集英社新書から2月17日に発売された『子どもが教育を選ぶ時代へ』(野本響子・著)が、日本の教育の問題点や世界で進められている「21世紀型教育」の紹介、そしてこれからの教育・子育てにおいて親はどのようなスタンスで臨めばいいのか…などを提言し、今、注目を集めている。
そこで、千代田区立麴町中学校で学校改革に取り組み、日本の教育の問題点に詳しい、横浜創英中学・高等学校校長の工藤勇一先生をお招きし、マレーシアと日本の教育の違い、先生自身の体験談、そして教育は今何をするべきか…を語り合ってもらった。
与えられてばかりの人間は、文句を言うようになる
野本 拙著『子どもが教育を選ぶ時代へ』の帯推薦コメント、ありがとうございました。今回の本の印象はいかがでしたか。
工藤 日本の教育が抱えている問題点をマレーシアの教育と照らし合わせながらピックアップしていて、共感できるところ、参考になったところがいろいろありました。いくつかのキーワードをあげると、「子どもが選べる」「常に自己決定できる」「やめる習慣が足りていない」などですね。「一つのことをやり通しなさい」という日本の文化は、これから生きていく子どもたちの足かせになっていく可能性があります。
日本の教育は常に与え続けられていく教育形態です。親や先生に面倒を見られていくという形。人はサービスを与え続けられていくと、次第に与えられることに慣れていきます。そして、サービスに不満を言うようになります。しかし、結局は不満を言いながらも与えてもらうことをやめられない。これは日本の教育の最大の問題点であり、教育者も含めてその重要さに気づいていません。
また、教室の中では「みんな違っていいんだよ」と言いながら、実際にやっていることは真逆です。みんな仲良くしなさいと、同質性を求めている。心を一つにとか絆とか団結とか。まとまることが目的になっていく教育の文化風土は、マレーシアの教育と比較をすると明らかに違うと感じました。
野本 先生が麹町中学校で、宿題をなくす、定期テストをやめる、固定担任制ではなく全員担任制にするなどの改革を行おうとしたとき、抵抗はなかったですか。
工藤 大きな抵抗はなかったですね。僕は基本的に敵を作らないという姿勢で仕事をしています。例えばA案をもってくる先生、B案をもってくる先生がいるとします。A案とB案の内容がまったく反対の内容だと、先生の中に考え方の対立が起きているわけですが、日本人はまずこの対立を嫌がります。考え方の対立が感情の対立に直結しやすいからです。感情の対立になると、コントロールするのはむずかしい。日本は心の教育を重要視してますが、その心の教育とは「感情が穏やかであること」と錯覚をしています。
野本 意見と感情が分けられないということですね。
工藤 それは小学校の教室からすでに起こっています。よく「みんな仲良く」と言いますが、仲良くとはどういうことか、言語化された共通認識がないので、「仲良く」の考え方が違っている。仲良くというのは、ぶつかったときにどう合意するかなんです。しかし、日本ではそのように指導するのではなく、感情的な対立を避けようとする。先生は中身よりも、言い方や感情のトラブルを増長させるようなことはやめなさい、という方向に誘導します。
それに、日本の学校では何かを決めるときに多くの場合、多数決を使います。例えば、文化祭でクラスの出し物のアイディアを出し合った場合、ダンスに人気が集まった。劇をやろうという意見もあった。ダンスが多く、劇は少数だった状況で、多数決しましょうとなりますね。しかし、多数決というのはA案でもB案でもどちらでもいいとき以外には取るべきで手段ではありません。
日本は数の論理で、8割だったらみんなが決めたことだという理屈をつける。これは教室の中でマイノリティを切り捨てることを教えているのと同じなんです。A案と決めることによって利益を損なう子どもがいる。それはどういう子どもたちだろう。B案だったら誰がどういう利益を損ねるだろうと考える。どちらも利益を損ねる可能性がある場合に、子どもたちから「好きな子だけ出たらいい」というアイディアが出てくる。これも考えが進んだことにはなるのですが、その案では全員が参加できない。さらに話し合いを続け、全員OKというC案を出すところまで対話をさせることが重要なのです。
しかし、日本は同調圧力が強いので、数の論理で負けていく子どもは、どんどん自己否定されることになる。そのうち自分はどうせ少数派だと、意見を言わなくなるのです。
野本 それは私もすごく感じていて、マレーシアに来られるお子さんの中には、すでにあきらめている子もいます。どうせ先生に言っても聞いてもらえないし、友達とケンカしたときも、自分が悪くなくても怒られる。自分の言い分は聞いてもらえないという理由で、小学校の初期の体験を恨みとして持ち続けていて、大人に心を開いていないお子さんがいる。誰も聞いてあげていなくて、とにかく仲直りしてと言われて、向こうが悪いのに握手させられて。もうあんな学校に2度と戻りたくないと言うお子さんが結構いますね。
うちの息子は別の問題があり、マレーシアに来ました。彼は宿題や計算カードが本当に無理だったんです。計算カードをドブに捨てて帰ってきたこともありました。毎日何度も読む朗読にも意味が見いだせなかったようで、「学校ってすごくつまらないところ」となってしまった。
問題は、はみ出した子どもが日本では行くところがないこと。ところがマレーシアのインターナショナル・スクールでは、1年生が寝転がって授業受けてもいいし、子どもの特性や性格で選ぶことができる。5歳で頭はすごくいいけれど着替えが一人でできないので、体育の時だけ親が着替えさせに来ることもあります。
工藤 日本は「型」を大事にする型の文化。一旦型を覚えて、そこを越えるためには型を破って成長しなさいという指導法です。これを日本独特の良さと捉える人たちが結構います。しかし、教育に関しては何のために繰り返すのか分からない。高度経済成長期、従順な人間は尊ばれましたが、世の中の本来のあるべき姿はもっと混沌としているはずで、もしかすると今の時代が普通なのかもしれない。そこで大事なのは、教育がもっと本質的なことを教えること。ただ真似をしていればいいという時代は終わったと思います。
小1で1か月、中1で1年、高1だとリハビリに3年かかる
工藤 日本の教育基本法を見てみると、第1条に「教育は人格の完成を目指す」云々と書かれており、私はここに問題があると思っています。
例えば、デンマークの教育基本法の第1条は「学校は保護者と協力をして次のような知識やスキルを提供する必要がある」。「次のような」の部分には、「子ども自身がもっと学びたいと思うように」とか「働きたいという願望の枠組みを作成する必要がある」とある。子どもが主体的に学びたい、働きたいと思うようにし、民主主義社会への参画を学ばせなければならないともあります。
つまり、一人で歩いていく力をつけさせ、社会が幸せになるために学校があるという考えだから、学校では民主主義とはどういうものかを教えていく。つまり、多様なものを受け入れながら、その中で起きた対立を克服し、誰一人置き去りにしない方法を模索し、持続可能な社会を作ることを教えていくのです。
一方、日本の教育は、ある一部の子どもに良いものを全員に押し付けるので、当然そこから あぶれる子どもが出てきます。
野本 まさにそう。一部の子には合う教育なんですよね。
工藤 麹町中学校は教育熱心な保護者の下で挫折を経験した子どもたちが入学してきます。親に批判され、先生に批判され、やたら勉強時間が長く、そこから落ちこぼれていった子どもたちです。
僕は麹町中学校で6年間校長をしていたのですが、着任した1年目、入学してきた1年生は百何十人かですが、第一志望で入ってきたのはたったの20人。残りの100人以上は受験に失敗したり、不登校だったり、勉強嫌いな子どもたちでした。毎年転校生が30人から40人いて、海外から戻ってくる子、他の学校で適応できなくなった子、私立の中退組も入ってきます。彼らの中には親も嫌いだし、先生に対しても反抗的な子もいます。1年生の4月、5月なんて見方によってはちょっとした荒れた学校です。
麹町中ではそんな生徒の元気と主体性を取り戻すためのリハビリを行なっていくのですが、その作業がほぼ終わるのに、約1年かかります。まずはそのための環境を整えていくことです。具体的には「勉強しなさい」と言う仕組みをゼロにするところから始めます。宿題をなくす、テストをなくすなど。そして次に、主体性を失って依存心だらけで批判的に育っているから、大人を信頼しないという特性も何とかしなければならない。
