対談

男性問題の現在を語ろう

西井開×清田隆之

なぜ自分には恋人がいないのか。恋愛をしたい。セックスをしたい。恋人が欲しい。何気ない会話を女性としてみたい。それができない自分は、どこかに欠陥があるんじゃないか……。
こうした苦悩は、「非モテ」という言葉によって90年代後半から現在までネットを賑わせてきました。
しかし、本当に「非モテ」男性は、モテないから苦しいのでしょうか?
男性が「非モテ」という苦悩を抱くまでの過程を掘り下げ、そして苦悩から抜け出す実践まで男性学の視点から提示した一冊が、西井開さんが著した『「非モテ」からはじめる男性学』です。
今回は、男性性がもたらす問題について自らの経験を内省しつつ真摯に向き合った『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)を昨年夏に刊行した、桃山商事・清田隆之さんを対談相手にお迎えしました。
互いの「非モテ」経験を明かし合うところから、現代の男性が抱える諸問題を語り合いました。

※8月4日に本屋B&Bさんで開催された配信イベントの一部を記事化したものです。

 

男子校の世界観は合コンで通じなかった

清田 『「非モテ」からはじめる男性学』では帯文を寄せさせていただきました清田と言います。普段は文章を書く仕事をしていまして、桃山商事という、いろいろな人の恋バナを聞いて、恋愛やジェンダーの問題について、わいわい話すユニットのメンバーでもあります。
 西井さんとは、よく男の人のことについておしゃべりをするような仲ですが、今回の本を読ませてもらって、ちょっとしみじみした気分になりました。
 というのも、僕は中高、男子校に通っていて、モテるとかモテないとかを思春期の頃、あまり意識せずに過ごしていたんです。女子と話す機会がほとんどなくて、女の人のことが全く分からない状況で生きていました。
 合コンみたいな文化が少しずつ始まったのは高校からで、学校帰りにマクドナルドで近隣の学校の女子と一緒におしゃべりしたり、カラオケに行ったりするようになって、好きだなとか、素敵だなと思う人ができたりもしました。
 それでなんですが、男子校の中では、僕はちょっと面白いやつとか、話を回す役とかで、何となくクラスの中心にいる、友達が多いキャラクターを自認してたんです。その世界の価値観が外の世界でもそのまま転用されると思っていたので、女子にモテるんじゃないかっていう淡い期待を持っていたんでよね。
 ところが、合コンみたいな場所で気づかされたのは、もう全く、ほんとに悲しいぐらい恋愛対象として見てもらえないっていう現実で。逆に、男子校では、取るに足らないって言ったら失礼なんだけど、そう思っていた男子が合コンではめちゃくちゃモテていた。自分は女子と友達にはなりやすいかもしれないけど、全然、恋愛に発展しない。そこの乖離に、すごい悩まされるようになりました。
 恋愛感情とか、性的な欲望とかを抑えて生きれば仲良くなれる。けれど、それらがないわけじゃないから、率直に表明してしまうと、あれ、おまえチンコ付いてないやつだと思ったから仲良くなったのに裏切りだ、というふうに思われるんじゃないかという恐怖があって。

西井 なるほど、「ぬいぐるみペニスショック問題」ですね。

清田 その言葉をネットで初めて知ったときは衝撃でした。自分の中にある「非モテ」意識を言語化するとそんな感じになるんですが、この本は、「非モテ」意識を持つ人が、どのように悩まされてきたかとか、苦悩のもとにはどういうものがあるのかとか、そういうところにフォーカスしている一冊なので、自分事として読めたんです。

清田隆之さん

 

モテないのは自己責任か?

清田 それと、「非モテ」の問題は、モテないお前が悪いんだとか、見た目や清潔感を磨けばモテるようになるぞとか、おどおどしているから駄目なんだとか、とかく自己責任論になっていっちゃう。けれども、その背景には、メディアのメッセージなど社会的な影響がいろいろあり、そういう意識を持たされてしまってるっていう側面もある。
 そんな話を、『「非モテ」からはじめる男性学』は、さまざまな知識を導入して解体し、自己責任論では片付けられない部分について、すごく繊細な問題を繊細に語ろうとしている本だと感じました。
 読んでいて、いろいろなことを思い出しました。あの時の自分は自己責任論的に考えていて、そんなこと言っているから俺はモテないんだ、と。もっと「セックス、セックス!」みたいな。よく分からないけど、とにかく頑張るぞ!みたいな気持ちにならなきゃいけないのかな、と思っていた。その無理をしている自分の感じが呼び起こされて、大変だったね、当時の清田君は……としみじみしたんです。

西井 ご感想をありがとうございます。僕の経験も話すと、「非モテ」が意識化されてきたのは、大学受験に失敗し予備校に通っていた浪人時代ぐらいからでした。その時よく一緒にいたのは、典型的な男子グループだったんです。みんなでTSUTAYAに行ってAVを借りにいくみたいな遊びを結構していて、男性同士のからかい合いもすごくありました。僕は「ほんまに不細工やな」とよく言われていて、それが遊びとして成り立つ空間だったんですね。
 その中では、性に関するからかいもとても多かったし、また女性との性経験が多い男性がもてはやされていました。僕は、童貞であることをよく馬鹿にされていたし、自分もそれを内面化していました。性経験がなく、恋人がいない、このままの状態では駄目なんじゃないか。本の中では「未達の感覚」と名前をつけて論じましたが、何か達成していない、十分な基準を満たしていないという焦燥感が強くある感じでした。だから、清田さんの「セックス、セックス!」というのは、すごくよく分かる。

清田 すみません、下品な言葉で。

西井 めちゃくちゃよく分かります。大学1、2年ぐらいの頃、僕は口を開けば「セックスしたい」と言っていましたね。言い過ぎていたせいなのか、いまだに気を抜いたら言っているときがあるんです。お風呂入ったときに、「ああ、セックスしたいな」と……。
 こうした「非モテ」をめぐる男性の焦りや苦悩はどこからくるのか、という関心をいだき、2017年に男性同士で「非モテ」について語り合うぼくらの非モテ研究会(以下、非モテ研)というグループを立ち上げて活動してきました。本書はその中で語られた内容を分析したものです。

西井開さん

 

差異はあってもつながれる

西井 先ほど清田さんが、男子校のクラスの中で自分は結構中心にいたのに、合コンの場では取るに足らないと思っていた男子のほうに彼女ができて混乱した、という経験を話されていました。同じように、男性だけで作り上げていたコミュニティの中に、女性との恋愛という要素が入り込んできたがゆえに、それまでとは別の関係性の力動が生まれるというエピソードはよく耳にします。成長に応じて異性愛規範が強化されるのです。
 ただ、こうした問題を論じる時、そもそも合コンに行けない男性の層、つまり異性愛を積極的に求めたり、互いに競争を繰り広げたりして関係性を築く男性集団の中に参入できない、参入しようとしない男性の層が存在することにも意識を向ける必要があると思っています。
 僕も、高校時代、周囲にいじられることが多かったですが、それでもそれなりに友達がいました。ところがそうした集団からさらに疎外されている男性も確かにいて、同じ男性でも他者関係をめぐる生きづらさに差異があります。今回の本の中では「非モテ」男性と一括りにしているけど、それぞれの経験にはやはり違いがあり、それを見過ごしてはいけないと思っています。
 そう考えたとき、男性問題を論じる際、「男性」を代表して語ることはできなくなります。先ほどの話でいえば、社会関係をある程度結ぶことができた男性が、そこに至れなかった人から問われるということは当然起こるでしょう。「男性」を語る際、その中で自分はどの立ち位置にいるのか、立場性を踏まえる必要があると感じています。

清田 なるほど、確かにそうですね。西井さんの本でも、同じ「非モテ」意識を持っていても、そこに至るまでのライフヒストリーはそれぞれ多様で、そこに着目していこうというのが主題のひとつですよね。
 一方で、差異へのこだわりはややもすると「モテなければモテないほど非モテに関して語る資格がある」的な競争を発生させてしまう可能性もあります。そういう論理にはなるべく回収されないように気をつけるという意識を、非モテ研の活動やこの本から感じるのですが、この問題についてはどう思われますか? 

