非難されている。今日食べるご飯にも困るというリアリティのある貧困に対して、スーフィー教団は喜捨や寄進などのイスラーム法によって運営される社会援助システムを用いて対処する。例えばイスタンブールにあるアズィーズ・マフムード・ヒュダーイー・モスクというイスラーム導師の霊廟が隣接しているモスクには無料の食堂がある。ナクシュバンディー教団系財団によって運営されているその食堂は「ホームレスと学生は無料」というルールで、私も学生時代には友人、ホームレスの人たちと一緒に並んで毎晩フライドポテトとチキンスープを食べていた。

 

アズィーズ・マフムード・ヒュダーイー・モスク

 

 食事を作り他人に奉仕することはスーフィーの重要な修行のひとつであり、特に旋回舞踏で有名なメヴレヴィー教団では料理法が体系化された指導書が遺されている。メヴレヴィー教団における「スーフィー料理」については別の回で改めて紹介したい。

 さらに充足の境地を支える生き方に「知足」(イクティサール)というものがある。知足とは「自分にとって本当に必要なものは何か」を知り、いま神から与えられている恵みに満足することを指す。前回紹介したスーフィー修行場での「少し話し」、「少し食べ」、「少し眠る」を実践する「三少」も、日常の生活から無駄をそぎ落とすために自分にとって最低限必要なものは何なのかに気づくための修行である。

 知足の心を育むことで神への「服従(タスリーム)」という境地を確立していくことができる。服従とは神によって与えられた運命を受け入れる心の器を形作る営みを指す。北アフリカのスーフィー導師イブン・アジーバ(1809年没)によればこの「服従」の境地は、最初は忍耐と努力によって、そして神に対する不満や怒りを抱えながら、最終的には穏やかな心で自らの運命を受け入れるということによって達成されるという。充足は自らの現在の状況を受け入れる境地であるのに対し、服従とはこれからやってくる様々な困難に対する覚悟を指す。しかしイブン・アジーバによれば、心の弱さは人間の本質であり困難に直面した直後はいかなる修行を積んだスーフィーであっても心の中に動揺や雑念が生じるという。服従の境地の到達点とは悩みの全くない状態ではなく、自らの悩みを受け入れコントロールする心のしなやかさのことである。

 

 

善き哉

神が与えし困難も

神が与えし恩寵も

ユヌス・エムレ(13~14世紀トルコのスーフィー詩人)

 

 反省(ムハーサバ)、省察(ムラーカバ)、観照(ムシャーハダ)

 反省、省察、観照は自らの意識や注意を外面から始まり徐々に内面へと深化することで精神の集中を図る境地である。反省とは自らの振る舞いを省みて、日々の行いを改めることである。省察とは神が常に自分を見ていることを意識し心を統御する境地を指す。省察の境地を会得するにはまず、自分が普段どれだけ周囲の目に振り回されているかに気づく必要があるという。修行者は周囲の期待や誤解、プレッシャーに流されずに神が自分に何を求めているのかだけに集中することで心の揺れ動きをコントロールする。観照とは「あたかもアッラーが見えているかのように」日々を過ごすことを指す。この境地は預言者ムハンマドが説いたイスラームの信仰の完成形である至誠(イフサーン)を表すともいわれている。以上のように自らの行いを省み、周囲の目に惑わされる心を戒め、神だけに意識を集中していく精神統一の過程が反省、省察、観照の境地である。

 

 自由(フッリーヤ)

 イスラームでは元々「奴隷」の対概念として「自由人」という用法があったが、思想としての自由はスーフィー達が最初に使用し始めたとされる。スーフィズムにおいて自由とは、自我が生み出す様々な欲望や雑念、権力や地位から離れ真理だけを求める境地のことを指す。9~10世紀に活躍したスーフィーのハキーム・ティルミズィー(一説として932年没)はイスラームの信仰告白は「自由と隷属からの解放」であるとした。自由とは個々人が主体的に選び取ることで、神から恵みとして与えられるものであると考えられた。

 自由とは被造物の隷属から逃れることであり、他者の軛を断ち切ることである。

 

自由とは欲望の隷属からの解放である。

クシャイリー(11世紀ホラーサーンのスーフィー)

 

 スーフィズムの自由論は彼らの社会思想や政治思想の土台にもなっている。シリア・ムスリム同胞団のイデオローグであり、スーフィズムにも造詣が深かったサイード・ハウワー(1989年没)は、現代社会における自由はあくまで欲望を最大化する動物的自由に過ぎないとして厳しく批判し、「イスラーム的自由」の精神的復興を説いた。

 

サイード・ハウワー

 

 また北アフリカや南アジア、中央アジア、東南アジアなど世界各地で西洋植民地主義に対抗したイスラーム運動の多くはスーフィー導師の率いたものであった。興味のある方はイタリアによるリビア占領政策に立ち向かったサヌースィー教団のオマル・ムフタール(1931年没)を描いた映画「砂漠のライオン」をご覧いただきたい。

 

オマル・ムフタール

 

 

 死の想念(ズィクル・アル=マウト)

 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」とはかの有名な武士道の書『葉隠』の一節だが、スーフィー修行には「死の想念」という境地がある。死の想念とは、この世の儚さやうつろいやすさを悟り、執着心を消し去った境地のことである。スーフィーによれば、死の想念の境地は前回紹介した「畏れ(ハウフ)」、「節欲(ズフド)」、「忍耐(サブル)」の境地を磨くことにより達成される。一瞬前と今では全く姿を変えることもある現世はあくまで仮象の世界であり、リアルなものは我々の認識・感覚を超えた先にあると考えるのがスーフィーである。そのような世界観に立脚するスーフィズムでは、現世も現世に執着する自我も真理から修行者を遠ざけるヴェールでしかない。

 またスーフィーは「我欲の滅殺」を生物学的死よりも重要な「死」として考える。生物学的死は人間にとって不可避であることから、穏やかな心で受け入れることが求められるのに対し、我欲を消し去ることは修行によってのみ可能であることから「選び取る死」と呼ばれる。死の想念は、現世の儚さと虚構に気づくことで「選び取る死」を志すための覚悟を養う。スーフィー学者カーシャーニー(1329–35頃没)によれば、修行者は我欲を滅殺するために次の「三色の死」を選び取らなければならないという。一つ目は白の死と呼ばれ、飢餓状態に自らを置くことを指す。内からの光によって心が白く輝き、精神統一のための集中力が高まるのだという。二つ目は緑の死と呼ばれ、贅沢をさけ必要最低限の服を着て過ごすことを指す。三つ目は黒の死と呼ばれ、他人から傷つけられても忍耐することを指す。

 以上のように周囲の目や自我が生み出す雑念、過去や未来など現世の尺度に縛られず、今この瞬間に自分が為すべきことのみに集中する境地に達した自由な精神の持ち主を、スーフィズムでは「時の子(イブン・アル=ワクト)」と呼ぶ。

 第五回
第七回 
スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。

現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル

プラスをSNSでも

Twitter, Youtube

心の境地(2)

連載