そこで考えたのが3つのセリフです。必ず子どもたちに対して「どうしたの、困ったことある?」それが1つ。2つ目が「そうか。それで君はどうしたいの?」と対話する。たとえば授業中に教室から飛び出してきた生徒に、「なんか困ったことがあったの」と声をかけると、「あの先生大嫌いだ。授業なんて受けていられない」と言うので、「そうか、で、キミはどうしたいの?」と聞く。小学校時代に「どうしたいの?」なんて聞かれたことないし、どうせ先生は叱るものと思っているから、「どうしたいの?」と聞かれても答えが出てこない。
そこで3つ目に「なんか僕に手伝うことある?」と聞く。それでも返事がなかったら、「また教室に戻って1時間を過ごすか、別室へ行くことも選べるけど、どうする?」と言うと、「じゃあ別室に行かせてください」と。小さな自己決定ですが、これが重要です。これを何回も繰り返していくうちに、子どもは主体性を取り戻していくのです。
この3つのセリフで、「この学校は失敗を許してくれる環境」だということを知っていく。教員は敵じゃないと分かって、学校は居場所だと安心する。失敗しても「どうする?」「どうしたい?」と繰り返されるので、自己決定をすることが自分に求められていると分かってくる。これを繰り返していると1年でほぼ全員が変わっていきます。
野本 それ、マレーシアに来ている子どもに起きていることとまったく同じですね。小学校の時に欲しくないものを与えられ続けて不満で、大人をまったく信じられない子どもたちが来るんですが、1年経つと同じように変わるんです。どうしたいのか聞かれたこともないし、自己決定したこともなかった子どもたちが、「あ、ここでは自分の意見を言ってもいいんだ」「先生は聞いてくれるんだ」「言ったら手伝ってくれるんだ」とだんだん信頼してくる。こういうことを、日本で小学校のときに何とかした方がいいんじゃないかと思います。
工藤 そうそう。大阪に大阪市立大空小学校という公立の小学校があるんです。『みんなの学校』というドキュメンタリー映画になっているんですが、ここは今僕が言った教育をしています。この学校でも麹町中学校と同じで、固定担任制をやめ、チームで子どもたちを見ていく。子どもは相談したい人を自分で選んで、保護者は一緒に当事者となってサポートしていく。木村泰子校長に「小1はどうなんですか」と聞いたら、麹町と同じように最初はリハビリをするんだそうです。
野本 小1でリハビリですか。
工藤 幼児教育でさんざん「姿勢正して」「お手手はお膝のうえに」とやられ、それができない子どもは排除される。傷つくわけです。リハビリをするのに1か月かかるそうです。麹町中学校では1年かかりました。中学校に適応できなくて不登校になったお子さんたちが通う学校として有名な明蓬館高校の日野公三理事長にお聞きしたところ、この高校では、リハビリに3年かかるそうです。
野本 高校生活が終わっちゃうじゃないですか。
工藤 はい。でも3年かかって主体性を取り戻す。一生ものですから、それでもいいわけです。「麹町で、そんな自由な環境で教育を受けた子どもたちは、高校いったら挫折するでしょ?」と質問されるんですが、これが挫折しないんですよ。麹町の子どもたちは現実を受け入れ、頭の中で優先順位を決めて自己決定する訓練をしているからです。
自己決定なしに自己肯定感が高まるわけがない
野本 何事も自分で選ぶことができると文句を言わなくなりますよね。ここは自分で理解して選んだからしょうがないか、となっていく。
子どもも親がやれと言うからやっているけれど、本当はやりたくない。うちの息子も学校はいやだと3年間行っていなかったのですが、今は国際バカロレアに戻って、多くの宿題をやっています。これは自分で選んだことだからやりたいんだ、と言ってやるわけです。自己決定しているから文句を言わない。
7歳でも15歳でも人間ですから、それを無視したらいけないし、自己決定できると人格的にも成熟してきて、他人の決定も認められるようになってきます。
工藤 日本は自己肯定感という言葉が大好きで、褒めれば自己肯定感が上がると思っているんですが、子どもは褒められたくないことを褒められても自己肯定感は上がらない。むしろ、バカにしているのかという気持ちになります。
