マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第1回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

①孤独によって生まれた新しい「退屈」
上岡伸雄

孤独

 我々のいまの窮状におけるインターフェースのあり方を理解するために、「ポスト・トゥルース」状態の影響を取り出して考えなければならない。というのも、それは我々の孤独感に働きかけるとともに、それを絶え間ない刺激によって克服しようという願望の静かながら必死な思いにも働きかけるからだ。ポスト・トゥルースの欠陥を単純にネオリベラル経済のせいにするのは間違いであろうが、示唆に富んだつながりはある。ネオリベラルの価値観においては、すべての資本が同じ地位を持っていて、人々のいかなる差異もすべてカバーし、あるいは乗り越える──そして、表面上は確固とした政治的信念の数々を従わせることさえする。建前上は「自由」な市場において、規制緩和と競争で繁栄するシステムは、公共の信用、公共の言説、そして公共財に、重なり合う病の連鎖を生み出す。これは単純に──皮肉たっぷりのジョークにあるように──我々が金で買える最高の政府を持っている(訳注:もともとはマーク・トウェインの言葉で、汚職がまかり通る政府を皮肉ったもの)ということでもない。さらに、自由民主主義を正当化する通常のメカニズムは金銭的な利害によって体系的に空洞化され、まがいものの議論によって置き換えられている──「フェイクニュース」という非難、明白な嘘、自明なものを錯乱状態で否定することなど。これを書いている時点での状況は特別に深刻な様相を呈しているが、それがいまではすべての地域の政治システムにおける病だと考えるべき理由は大いにある。

木村 優光 / PIXTA(ピクスタ)

 

 サミュエル・ジョンソン(訳注:18世紀のイギリスの文人で、『アイドラー』はそのエッセイ集)は1758年、『アイドラー』に次のように書いた。「戦争の惨禍として数えられるもののなかには、真実を愛する気持ちの減退も含まれるかもしれない。利益のために真実を歪めようとする力が働き、人々がそれを簡単に信じてしまうことによって、この欺瞞が促進されるのである」。ジョンソンが犠牲者として挙げた最初の部分は、アメリカの上院議員、ハイラム・ジョンソンが1918年に行なったより有名なスピーチで簡潔にまとめられている──「真実は戦争の第一の犠牲者である」。二人のジョンソンが示唆しているのは、戦時が例外的な状況であり、リスクの高い大博打によって、平時なら健全な社会的・政治的基準が低下してしまうということだ。しかし、もし戦争状態が常態化してしまったらどうなるだろう? それは単に、アメリカ、イギリス、カナダ、そのほか西側同盟国が、1990年の第一次湾岸戦争以降、本質的にずっと戦争を続けているという事実だけの話ではない。戦時中の措置、非常事態で例外的であるという状態、そして広範に及ぶ監視などが同じ時期に、特に2001年9月11日のニューヨークとワシントンにおけるテロ事件以降、常態化されたことも事実である。さらに言えば、同じ時期、政治家たちの信頼性の基準が急降下したのを我々は目撃した。それは、自信はあっても根拠はない発言をファクトチェックする手段や速度が、絶え間ないニュースのサイクルとツイッターでの暴言に追いつかないことにも大きな原因がある。インターフェースは、すべてを説明責任ゼロのグレーゾーンに投げ込むことで、支配的基準としての真実が崩壊したことに関与している。虚偽が指摘される頃には、我々はそのサイクルをすでに3回はターンしている。そして、このサイクルは決して止まらない。

まちゃー / PIXTA(ピクスタ)

 

 このことは、私がインターフェースと関連づけてきた「退屈」の問題とどのようにつながるのだろう? 哲学者たちは概して真実が我々を救えると信じてきた──我々自身の誤った、あるいは倒錯した欲望による最もひどい崩壊からも、外部の原因からくる歪んだ影響からも救える、と。それは実際、哲学的な考察が一貫して約束するものであった。哲学は物事を明らかにし、それによって──我々にその気さえあれば──こうしたこと(誤った信念、曖昧な思考、不正なシステム、倫理にもとる行為など)を変革したり、捨て去ったりできる。しかし、真実という規範がなかったら、我々は「退屈」とその原因を哲学的に分析することで治癒的効果が得られるという幻想を抱き続けることができるのだろうか? 公共の規範としての真実が蝕まれていくことと、ネオリベラル時代の「退屈」の経験とのあいだにはっきりとした線は引けないが、それでも両者のあいだにあるネットワーク的つながりはいまだ判別できる。延々と続く政治的な虚言の気を滅入らせるような光景は、市民を孤立させ、疲弊させる。我々が数えきれないほど見てきたように、市民同士が暴力的に対立することにもつながっている。何が信用できるかは、その人がフォックスニュースを見るか、MSNBCを見るか、CNNを見るかにかかっている。あるいは、誰のツイートをフォローするか、フェイスブックで誰と話をするかに。我々の時代の政治生活には恐ろしいほどの孤独と荒廃があり、真実の救命艇は波の下に消えてしまった。こうした孤独によって生まれた「退屈」は、私が主張してきたように、ほかのタイプの退屈とは明らかに違う。それは落ち着きがなく、落胆し、ときには怒っている。それに苦しむ者たちは刺激を受けすぎていて、刺激が足りないことはない。彼らは自分の感情をどうしたらよいのかわからないし、しばしばあるように、怒りが発散できないことで鬱状態に落ち込む。これは、明らかにハイデッガーとショーペンハウアーが対処しなくてよかった問題だ!

 

(第2回へ続く)

 

 

 

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第2回  
マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む

「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

関連書籍

テロと文学 9.11後のアメリカと世界

プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

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「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと