防災によってコミュニティを再生する
300年くらい前にも、日本では災害が荒ぶっていました。浅間山や富士山が噴火し、大地震や津波があった。その頃の日本には、アメリカ型に近い主体性や、キューバ型に近い連携の精神があったと思います。なぜなら当時は、お上が何かしてくれるわけではなく、地域で何とかするしかなかったからです。
それが今でも残っていると思える事例もあります。2017年の九州北部豪雨では、これだけの被災現場でなぜ犠牲者が出なかったのか、と思う場所があった。今回の西日本豪雨でも、大分県の日田などでは、被害は甚大なのに犠牲者が出なかった地域がありました。
共通しているのは、「地域みんなで逃げる」というコミュニティの力があること。そこでは、地域の若者が高齢者を助けにいっているのです。「みんなで逃げる」という共通理解があるからこそ、「みんな」に入れない高齢者のことが気になるわけですよ。しかも、その高齢者は子供の頃に世話になったおじいさん、おばあさんだったりする。そう考えると、防災の基本はコミュニティのありようというか、地域の問題ではないか。それは前から言ってきましたし、『人が死なない防災』でも強調したことですが、あらためて実感しています。
一方で、日本全体を俯瞰すると、都市化によって人間関係が希薄化しているという状況がある。したがって、発想の転換が必要です。
コミュニティが崩壊するのは、コミュニティを維持する必然がないからです。昔は必然があったからコミュニティがあった。江戸の火消しはお上の仕事でなく住民の仕事だった。でも、火消しが公(行政)の仕事になったことでコミュニティを維持する必要がなくなった。だけど今、行政だけではどうにもならない自然の荒ぶりを、私たちは感じはじめている。やはり住民の力も必要だということに、何となく気づきはじめている。
だから、コミュニティが崩壊するから防災ができないのではなくて、「防災によってコミュニティを再生するんだ」という意識を持つべきじゃないか。