スーフィズム入門 第八回

五功の心―神・自然・人をつなぐ修行

ما هو التصوف

山本直輝(やまもと なおき)
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白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。

一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道の修行に通じる香りがする。

はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

山本直輝

 

五功とは修道なり

人と天が合わさるための道を追究することに他ならない。

劉智(17~18世紀中国のイスラーム学者)

 

 ムスリムの生活を見てみれば彼らは一日五回の礼拝をし、断食月には日中は飲むことも食べることもできず、YouTubeを開いてみればマッカに巡礼に訪れるムスリムたちの姿が映る。イスラームが一般に厳しい戒律の宗教と受け取られているのは、このような様々な宗教実践の規定のためであろう。

 日本では一般に「五行」としてまとめられるイスラームの五つの義務行為(信仰告白・礼拝・斎戒・喜捨・巡礼)は何のためにあるのか? ムスリムたちも当然、聖典クルアーンや預言者ムハンマドの言葉をたどりながらその意味を探ってきた。その中でも特にスーフィー達は、修行者として生きてきた経験や修行中に得た直感を頼りにイスラームの宗教実践の意味を説いてきた。スーフィズムではこのような経験を伴った知識のことをマアリファ、神から与えられる直感のことをイルハームと呼ぶ。マアリファやイルハームを用いてイスラームの六信五行を解釈するジャンルを「イスラームの柱の奥義」と呼ぶ。

 例えば中国のスーフィー劉智はイスラームの基本的な世界観と実践を紹介する入門書『天方典礼』のなかで、五功(五行)とは神の真理に到達するために自らの魂を磨き鍛え上げる「修道の法」だと説いた。また16世紀エジプトで活躍したスーフィーのアブドゥルワッハーブ・シャアラーニー(1565年没)は、五功の秘義を知ることは求道者が志を正しく持つために必要であると説いている。

 実は特殊な祈祷や瞑想、夢解釈などを行わなくとも、日常を丁寧に生きようという志を持って基本的なイスラームの実践を行っていれば、ムスリムは皆修行者なのである。しかし、その五功の神秘的意味や修行的側面を知ることはあくまで弛まぬ鍛錬と神からの恩恵によってマアリファやイルハームを得たスーフィー達にしかできない。今回は、スーフィー達における五功の解釈を紹介したい。

 

 信仰告白―何のために生きるのか―

 「神はいない。しかしアッラーはいる」との信仰告白の言葉は、第六回「心の境地」(2)の「自由(フッリーヤ)」の境地でも説明したように、人間は現世の何者にも支配されてはならないという自由の表明であった。

 また神を考えるとは、同時に被造物の本質を見据えることであるという。それは全てには始まりと終わりがあり、我々は限られた時間の中に生きる儚い存在であることを理解することだという。中央アジアの導師ナジュムッディーン・クブラー(1221年没)によれば、信仰の土台として人間が理解しなければならないことは三つあるという。第一は、起源(マブダア)の理解であり、私たちはどこから来たのかを知ることである。第二はこの世(マアーシュ)であり、今・この瞬間に私たちはどう生きるべきかを知ることである。第三は終焉(マアード)の理解であり、私たちはどこへ帰っていくのかを知ることである。信仰とは、永遠の昔から果ての未来まで流れゆく時間の中でなぜ神は「今・ここに」自分を創造したのかを考え、何をすべきなのかを見据えることであるという。

 

 清め―人間の業を見つめる―

イスラームの全ては心身の浄化により成り立つ

シャアラーニー(16世紀エジプトのスーフィー)

 

 イスラーム法(シャリーア)は神と人との関係を規定する法「イバーダート」と、家族法や債権法、刑事法など社会を運営するにあたって人と人との関係を規定する法「ムアーマラート」に分かれている。そして法学書を開くとまず目にする最初の項目は、礼拝に立つために必要な「清め」の規定である。イスラームでは排泄や性交などを行った場合、礼拝に立つ前に清めが必要となるのだが、清めの仕方については松山洋平『イスラーム神学古典選集』(作品社、2019年)に礼拝の作法が分かりやすく解説されているので確認していただきたい。ムスリムであれば最も身近な宗教実践であろう礼拝の起源について、スーフィー達は人間の失楽園の物語を結び付けて解説している。

 エジプトのスーフィズム中興の祖シャアラーニーによれば、清めの儀礼は最初の人間アダムがエデンの園で神の言いつけを破り果実を食べたことに由来するという。果実を食べたことで人間は、自らが神の命に背き自らの欲望を選択する可能性を持つ存在であることを示した。しかしその後に神に赦しを乞うたことで、アダムは過ちを犯しながらも後悔し、よりよい生き方を望む存在であることも同時に示したのである。人間は排泄や性交などを行った場合、礼拝に立つ前に清めをする必要があるのだが、どれも人間の基本的欲求とかかわりのあるものである。清めの実践は、人間が欲深い存在であることを意識し、手や顔、足などを清らかな水で洗う際、四肢が犯した罪を思い出し悔悟(タウバ)の境地を忘れないようにするための修行だという。

 

 礼拝―森羅万象の祈りー

 ムスリムは一日に日の出・正午・午後・日没・夜の計五回礼拝に立つことが義務とされている。礼拝の中でムスリムはクルアーンを詠んでいるときは立ち、その後前屈姿勢をとったり、地面にひれ伏したりと様々な動きがあるのだが、西アフリカのティジャーニー教団ニアセン流派の祖イブラーヒーム・ニアース(1975年没)によれば、人間の礼拝には森羅万象の祈りが込められているという。

 

被造物は三種類に分かれる。

木のようにじっと立っているもの、

馬のように背を曲げているもの、

土のように地にぴったりとくっついているもの。

人間が礼拝に立つとき、神は木の祈りを人に授け、腰をかがめるとき神は馬の祈りを授け、地にひれ伏すとき神は土の祈りを授ける。

森羅万象は神を称えているが、お前たち人間は彼らの祈りの言葉を理解していないのである。

イブラーヒーム・ニアース(20世紀西アフリカのスーフィー)

 

 『孫子』に「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」という言葉がある。イスラームでは、自然や動物、鉱物が持つ性質は神から与えられた徳であり、自然界に存在するあらゆる生物・無生物はそれぞれの徳を現すことによって神に祈りを捧げていると考える。つまり鳥であれば軽やかさ、獣であれば強さ、水であれば流れ、火であれば熱さ、石であれば頑丈さをもって神を讃えているのである。普通の人間であっても、彼らが礼拝に立つとき、その動き一つ一つに、様々な自然界の生き物たちの祈りが込められているのである。

 第一知性という万物の存在流出の祖型から始まり天体や四大元素(火・風・土・水)、三大被造物(動物・植物・鉱物)などの森羅万象、即ち「大宇宙(アーラム・カビール)」の本質を理解し、その徳を体現する人間の理想形をスーフィズムでは「小宇宙(アーラム・サギール)と呼ぶ。

 さらにスーフィズムでは、「小宇宙」の境地に到達した修行者は「大宇宙」である自然界のあらゆる被造物と対話し、彼らから知恵を得ることが可能であると考える。この境地を表しているものに、トルコで最も有名なスーフィー詩人ユヌス・エムレ(1321年頃没)の「黄色いお花に聞いてみた」という詩がある。

 

ねえねえ 黄色いお花さん あなたのママとパパはだれ?

やあやあ 偉いお坊さん 大地がわたしの両親さ

 

ねえねえ 黄色いお花さん 子どもや兄弟姉妹はいるのかい?

やあやあ 偉いお坊さん 葉っぱがわたしの子供だよ

 

ねえねえ 黄色いお花さん どうして頭を垂れているの?

やあやあ 偉いお坊さん 神様の前にいるからさ

 

ねえねえ 黄色いお花さん お顔がまっさおになってるよ

やあやあ 偉いお坊さん もうすぐわたしは死ぬからさ

 

ねえねえ 黄色いお花さん あなたもいつか死んじゃうの?

やあやあ 偉いお坊さん この世に死なないものなんて あるのかい

 

ねえねえ 黄色いお花さん あなたは誰に従うの?

やあやあ 偉いお坊さん ムハンマド様に従うよ

 

ねえねえ 黄色いお花さん わたしは誰だか 知ってるかい?

やあやあ 偉いお坊さん あなたはユヌスじゃないのかい?

 

 この詩でスーフィー修行者に世の(ことわり)を教えてくれる「師匠」は花である。この詩は非常に素朴なトルコ語で書かれているのだが、自然もまた神に祈りを捧げているという「アニミズム的世界」を教えてくれている。トルコの古典スーフィー詩にはこのように自然の美しさや儚さと触れ合いながら神の真理を学ぶ修行者の説話が多く紹介されている。素朴な言葉で自然や人の情、世の理を詠った『万葉集』などの伝統をもつ我々日本人にとっても彼らの世界観は決して分かりにくいものではないはずだ。「汝を知る者は神を知る」とはスーフィー達が最も好んだ格言であるが、ユヌス・エムレの詩もまた「大宇宙」に属する花が「小宇宙」であるユヌス・エムレの名を伝える、即ち「汝が何者であるのか」を教える言葉で終わっている。

 