西井 過去に「真の非モテは誰か?」という議論がネットであったそうですが、そうした比べ合いが非モテ研内でも起きる可能性は否定できません。しかし、その議論の先にあるのは、絶え間ない分裂と孤立です。「非モテ」男性がこれまで苦しんできた状況に自らはまり込んでいくことになってしまう。
 非モテ研のメンバー内には確かに差異がある。時にそれは埋められないものである場合もあります。しかし、その一方で、部分的につながれるところも、やはりある。誰かの経験の語りに対して、全てはないけれど共鳴するということが起きるんです。それは「わかるなあ」という実感のこもった相槌や共感の笑いに表れます。非モテ研では、この共鳴を重視している感覚がありますね。
 逆説的ですが、部分的につながることができるという感覚を持っていると、より相手との差異を受け入れやすくなる。そういう瞬間があるかもしれないと、今、話していて思いました。

 

「モテないから苦しい」だけじゃない

清田 話は変わりますが、「モテない→苦しい」という単純な因果論、これを超えるための本なんだということを、宣言されているじゃないですか。この単純な因果論とはどんなものなのか。それはこの本の問題意識の出発点だと思いますが、いかがですか。

西井 はい。「非モテ」研究をするに当たって、まず「非モテ」という言葉がどのように語られてるのかということについて、文献やネット記事を調べたところ、人によってその意味するところが違っていることがわかりました。「非モテ」を「恋人がいない状況」という意味で使っている人もいれば、女性との触れ合いが全然ない人を指す場合もあります。
 先ほど過去に「真の非モテは誰か?」という議論があったと話しましたが、「非モテ」を名乗るなら、身長が低い、おどおどしている、お金がない、清潔感がない、など、いくつか要件を満たしてないと「非モテ」とは言えないというような話もありました。かなり多義的に使われてきた言葉なんです。貧困の問題やルッキズムなどを含め、「非モテ」という言葉に託して様々な問題が発信されているような印象を受けました。
 さらに、非モテ研の活動を継続する中で、モテない悩みや女性にどうアプローチするかという話の他に、学校でいじめられていたり、孤立していた経験、家族の中で親に抑圧的な言葉をかけられた経験、また自身の身体に対する嫌悪感や、加害的なことをしてしまった罪悪感など、「非モテ」を呼び水にして様々な問題が語られることに気付きました。僕自身も他の参加者の語りを聞きながら自分の記憶を掘り返し、焦燥感を抱くまでの間に様々な出来事があったことを思い出しました。
 こうしたことから考えたのが、「非モテ」という苦悩は、ただモテないということだけではなく、もっといろいろなものが複合的に絡み合いながら生じているのではないか、という仮説でした。「非モテ」男性は恋人がいないから、性経験がないから苦しいのだと単純に言ってしまっては、その苦しみに至る過程を見逃す気がしたんです。

清田 自分も帯に〈「キモい」「弱い」「ダサい」暴力的に片づけられがちな問題を豊かな言葉で掘り返す男性研究の書〉というテキストを書かせてもらったのですが、本書からそういったメッセージを強く受け取ったことが大きかったと思います。

西井 ただ、これは誤解しないでほしいのですが、「非モテ」男性の苦悩は様々な要因が相互作用を起こして生じているといっても、だからといって恋人がいないことにまつわる苦しさ自体は、勘違いとか、大した問題ではない、というわけではありません。恋人がいない苦しさは確かにあります。
 現代において恋愛関係を築くためには、いくつかのハードルを超えなければなりません。そもそも他者との関係性が希薄であれば出会いさえないし、出会った後もある程度のコミュニケーションスキルや経済力を要する場合もあります。そこに乗り切れない焦り、ずっと孤独なままではないかという不安などが生じます。ただ、それだけなのかということです。
 男性たちの苦悩は他の問題も巻き込みながら、より強化されていきます。本書の中で記述した、からかいの被害や、集団からの疎外の問題です。背が低い、声が高い、色が白い、運動ができない、女性的な趣味を持っている、など、「非モテ」男性はありとあらゆる理由でからかわれています。集団の中で力が弱く、またその場から疎外されるのではないかという恐怖のために、もしそのからかいを嫌だと思っても言い返したり逃げ出したりすることができない。継続的かつ微細に傷つけられていく。またその場から逃れたとしても待っているのは孤立です。こうした過程の中で男性は自己否定感を高めていくのです。

