マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第2回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

②真実を見捨てた代償

上岡伸雄
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新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、「ステイホーム」の号令下にあって、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多いのではないだろうか。外出機会が制限される一方で、ウイルスを巡っての深刻なニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくるとあっては、必然的にスマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増えただろう。それだけではない。リモート会議などのコミュニケーションから生活を支えるオンライン通販、映画や音楽の視聴といった余暇まで、在宅におけるすべての事柄がこうしたデバイスに支えられていたとさえ言える。

wavebreakmedia / PIXTA(ピクスタ)

 

2019年4月、カナダでは非常にポピュラーな哲学者であるMark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らす一冊『退屈とインターフェース』を上梓した。その中でも現下の状況に最も関わりの深い第二部を、ドン・デリーロやフィリップ・ロスなどの翻訳で名高いアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。


 

(第1回より続き)

 ちょっとした例を考えてみてほしい。キャンプ場での議論がエスカレートしやすいのは誰もが知っている──特にお酒が入ったときは。しかし、カナダのオンタリオ州にある小さな町、ブロックヴィル近郊で起きた2016年の口論は、経験豊かなキャンパーたちでさえも少し──まあ──お馬鹿だと感じさせるものだった。地球は丸いのか平らなのかという議論が白熱し、怒った男がキャンプ場にある物品の数々を──プロパンガスのタンクも含めて──火に投げ込んだのだ。この男は消防士が来る前にキャンプ場を立ち去った。あとでわかったのは、地球が平らだと主張したアウトドア派の人は、プロパンガスを投げ込んだ人の息子のガールフレンドであった──ということで、つまり、家族間のせめぎ合いがあったのだ。それにしても、彼女のような人たちが集う奇抜なグループが存在しているとはいえ、我々はそれ以外の面では正気な人たちがこうしたことで議論するとは想定していない──ピタゴラスやガリレオ、ジョルダーノ・ブルーノなどの何世紀にもわたる研究にしっかりと根ざした科学的な知識を疑問視する人がいるとは。それとも、想定内なのか? 事実、真実、証拠などは、以前のような理性的な影響力を発揮しない。フェイクニュースのサイト、ジャンク・サイエンス、ファクトチェックを喜んでないがしろにする政治家、そしてユーザーをどんどん愚かにしていくように見えるグーグル検索が、真実を無用なものにしているのだ。我々は混乱と対立、偽りの旗、そしてインターネット・ミーム(訳注:インターネットを通じて人から人へと、通常は模倣として広がっていく行動・コンセプト・メディアのこと)の暗い海に舵なしで航海しているのである。

anatoliy_gleb / PIXTA(ピクスタ)

 

 もちろん、我々はすでにこういう経験をしてきている──ここまで広範囲に及ぶものでなくても。誤情報、レトリックによるごまかし、まがいものの信念体系、そしてあからさまな無知は、人間社会の営みにおける標準であって、例外ではない。しかし、ほとんどの時代において、これらはいけないことであり、積極的に闘わなければならないものだという感覚があった。プラトンは臆見(ドクサ)、つまり思い込みによる意見が日常生活を支配している悲しい状況を認めている。それに対して真の知識であるエピステーメーを強く擁護することで対抗し、エピステーメーは哲学者だけが判別できるとしている。哲学者たちでさえ、もはやその種の哲学者は信じないし、我々が厚かましくもその代わりに提示してきた真実の観念──実利的で、経験主義的で、反証可能なもの──は、懐疑主義と相対主義とに流れ込むことを防ぎはしない。もし神によって定められているのでなければ、あるいは形而上学的に手堅いものでなければ、真実は趣味の悪いジョークか権力掌握術、知識の偽造による詐欺のように見える。おそらく新約聖書のポンティウス・ピラトは正しかったのだろう。彼は真実という考えを「真実とは何か?」という修辞疑問文で嘲り、その答えを聞こうともしなかったのだ(訳注:ヨハネの福音書18章38節より)。

fortton / PIXTA(ピクスタ)

 

 しかし、真実を見捨てた代償は深刻だ。この事件が起きた2016年の白熱した夏、公共生活のいかなる問題を扱うにも、アメリカ大統領の共和党候補となりそうな人物に言及しないわけにはいかなくなった。しかし、ドナルド・J・トランプ大統領は、実際にポスト・ラショナルな(訳注:理に適っているかどうかを問題にしない)選挙運動の新しい段階を代表している。ジョージ・W・ブッシュのシニカルで政治的リアリストの補佐官たちは、自分たちが権力から現実を作り出したと主張した。この立場は、新しい共和党政権の手法と比べれば、まだ学術的な権威があった。いまの政権は行き当たりばったりで、何でも言えてしまう。銃撃者はニューヨーク生まれであろうとアフガニスタン人だ! 大統領は操り人形でイスラム過激派のスパイだ! イスラム教徒とメキシコ人は──言うまでもない! 重要なのは、こうした危険なナンセンスに理性をもって対抗しても、トランプの選挙運動のあいだはほとんど影響力がなく、いまの政権下においてもそうだということだ。間違いを訂正することは、以前は恥や混乱を引き起こした。いまでは言葉による一か八かの賭けを促進するだけだ。多くの人々がこれを言っている! 実際、重要な事項は──気候変動も外交政策も──みな愚かな行程へと引きずられていくだけ。念のため言っておくと、そう、ヒラリー・クリントンも選挙運動のなかで大っぴらに嘘をついた──しかし、もっと一貫性があった。

 

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「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

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プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

 
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