スーフィズム入門 第七回

修行者の心構え―ナクシュバンディー教団「十一の言葉」

ما هو التصوف

山本直輝(やまもと なおき)
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白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。

一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の武士道、はては少年マンガに通底するビルドゥングス物語的倫理観に通じる香りがする。

はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

山本直輝

 

 『スーフィズム入門』の修行論で主に参照しているナクシュバンディー教団では、今まで紹介した心の作法や祈祷法、神秘階梯などスーフィズムの修行の基本的な見取り図を十一の言葉にまとめた心得箇条がある。第一から第八の心得まではナクシュバンディー教団の前身ホジャ派(ホジャガーン)の導師アブドゥルハーリク・グジュドゥワーニー(1180年没)が、第九から第十一まではバハーウッディーン・ナクシュバンド(1389年没)が考案したものであるとされているが定かではない。少なくとも14世紀以降には呼吸法、精神統一、神秘階梯(心の旅)、在家主義、親交などナクシュバンディー教団の土台となる修行方針が確立され、「十一の言葉」としてまとめられたと考えられる。
 ナクシュバンディー教団の教えは理性的批判と神秘的体験の両立を重視するクルド系ナクシュバンディー教団導師によってイスラーム学の伝統教義に体系的に組み込まれ、彼らのネットワークによって現在でもトルコからインドネシアまで伝統派のムスリムの間で影響力を保っている。オスマン朝最後のイスラーム学者と呼ばれたクルド系ナクシュバンディー教団導師ムハンマド・エミン(1914-2013)がナクシュバンディー教団の教えをまとめた『内観の法学(フィクフ・アル=バーティン)』を参考に、今回は「十一の言葉」を紹介したい。

 

第一の心得 呼吸における知覚(フーシュ・ダル・ダム)

 精神統一の土台となる心構えで、身体を巡る呼吸に意識を向け、息のひとつひとつに神の意志が宿っていることを理解する。祈祷や瞑想など修行者が意識的に行う修行とは異なり、呼吸は普段意識せずに行っている自律的な運動である。呼吸は自らの身体が自分の意志だけで生かされているのではないことの表れだと考えられている。さらに修行者が高次の次元に達すると、人間の息は彼方に存在する神に向かって「彼の御方(フー)」と呼び掛けている音であることを理解するという。

ブルサのウルジャーミーに飾られているアラビア書道「彼の御方こそアッラー」

 

第二の心得 足元への視線(ナザル・バル・カダム)

 雑念を払い、心を一つにすることを指す。「足元」とはいま踏み出すべき一歩のことを意味し、禅仏教でいう照顧脚下(しょうこきゃっか)とほぼ同義だと思われる。人間はしばしば過去や未来に囚われ現実がおろそかになったり、他人や周囲の環境に流され自分を見失ってしまったりする。スーフィズムではこのように心が現世の様々なものに結び付き誘惑や葛藤に陥ってしまうことを心の分散(タフリカ)と呼ぶ。反対に雑念を払うよう努力し、心を神に向けることを「一心」と言う。ペルシアの詩人でありナクシュバンディー教団の修行者でもあったアブドゥッラフマーン・ジャーミー(1492年没)は主著『閃光』で次のような詩を遺している。

 

ああ、すべてに心奪われて千の悩みを抱く者よ

汝の心が解き放たれて安らぐことは難しい

心の分散は森羅万象に由来する

心を一者(神)に託し、森羅万象より断ち切りなさい

ジャーミー(15世紀ペルシアのスーフィー)

 

 また足元への視線は謙譲(タワードゥウ)の境地を表すともいわれており、常に初心を忘れず修行に努めることの大切さを意味している。茶道の利休道歌に「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一」という言葉がある。何十年と修行を積み人生の酸いも甘いも嚙み分けたとしても、初心を忘れると修行者は「自意識(アナーニーヤ)」に侵されていく。スーフィズムの初心とは「人間の罪深さ」と弱さを克服せんと心に決めた「悔悟(タウバ)」の境地である。スーフィズムでは体を洗うように「心を悔悟で洗う」と言い、修行者は神秘階梯の始まりの悔悟の心を常に胸に抱き日々を過ごすことが求められている。イスタンブールにあるウズベクテッケでは、出口に次のような掛け軸が掛けられている。

 

 これはトルコ語で「無(ヒッチ)」を意味し、人間の儚さを指す。どれだけ修行を重ね、経験と知識を積んだとしても、神に比べたら人間など塵芥に過ぎないことを忘れるな、と修行場を出る修行者の心を戒めているのである。

 

第三の心得 自国での旅(サファル・ダル・ヴァタン)

 「自国」とは修行者自身の心を指し、「旅」は心の境地を昇華させていく精神的な過程を意味する。スーフィズムでは心から悪徳を取り除くことを「除去」と言い、美徳で心を飾り付けることを「修飾」と言う。人間の本性である欲望や攻撃性をコントロールし、様々な心の境地を獲得し確固たる自己を築くことの大切さを説いた心得である。またこの心得は他のスーフィー教団で行われていた苦行の一つである放浪の旅への批判でもある。多くのスーフィー教団は、旅を通じて自分が当然だと思っていた文化や風習が異国に行けば違うことを知ることで世界の相対性を学ぶことができると考えていた。しかし故郷を離れ異国の地で修行を行うことには様々な困難が伴い、ともすれば修行どころではなくなる場合も多い。ナクシュバンディー教団導師のホジャ・アフラール(1490年没)も「初心者は旅において混乱しか得るものはない」と述べている。維摩経に「直心是道場」という言葉がある。誠実な心を練り上げればその心が修行の場となるという考えだが、ナクシュバンディー教団の「自国での旅」もまさに同じ考えを説いている。様々な雑念や煩悩に囚われた心を探り、正しい方向へ導こうとすること以上に困難な「旅」はない。人間であればだれでも心を持っていることから、心を修行場にすることはあらゆる人間に修行の扉を開くことを可能にする。

 

第四の心得 集団の中での隠遁(ハルヴァト・ダル・アンジュマン)

 外面は人々と共にあり、内面は常に神と共にある精神的境地を指し、ナクシュバンディー教団の在家主義を指す言葉として有名である。他のスーフィー教団は精神統一のため四十日間隔離された部屋で祈祷修行を行うことがあるが、ナクシュバンディー教団は原則として社会から隠遁し、修行生活を行うことを奨励しない。彼らの在家主義は一般社会におけるスーフィズムの膾炙に貢献したと言われている。
 ナクシュバンディー教団の導師であり卓越した説教師でもあったファフルッディーン・カーシフィー(1533年没)は次のような格言を遺している。

 

隠遁の門を閉じ、奉仕の門を開け

師としての門を閉じ、友としての門を開け

独居の門を閉じ、親交(スフバ)の門を開け

 

 この格言は、「集団の中での隠遁」を構成する三つのキーワードを紹介している。
一つ目は奉仕である。修行者は世捨て人ではなく社会の中に生き奉仕をする者でなければならない。奉仕(ヒドマ)は無駄な我欲を取り除き、自意識を克服するための最善の修行であるとナクシュバンディー教団では考えられている。ここでの奉仕とはただ師匠の身の回りの世話をするだけではない。クルド系ナクシュバンディー教団導師ムハンマド・アミーン・クルディー(1914年没)が書いた修行書『心の照明』によれば、奉仕の在り方は各個人の能力や志向性、仕事に応じて変わる。学生であれば知識を得ること、教師であれば知識を伝達すること、職人であれば専門技術を生かすこと、政治家であれば国家の安定に努めることが奉仕である。個人によって異なる能力は神がその人に望み与えた「信託(アマーナ)」であるという。奉仕とは神が人に与えた信託を正しく運用することであり、奉仕を通じて信仰(イーマーン)が完成されていくのだという。
 二つ目は師の心構えである。スーフィズムの師は弟子に真理を一方的に伝える権威としてではなく、弟子と同じ道を歩む友として共に真理を探究しなければならない。18世紀ダマスカスで活躍したナクシュバンディー教団導師アブドゥルガニー・ナーブルスィー(1731年没)は、理想の導師について次のように語っている。