かけっこで1位になったから褒めると、小さい頃は喜びます。しかし、大きくなって負けを知ったときに、勝った結果ばかりを褒められてきた子どもは挫折しやすいですね。うまくいかなくなると自分には能力がないと思ってしまう。でも、1位になった結果ではなく、「楽しんでいたね」「工夫してやっていたね」と、プロセスを褒められて育った子は、うまくいかなくても、今度はこんな工夫はどうかな、とチャレンジしていくんですね。
日本は親も先生も、褒めまくって言葉のシャワーを浴びせれば自己肯定感が高まると勘違いしています。一番大事なのは、自己決定してその結果を自分で褒めるようになること。こういう子の自己肯定感が高い。自己決定なしに自己肯定感なんか高まるわけがないのです。
野本 自己決定と、それによって引き起こされた結果を引き受けることが大事ですよね。そういう大人がたくさんいると、世の中ってまんざらじゃないな、と子どもも思えるようになる。先生が人生を楽しそうに生きていると、子どもは「自分もここに居ていいんだ」という気持ちになると思うんですが、日本は先生が忙しすぎるんですよね。
工藤 麹町中学校の保護者説明会で、「子どもたちが学校に来て、世の中って大変そうだ、世の中に出たくない、大人がカッコ悪い、大人になりたくないと思うようだったら、その学校の教育は間違っています。学校に来たら、世の中って大変そうだけど面白そうなことがいっぱい転がっていそうだなとか、素敵な大人がたくさんいるなとか、早く大人になりたいなと思う子どもを育てることが学校教育の役割でしょう。麹町はその方向に向かって改革をしているんです」と言ったんですが、そういう原点を日本の学校は本当に失ったと思います。
野本 マレーシアでは学校行事に来る親は、「私たちが楽しまなければ」と子どもより楽しそうにしています。子どもがお店屋さんをやると、大人が大勢並んでる。そういう姿を見ていると、大人は楽しそうと子どもに伝わりますから。一方、日本人が集まると、子どものために頑張らなきゃとか、子どもの尻を叩くことに必死です。それだと子どもはシンドイですよね。
先ほど、園児は1か月でリハビリできる、中学生は1年、高校生だと3年という話がありましたが、今回の本で大事なテーマの一つが「大人は子どもの邪魔をするな」ということです。大人のリハビリは相当時間がかかる気がするのですが、先生たちの考え方が変わるという点はどうなんでしょう。
子どもだけではない。先生も親もどんどん変わる!
工藤 人それぞれですが、意外と変わりやすいのは年配の先生ですね。ガチガチの固定化した古い教育を大上段にかざしてやってきた先生の方が、実は本質が分かれば変われます。なぜかというと、矛盾を抱えてやってきたからです。これでいいのだろうかと悩みながら、でもこうすることが子どものためだ、と信じてやってきているわけです。
さっきのA案を持ってきた先生とB案を持ってきた先生の例でいうと、どっちも良かれと思って案を作っています。一番上の目標は、いい学校を作りたいし、子どものためにいい教育をしたいと思っている。目指す教育が「自律をさせること」だとすれば、進学実績を上げることだけが目標になってはいけない。自律を削いでしまいますから。このように上位の目標という考え方を、一人一人の先生に理解してもらわないといけない。対立が起きても、感情の対立に直結させずに、上位の目的を実現するためには何が必要かということを考えてもらう必要がある。
学校を変えるためには3つのポイントが必要です。先生たちが当事者になること。ただし、当事者になるだけだったら権限を与えるだけでいい。決定権があれば当事者になれますから。
野本 子どもと同じですね。自己決定が先生にも必要。
工藤 しかし、権限だけ与えると組織は崩壊します。「みんな自由にやれ、オレが責任取るから」という言い方をする校長だと、これはダメになるんですね。権限だけ与えると、今までの成功体験を押し付けるようになるのです。
大事なのは、権限は与えるけれど、最上位の目標を一度合意させること。最上位は自律、そして多様性を受け入れること。そして実際に対立が起きたら、この目標の実現に沿っているかどうかを検証すればいい。「権限を与える」「当事者にする」「最上位の目標に合意する」「それを実現するための手段を考える」。麹町はそれをやっただけなんです。
自分がやっただけ成績も評価も上がるサイクルを覚えていくと、子どもたちは勉強しろと言われなくてもチャレンジするようになっていきます。勉強はわからないもの、できないものを、わかるようにしたり、できるようにしたりするのが大事です。そのなかで、自分の力で解決できないことが多いとわかると、人に聞かなければならない、自分からアクションを起こさなければならないと、体験を通して学んでいく。体験を通して学んだ力は人生で何度でも繰り返せますし、そのことでますます強くなっていきます。
たとえば、子どもたち主催の体育祭にしようと、子どもたちに「体育祭をあげる」と言ったことがあります。しかし、与えられてばかりの子どもたちだから、最初は全くアイディアが出てこない。そこで「面白い体育祭をやっているところがあるよ」といって、開成中学や都立小山台高校の様子をネットで見せ、少しずつイメージをもたせていくと、子どもたちは次の年にはレベルアップして少しずつアイディアが出てくる。その積み重ねをちゃんと後輩に引き継いでいくんです。
あるいは、体育委員とか図書委員は学級で1名とか男女1名ずつとか決められて、イヤイヤやっている人もいる。すると、今のうちの学校なら、委員をやりたいというボランティアの人だけで事足りるんじゃないですか、と言う子どもがでてきた。そこで、生徒総会にかけてみればと言ったら、本当にかけてボランティアにした。すると、図書委員会では本をいろんな場所に自由に置こうというアイディアが出て、図書室がどんどん進化していくわけです。つまり、組織というのは自分たちのものだから、自分たちがどうしたいか考えればいいんだ、ということを学んでいったわけですね。
麹町は先生と子どもたちが参加できる会議があります。その会議で彼らが提案してきて興味深かったのが避難訓練でした。これは毎月1回やるのですが、いつ地震が来るか分からないのに先生の後ろについて避難するのはおかしい。生徒たちだけで避難するべきだという案が出た。それがどうなったかというと、専門的知識も自分たちで調べてきてみんなに伝え、訓練後の講評も全部生徒がやっているんです。
野本 そうなると、大人たちが学ぶ感じになりますね。先生も楽になるのでは?
工藤 楽になりますね。
野本 こう考えると、自律が学ばせるものはすごいし、自律をさせることによってまわりが得るものって大きいですよね。自分で選んでと言うと、真面目に考えるので自ら勉強をするようになりますし。
工藤 PTAも組織改革から何からすごく大変でした。
野本 親も変わったということですか。
工藤 めちゃくちゃ変わりました。ぼくが最初に仕掛けたのは、校則の当事者は生徒と保護者だから、校則を保護者にあげますというものでした。その際、「多数決で決めないで」と「誰一人置き去りにしないように」ということも言いました。全家庭にとって経済的であり、全子どもたちに対して機能的であることをお願いしたのです。
校則を全部あげると言ったら、制服も変えることができるため、保護者の方で研究が始まりました。「制服をナシにして私服にするのがいいのでは?」という意見が多かったので、本当に私服がいいか、夏と冬に実験をしたのです。結果、夏の私服は大成功でしたが、冬は大失敗だった。冬は重ね着をするのでお金がかかる、友達からダサイと言われて傷ついた、などのクレームが出てきた。実験して分かったことは、経済的なことを考えると、選べる制服があった方がいいということで、私服じゃない標準服みたいなものを作ろうとなりました。
その一連の流れで、民主的に決めるとは、こういう作業のことだと理解してもらいたかったんですね。保護者の方にも対話をして、ぶつかっても感情的にならずに、上位の目的で合意して進める方法が浸透していきました。
野本 自律と多様性をキーワードにして、保護者も先生も一緒に教育していくわけですね。やっぱり自律がないと文句がすごく増えると思います。マレーシアに来て2、3年の親は、与えられることに慣れすぎていて、文句ばかり言っています。学校がこれをやってくれないのはおかしいとか。
工藤 10年後の日本がマレーシアのように、自己決定ができる教育システムになっていて欲しいですね。学校が増えると選択肢が増えるので、とてもいいことだと思いますし、オランダのように私立、公立どちらを選んでも教育費がそんなに変わらないように国が私立に支援をして、選べるようにすることはすごく大事。過渡期の間はそういう措置が必要でしょう。
野本 先生は、いま日本はそう雰囲気になっていると感じますか?
