佐賀に生まれ育ち、小さな世界の中で生きてきた高校生が、ベルギーでは「日本人」として見られる。別の世界に触れることで、少し自分が大きくなった気がしたという。
「勉強から逃げて、兄姉と比較されることから逃げて、平凡な人生から逃げたくて……逃げてばかりの17年でしたが、ようやく本気で絵描きになろうと思えたのがこのときでした」
高校を卒業したミヤザキは、筑波大学芸術専門学群へと入学する。当時、国公立で美術を専門に学べるのが東京芸術大学か筑波しかなく、4人兄弟という家庭の事情もあり、現役で入るには筑波しか選択肢がなかったという。
ところが、前身が教育大学である筑波大学は、芸術専門の学部とはいえ教師志望の学生が多く、ミヤザキのような画家志望は異色だった。
「最初は自分のリサーチ不足に絶望の淵にいましたが、友人に恵まれて、アートプロジェクトを企画してみなに手伝ってもらったり、バンドを組んでイベントをしたり。あとはくだらないですけど、節分に鬼役を決めて、一日鬼の恰好で授業を受けさせるとか。学生のノリでいろいろやって、楽しかったですね。学生時代は、絵を描くのと同じくらい企画することに力を入れていました。考えてみると今に通じているかもしれません」
今にして思えば、一般の美大に入っていたら、数多いる画家志望の学生たちと自分を比較して、絵を諦めていたかもしれないという。
その後、大学院進学を経て、2004年に渡英。この渡英中の2006年にケニアに飛び、スラム街の小学校に壁画を描いたことは、前回書いた通りだ。
そして同年、28歳で帰国し、ロンドンでの成果を個展というかたちで発表する。
「絵が絶対に売れる、と思っていました。バン!と売れて、その金でもう一度別の国に行こうと。蓋を開けたら、一枚も売れなくて(笑)。なけなしの金で個展を開いていますからショックですよ。『住所不定無職無金』状態。
ところが進退窮まったところで、個展を見に来てくれた方から電話がかかってくるんです。NHKのアート部門で働いている方で『新番組のスタジオセットに絵を描きませんか』と。信じられないくらいうれしかった。『熱中時間』という教育バラエティ番組のセットで、2メートル四方の絵を20枚。5日間で仕上げねばならなかったので、ひとりで寝ずに描きました。それでも時間が足りなくて満足に描き込むことができなかったのですが、頑張りを見ていてくれたプロデューサーが、『番組の時間内に、壁面の隙間に、毎週くるゲストを描いたらどうか』と提案してくれて。1回きりの仕事だったのが、毎週仕事をもらえることになり、3年間続きました」
NHKでの仕事はやりがいがあったし、絵で食べられることの喜びもあった。しかし番組終了後、引き続きテレビの美術の仕事をしないか、という誘いを、ミヤザキは辞退する。
「舞台美術の仕事が本当にやりたいことなのか、自問した結果でした。2006年のケニアでの経験で、世界中に出かけていって壁画を残したり、アートを使ってムーブメントを起こしたい、という本当にやりたいことが、自分の中に生まれていたので」
そして、生徒が増え新しい校舎ができたから、また絵を描きにきてほしいというマゴソスクールの依頼で、2010年、ケニアへ再び赴くこととなる。
「気づけばいつも、ぼくの始まりはケニアです。その翌年、東日本大震災が起こって3年ほど東北を拠点に活動しますが、2015年にはまたケニアに戻るんです。最初に描いた壁画もボロボロだけど残っていて、それを描いたときの思いや熱を、再確認するために戻るんじゃないか、と思います」
2010年から、ミヤザキの活動は第2ステージへ突入する。
取材・文/角南範子 写真/Over the Wall
(次回の配信は4月12日の予定です)
世界の人々を巻き込みアートを生み出す画家 ミヤザキケンスケが注目を集める理由 第1回
プロフィール
1978年佐賀市生まれ。筑波大学修士課程芸術研究科を修了後、ロンドンへ渡りアート制作を開始。「Supper Happy」をテーマに、見た瞬間に幸せになれる作品制作を行っている。2006年から始めたケニア壁画プロジェクトでは、100万人が住むといわれるキベラスラムの学校に壁画を描き、現地の人々と共同で作品を制作するスタイルが注目される。現在世界中で壁画を残す活動「 Over the Wall 」を主催し、2016年は東ティモールの国立病院、2017年はUNHCR協力のもと、ウクライナのマリウポリ市に国内難民のための壁画を制作した。2018年はエクアドルの女性刑務所で制作予定。