 

師とは外見や魂、霊、理性に神の姿を見せようとする者ではない

本当の師とは、彼の外見や魂、霊、理性の背後に神の存在を(うかが)わせる者なのだ

ナーブルスィー(18世紀シリアのスーフィー)

 

 前回説明したように、スーフィズムの信条は自由である。この世を超えたどこかに真理が存在すると信じることは、この世の中には人間を縛る絶対的な権威などないことを知ることである。スーフィー導師とてその例外ではない。「背後に神の存在を覗わせる」とは、真理を求める人間の生き様を見せながら真理を共に探究する姿勢を表す。
 スーフィズム入門の序でも紹介したが、イスラーム文化で育った若い学生の方が少年マンガを「スーフィズム的」と感じるのはこの「Sensei」像によるところが大きいのではないかと私は考えている。『少年ジャンプ』読者の方なら目にしたことはあるであろう、『ドラゴンボール』の悟空にとってのじいちゃんや亀仙人、悟飯にとってのピッコロ、『るろうに剣心』の緋村剣心にとっての比古清十郎、『ヒカルの碁』の進藤ヒカルにとっての藤原佐為、『暗殺教室』の生徒たちにとっての殺せんせー、『NARUTO』のうずまきナルトにとってのうみのイルカや自来也は、権威や力ではなく精神的なつながりによって受け継がれるスーフィーの伝統を思い起こさせる。人斬りの過去に苦しみ自分を見失っている剣心に、生きる意志を思い起こさせるために奥義を伝授する比古清十郎の姿や、自分が打った碁の中に先生であり親友であった佐為の思いが生きていることを知り、「遠い過去と遠い未来をつなげるため」に囲碁を続けることを覚悟するヒカルの姿は、弟子の心に寄り添う師匠と彼らの思いを受け継ぐ弟子の在りかたを見事に描いている。例えば中東やトルコの少年マンガ好きの学生の間で特に人気の「Sensei」である『NARUTO』の自来也は、「伝説の三忍」とまで謳われた卓越した忍者であるが、同時に多くの欠陥を抱えた同じ一人の人間として、自分が犯した過ちや後悔を胸に抱えながら次の世代に己が忍道を伝えようとする魅力的なキャラクターである。自来也はナルトを孫のように愛情をもって育て、最期までナルトの可能性を信じて疑わなかった。また自来也が戦いの中で死んだことを知りひどく落ち込むナルトに、師匠の意志を継ぐことの大切さを同じ目線に立ちながら語り掛けるうみのイルカ先生も「友としての師」を体現している。

 

師と弟子 『NARUTO』44巻より (C)岸本斉史/集英社

 

 三つ目のキーワードである「親交(スフバ)」は、「共に時を過ごす」、「傍にいる」ことを意味するアラビア語で、人に寄り添うことの大切さを説く言葉である。ナクシュバンディー教団では親交によって結ばれる師匠と弟子の絆(ラービタ)が特に重要視されるが、「絆とは慈しみに他ならない」という格言がある。親交とは師匠が慈しみをもって弟子を育て、また弟子は慈しみをもって師匠の思いを受け継ぐという師弟間の作法を指す。『鬼滅の刃』に登場する我妻善逸と彼の師匠「じいちゃん」こと桑島慈悟郎の師弟関係は、この親交の心をよく表している。『鬼滅の刃』は人を喰う鬼と人との闘いを描いた少年マンガだが、「思いを受け継ぐことの大切さ」が様々な人間の生き様を通して見事に描かれている。鬼狩りの組織「鬼殺隊」の元剣士で、引退後は鬼殺の剣士を育てる「育手(そだて)」として暮らしていたじいちゃんは、善逸が人に騙されて背負った借金を肩代わりして弟子に取るのだが、善逸は修行の厳しさから何度も逃げようとする。しかしじいちゃんは決して善逸を見捨てず逃げる度に引き戻し、彼の才能を信じできることを極める大切さを説く。「一つのことしかできないならそれを極め抜け」というじいちゃんの助言は、なかなか自分に自信を持てない善逸の心を深く知り、彼に寄り添ってきたからこそ出てきた言葉だろう。

 

第五の心得 回想(ヤード・キャルド)

 第五から第八までは、祈祷修行の作法を説明している。回想は祈祷修行の初歩的な段階で、心の中で常に沈黙の祈祷を続けることを指す。回想の段階では修行者は心の中の葛藤と闘いながら祈祷を続けるため、「克己(ムジャーハダ)」の境地を確立することが目的となる。

 

第六の心得 回帰(バーズ・ギャシュト)

 息を止め集中して行う祈祷修行の際、奇数回毎に息を吸い直しその際「我が神よ、我が目標はあなたであり、あなたの満足です」と唱える作法を指す。祈祷修行ではしばしば呼吸の仕方や祈祷の言葉に注意が持っていかれたり、修行をしている自分に満足してしまったりすることで、そもそも「何のために」修行をしているのかを見失いやすい。「回帰」とは、何のために自分は修行を行っているのかを継続的に思い出し、祈祷が形骸化するのを防ぐ心構えを意味する。

 

第七の心得 注意(ニギャー・ダーシュト)

 神に全意識を集中させることを「集中(タワッジュフ)」という。注意とはこの集中の境地を獲得するために、心の中にどんな雑念や葛藤がうごめいているかを理解しコントロールすることを指す。第一の心得「呼吸における知覚」と第二の心得「足元への視線」を徹底することで達成される。

 

第八の心得 追憶(ヤード・ダーシュト)

 回想、回帰、注意を究めた先にある祈祷の到達点であり、祈りの言葉を超えて、祈りの対象である神の存在に精神を集中させることを指す。第五の心得である回想の段階では修行者は自らの意志や努力で祈祷を行っているため、その祈りの中にはいくばくかの自意識が残っている。しかし祈祷修行を究め我欲を滅却することに成功すれば、穏やかな凪の海が空の景色を写すように心は神の意志を映す鏡となる。この修行者を「祈りそのもの」とも呼ぶ。

 

第九の心得 時の知覚(ヴクーフィ・ザマーニー)

 心が神と共にあるか、日々の時間を有効に使えているか省察することを指す。前回紹介した「反省(ムハーサバ)」と同義だと考えられている。一瞬一瞬において為すべきことを理解し、行動に移すことを意味する。

 

百年は三万六千日、人生は七十年しかない

若者よ、よく考えよ

ふと目を離したすきに無常(死)はやってくるのだ

劉智(17~18世紀中国のイスラーム学者)

 

第十の心得 数の知覚(ヴクーフィ・アダディー)

 祈祷修行の際に、祈祷の一セットを奇数回にすることを指す。ナクシュバンディー教団において祈祷の数は「真理の門を開く鍵の形」であり、鍵の形が違えば門は開かれないため師匠から伝えられた祈祷の数を維持することは特に重要視される。祈祷の回数はスーフィー教団や導師により異なるが、ナクシュバンディー教団は数があまりにも多いとノルマを達成することに気を取られ目的がおろそかになると考える。例えば呼吸に合わせて祈祷をする場合、一セット二十一回を超えてやろうとすると持続せず、かえって集中力を損ない逆効果という。

 

第十一の心得 心の知覚(ヴクーフィ・カルビー)

 第四回で紹介した心の深層(ラターイフ)の理解を深めながら、沈黙の祈祷を行住坐常続ける境地を指す。第一から第十までの心得全てを究め、「あたかも神がみえているかのように」生きることを意味する。この境地は第六回で紹介した観照(ムシャーハダ)と同義であるとされる。

 

 第六回
第八回 
スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。

現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
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