工藤 日本では、教育の問題点としてメディアで取り上げられるのはイジメとか不登校。そこに焦点がいくので、問題が心の教育にいってしまいます。イジメの問題は、トラブルが起きると大人が介入して解決に当たり、あなたが謝りなさいと裁定する。すると子どもたちは、大人が介入して解決してくれるものだと体験で覚えていく。いつの間にか子どもの問題が大人の問題にすり替わり、親も学校の介入によって、裁判みたいなことを求めるようになる。
野本 どっちが悪いか決めてくれみたいに。
工藤 先日、うちの学校で3対1のケンカがあったのですが、その4人が放課後、校長室に入ってきて、それぞれ言い分をまくしたてたんです。そこで僕が間に入って、ひとつだけ質問させてくれと言いました。「いま中1だけど、これから5年以上、この学校でケンカ状態を続けたいの?」と。そうしたら4人ともいやだと言う。その点において全員が合意したんです。
この状態を続けたくないことは一致している。それではどうすればいいかは自分たちで考えなさい。解決できなかったら明日またおいでと言ったら、次の日は解決していましたよ。
野本 面白い。先に目的を決めるんですね。
工藤 このなかで1人でも、この経験を記憶して育っていけば、次に問題が起きたときに、先生が入らなくても調整のできる子が育っていく。社会を持続させていこうという考え方ができるようになる。国と国のいさかいも同じです。お互いの国が持続可能になりたいかの合意を、国のトップも国民も一度はする必要があって、それができる国になるかならないかが重要ですよね。
野本 妥協するということですね。
工藤 デンマークのジャーナリストが、デンマークでは「最高の妥協点を探せ」という言葉があると言っていました。
野本 マレーシアでは、クラスにいろいろな民族がいて、なんとかそこの合意を作っていかなければいけないんです。そうしないとみんなが損するから。最高の妥協点、それはすごくいいと思います。
最後に先生にお聞きしたいのですが、今の学校のシステムに合わない子どもが行く、大空小学校のような学校は他にあるのでしょうか。
工藤 私立でいうと軽井沢風越学園が興味深いですね。まさに今僕が言ったようなことを理想として立ち上げた学校で、幼小中まであります。日本中でいろいろな学校づくりが行われていますが、多様性を受け入れ、対話をして合意をしてくという民主的な意味合いが分かっているところは、まだ本当に少ないと思います。
野本 学校が嫌だというお子さんの行き場所をよく聞かれて、マレーシアへ行かないとダメですかと聞かれるのですが、日本の中にそういうお子さんの行き場所はありますか。
工藤 麹町で実現できて、いま横浜創英でもやっている。先例をモデルとして学校を変えていくことはできるから、これから増えていくと思います。全員担任制などはもうあちこちでやっていますし。
野本 今日は本当にありがとうございました。
構成/杉本進
プロフィール
野本響子(のもと きょうこ)
早稲田大学卒業後、保険会社を経てアスキーで編集に携わる。フリー編集者を経験後にマレーシアに滞在し、現在はnoteなどで同国の生活や教育情報を発信。著書に『日本人は「やめる練習」がたりてない』(集英社新書)『いいね!フェイスブック』(朝日新書)『マレーシアにきて8年で子どもはどう変わったか』(サウスイーストプレス)
工藤勇一(くどう ゆういち)
1960年、山形県生まれ。2014年に千代田区立麹町中学校の校長に就任し、子どもの自律を促す教育改革に取り組んだことが話題に。現在は、横浜創英中学・高等学校校長を務める。主な著書に、『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』(時事通信出版局)『学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書・鴻上尚史氏との共著)など。