 斎戒―運命を受け入れ耐え忍ぶ―

 ムスリムは一年の内、断食月の一か月間日の出から日の入りまで断食を行う。スーフィズムでは断食はまず被造物の不完全性を知るための修行であるという。スーフィーによれば断食中に味わう空腹やのどの渇きは、生命がエネルギーを摂取しないと死んでしまう儚さと限界性の象徴である。全く何も摂取しないでも存在し続けられるのは神だけであり、神だけが完全な「断食」を行うことができるという。その意味では人間の行う断食は、神から見れば不完全なものに過ぎない。また断食は飲食を一定の時間断つことで、己の欲望をコントロールする術を学ぶことにつながるという。シャアラーニーによれば森羅万象は全て「斎戒」を行っているという。ここでの「斎戒」とは欲望に囚われず、自らに与えられた使命を全うすることであるという。例えば重い石は不動であること、軽い石は軽やかに動くことが彼らの「斎戒」であるという。人間はしばしば心が生み出す様々な雑念や煩悩に振り回されることで自分を見失いやすい。しかし自然を見れば石は地面から逃げて空に飛んだりはしないし、火は燃やすのを止め何かを冷やしたりはしない。スーフィズムにおける最高位の斎戒とは飲食を断つという行為を通じて欲望を滅却し、自らに与えられた役割とは何なのかを知るために精神を統一する修行なのである。

 そして自らに与えられた特性を理解した後、人間はその特性を自分だけでなく他者に分け与える術を学ぶことが求められる。その術を教えてくれるのが「喜捨」である。

 

 喜捨―自己犠牲の精神―

 喜捨とは毎年自分の財産から一定の金銭や現物を困窮する人に再分配するイスラーム法の実践である。劉智によれば喜捨とは財産を一部手放すことで物欲をコントロールし、心を浄化するための修行であるという。「ケチ」はイスラーム倫理ではもっとも忌み嫌われる振る舞いであるが、財産は貯めれば貯めるほど心がそれに執着し、人間は優越感に支配され自己中心的になっていくという。スーフィズムでは、神を忘れ自己を中心とした世界に生きることを「隠された多神崇拝(シルク・ハフィー)」と呼ぶ。この隠された多神崇拝を取り去るのは「黒い岩を這う黒蟻を見つけるより困難」なほど人間の心の奥深くに巣くう病だと言われており、財産を再分配することは、人間が社会的動物であり人と人のつながりの中で生きていくことを思い出させ、自己中心性から心を抜け出させるきっかけとなるという。

 またシャアラーニーによれば、自然界のあらゆるものはお互いに「喜捨」をして生きているのだという。大地は地を踏みしめる者を支え、雨は渇く者を潤す。草木は草食動物に食べ物を与え、草食動物は肉食動物の糧となる。スーフィーによれば、このように自らの存在を惜しみなく捧げ相手を活かすことは全て「喜捨」なのだという。例えば清めの際に人間の体を洗ってくれる水は、自らの清らかさを人に捧げることで「喜捨」をしているのである。

 荒川弘『鋼の錬金術師』(「月刊少年ガンガン」)で主人公の兄エドワード・エルリックと弟アルフォンス・エルリックが師匠の命令による無人島でのサバイバル修行の中で、「一は全、全は一」という言葉の意味を考えさせられるシーンがある。厳しい無人島生活の中で主人公は人間や動物はこの世の大きな流れの中の「一」に過ぎないが、その一が集まり合い「全」を構成し、この世の理を成していることを理解する。喜捨もまたこのように、人とは大きな世界の中に生きる一つの命に過ぎず、世界とは様々な命がお互いを捧げあって存在しているということを理解する修行なのである。

 

 巡礼―真理を求める旅へ―

 ムスリムは一生のうちに可能であればマッカに巡礼を果たすことが求められている。『風姿花伝』に「住する所なき、まず花と知るべし」という極意がある。同じ場所に留まり続けるのではなく、常に変化を求め自己を革新していくことが芸の本質であるという言葉だが、劉智によれば巡礼とは安住を捨て、変化に富んだ旅の困難の中で心身を鍛え上げる修行であるという。信仰告白で説明したように信仰の三つの土台の最後は、人間はどこに帰っていくのかを理解する「終焉」であるが、巡礼の旅はまさに人生とは神を求める旅そのものであることを人間に教えてくれる。またナクシュバンディー教団の心得「自国での旅」のように、巡礼は外界から内なる世界へと向かうことの象徴でもある。

 以上、スーフィー達による五功の解釈を紹介した。スーフィーによれば五功とは、人間の業の起源を知り、自我や欲望をコントロールする術を学び、この世の大きな理―天とも呼べるもの―の中に自らを位置づけ心身を捧げる魂を養う修行なのである。この自らの起源を知り、森羅万象とのかかわりの中で自らの役割を学び、神の元へ還るために心身を鍛え上げる過程をスーフィズムでは「存在の円環」(ダーイラ・アル=ウジュード)という。

イブラヒム・ハック・エルズルミー『叡智の書』より「存在の円環」図

 第七回
第九回 
スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。

現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
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五功の心―神・自然・人をつなぐ修行

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