清田 からかいって本当に対峙するのが難しい問題ですよね……。

西井 ですよね……。男性集団内におけるからかいとはまた別の意味で対峙しにくいのが女性からのからかいです。男性をからかうのは多くの場合男性ですが、女性からからかわれたという経験も少なからず耳にします。
 まさに僕がそうでした。僕の高校は私服登校だったのですが、クラスメイトの女子グループがチラチラ横目で見ながら、僕の服装をコソコソと笑っていた時期がありました。これは本当に辛かった。その方法が陰湿だったからというのもありますが、男性同士のからかいは良くも悪くも「遊び」に回収できますが、普段会話することのない女子たちから向けられるからかいは、そうした正当化がきかずダメージが直接きます。
「女性」という存在に憧れを抱いている場合はなおさらでしょう。また、女子からからかわれたなど、情けなくって誰にも言えないし、文句も言いにくい。深い傷となって残ります。
 ただ、こうした女性から男性へのからかいを考えるにあたって、それは男性差別ではないということは確認しておきたいところです。もちろんからかいをした女性個人に非があるのは言うまでもありません。しかし男性たちは男性であるという理由でからかわれるのではなく、男性同士の序列関係の中で劣位に置かれているがゆえにからかわれています。女性もその序列関係の影響下にあると考えるべきでしょう。
 男性間の序列関係には、ジェンダーとはまた別の軸の差別や偏見の問題が絡んでいます。なんらかの障害を持っているがゆえの抑圧、恋人がいない、結婚していない人に対する偏見、低身長である、太っている、はげているなど身体的な特徴を元にしたレッテル張りなど。そういった十分に社会問題化されていないものも含めて、あらゆる問題経験が非モテ研の語り合いを通じて引き出されたのだと感じています。

清田 「スーツケースワード」という言葉もこの本には出てきますが、いったん「非モテ」という言葉で、いろんな問題や要素を投げ込んでみる。そのスーツケースを開けてみると、いろんな要素が入っていて、それら一個一個を解きほぐしていきながら、「モテない→苦しい」という単純な因果論ではなく、コンプレックスの問題とか、対人関係とか傷つきとか、ありとあらゆる差別の問題とかを見つめていく。それがこの本の軸になりますよね。

 

自己否定の悪循環に陥ってしまう理由

清田 そして、この本の中には、スーツケースの中に詰め込まれた幾つかの問題がぐるぐるしちゃって、どんどん自己否定が止まらなくなるような、その様子についても書かれている。「自己否定の悪循環」という言葉がありますが、これに関して今一度聞かせてください。

西井 非モテ研では、今のこの不遇な状況が、恋人をつくることや結婚をすることで挽回できるのではないかと考える思考を「一発逆転」と呼んでいます。集団の中で傷つけられ、疎外されてきた結果、恋人をつくることができれば、特に自分に優しくしてくれる理想の女性と付き合うことができれば、この苦境から救われるという考えに至るのです。
 ただ、厄介なことに、恋人ができたら一発逆転するというのは、思い込みだけじゃなくて、実際にそういう側面もあるんですね。この一発逆転の話を異性愛の友人にしたところ、彼に「一発逆転は実際に起こる」と言われました。恋人ができたら実際にからかわれることもなくなったし、周りから一人前の男性として見られるようになった。単に思い込みとは切り捨てられない、と言われて、なるほどと思いました。
 私達の意識の中には、恋愛関係を至上のものと見なす価値観、さらには家族秩序や異性愛主義などが微妙な形で入りこんでいます。それらをもとにして、恋愛関係や結婚に至ってない人たちを見下し、逆に、そこに至ったら立派になったと言われ、また言葉では言われなくとも周囲の自分に対する態度やふるまいが変わるということが多分起きてると思うんです。また、もちろん恋人ができることで周りに関係なく幸せを感じるようになったということもあるでしょう。以上のように、今のしんどい状況は恋人ができれば解決できるんじゃないかと考える問題解決の図式は、社会規範の後押しもあってある程度の有効性を持って立ち現れてくる。
 しかし、問題を解決するには恋人をつくるしかないという、解決方法の限定化が起こると厄介です。なぜなら、いざ恋人をつくることだけに全てを託してできなかった場合、やはり自分は駄目な人間だという否定感がより深まり、八方塞がりの状況に追い込まれるからです。苦悩から抜け出すために必死になり、女性への過剰な執着も生まれかねない。
 また、本当に自身の抱えている問題は恋人ができても解決しない場合もあります。恋人ができても、結婚をしても、自分の苦悩や焦りが消えないという人も少なくありません。一体何に自分は思い悩んでいるのか精査すること、そして人生の様々な楽しみ方を模索していくことが重要かと思います。恋愛や結婚ばかりを過剰に意味づける社会の側の変化も必要でしょう。

 

「非モテ」は男性間の問題か?

清田 ここで参加者の方からの質問があるので、回答をお願いします。

 お話を伺っていると、非モテとして語られながら、実は焦点となっているのは、女性ではなく、他の男性たちからどう思われるかのほうではないかと思いました。そこに解決すべき問題の中心があるように思うのですが、どう思われますか。

西井 確かにそういう側面はあると思います。先ほど話した、「一発逆転」したら他の人たちから評価されて、からかいとかもなくなるという力動は、この質問をくださった方がおっしゃっている状況と関わっているでしょう。
 ただ、「非モテ」の苦悩がそれだけで説明できるかというと、そうは言いきれません。というのも、女性と付き合いたいと焦がれている男性の内面を見た時、他の男性に認められたいというよりかは、やはり相手の女性とつながりたいという気持ちが圧倒的に強いからです。その時おそらく他の男性のことを考えてはいない。
 むしろもう他の男性は怖いので見たくないという人もいます。今まで自分をものすごくからかってきた人たちだし、相手にしたくない。それよりかは、本当に自分に優しくしてくれる理想の女性と付き合えたら、それだけで自分はいいんだという感覚が全面に出ます。だから、一概に、男性の目線だけを気にしてるとは言えないと思っています。

他の男性を非難すること

 西井さんには、心なしか、女性や女性の味方をする男性、モテる男性への否定的な感情というか、憎しみみたいなものが薄い感じがしますが、どうしてでしょうか。

西井 うーん……非モテの問題や男性の生きづらさの問題を扱っているのであれば、女性の味方をする男性やモテる男性への憎しみがあるはずなのに、僕にはそれが薄いということですかね?

清田 自分から見ても確かに薄いような感じがします。

西井 まず確認しておきますが、「非モテ」男性がモテる男性に対して普遍的に憎しみを抱いている、ということはありません。「非モテ」男性のステレオタイプ化は避けるべきでしょう。
 とは言いつつも、僕もモテる男性に引け目を感じたり、恨みがましい気持ちになったことがありますし、これからもそうなる可能性はあります。その境界は時期とその時過ごしている状況によるとしか言えません。
 もしも「モテる男性」というのが、ここまで話してきた「非モテ」男性をからかう側の男性を指すのだとしたら、僕の憎しみが薄い理由としては、人のことは言えないというのが大きいと思います。僕は、女性との恋愛関係がなかったり、性的経験がないことでからかわれたこともあれば、逆に他の男性を煽ったりしたことがあるからです。男性のからかい合いのループの中に自分も入り込んでいたんです。
 また、「女性の味方をする男性」ということにかんしては、少し丁寧に考える必要があると思います。一体何をもって「味方をする」ということになるのかということです。例えば、男性が性差別に抗うためにできることとして、女性の権利を向上することに務めること、反性差別活動を陰ながら支援すること、女性が直接的な差別を受けている場面に出くわしたらそれを止めることなどが思い浮かびます。どれも重要なことです。
 ただ、判断が難しいのは、まるで救済者のように女性の言葉を代弁し、男性という層を徹底的に非難する男性です。その主張は、女性のほうが圧倒的にしんどいのだから男は生きづらいなどと言わず、ただただ反省すべきだ、といった内容から、男性は有害な存在であると訴えるものまで様々ですが、多くの場合、その非難は他の男性、特に何らかの加害や差別的なふるまいをした男性に向かいます。
 こうした主張は有用にはたらく場合もありますが、男性個々人の生きづらさをないがしろにしている点、個々の問題ばかりに目を奪われて、現行の社会構造に性差別が織り込まれていること、そして自分もその中に身をおいていることを見逃している点などにおいて問題があるとも思っています。

清田 ジェンダーに対する意識がマウンティングの道具と化してしまう、みたいな問題ですよね……。

西井 そうです。ただ、僕はそういうマウンティングをしたくなる気持ちはよく分かるんです。つまり、自分は他の男性とは違うよ、と。自分はそんな女性差別をするようなことはないし、女性の味方なんだということを示すために、女性差別をするような他の男性をボコボコに叩きたくなる欲望。
 僕はよく「切り離し」と言ってるんですが、フェミニズムに親和的で、政治的に正しい、より秀でているんだというポジションを取るがために、他の男性を非難して距離を置きたくなる時があるし、僕も実際にそうしてしまうことがあります。
 モテて「非モテ」をからかっている男性も、自分を棚上げして他の男性を徹底的に非難している男性も、同じく男性同士の序列関係の渦の中に巻き込まれてます。自分とは違う、と他者化して一方的に否定できないと思ってます。

清田 この件に関しては、自分も他人事じゃないかも……。というのも以前、桃山商事でも「クソ男撲滅委員会」 という名前の連載で、勢いよく男の人を叩いていた過去があります。とはいえ自分たちもこういうとこあるよね、と我が身を振り返りつつやってはいたけれど、今思うとエクスキューズ程度のものだったなと感じます。それで途中から、どうも違うぞっていう感じがどんどん募ってきて。「クソ男」とか偉そうに糾弾してるけど、同じようなことを自分も言っていたという事実が、女の人の話を聞けば聞くほど、ぐっと気持ちに刺さってくる瞬間があって。今は、あのときの連載を読み返すのが怖いです。

西井 いや、でも僕が清田さんを見ていいなと思うのは、そういうポジションの揺れを否定しないところです。変化が常にある。僕は、男性が男性の問題について語るときの時制に関心を持っています。つまり、他の男性を一方的に非難する時、私達は自身の問題を完全に過去のものにしがちです。自分も昔女性に対してハラスメントをしていたかもしれない、とか、これまで性差別的な傾向があったが今はアップデートしたというように、現在と過去を切り離してしまう。でもそんな簡単に切り替わるわけがない。
 その一方で、男性に生まれてきた時点でもう駄目だと、本当に自分はどうしようもなくて、有害な存在だから、と自己否定と自罰の中に留まり続ける場合もあります。こうした男性原罪論は救いがないし、未来のことが全く想定されていません。男性の問題を語る際、たいていこの二つに分かれているような気がします。
 でも、清田さんが違うのは、過去を切り捨てるのでもなく、現在に留まるのでもなく、自分はずっと変わり続けてきているし、これからもずっと変わり続けていくというスタンスをとっている点です。
 勉強や他者との対話、様々な失敗を経て私達は成長します。身につけてきた偏見や性差別的なふるまいを学び落とすことができる。ただ、ジェンダーという軸において特権的な立場にいることに変わりはないし、いつ性差別に加担してしまうかはわからない。私達の変化には明確なゴールはありません。それは一見苦しいもののように見えますが、その苦しみも踏まえ、時にユーモアも交えながら、その道のりを進んでいこうとする清田さんのスタンスが、僕は好きです。■

 

構成/オバタカズユキ
撮影/野本ゆかこ

 
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