「身体」がキーワード
荒木 少し、私の方からも磯野さんに質問をさせていただきたいと思います。私が磯野さんの著書『他者と生きる』(集英社新書)を読んでいて思ったのが、キーワードは「身体」だということです。
磯野さんの文章の中の「身体」はかなり両義的なものですよね。第一に、「この私」というかけがえのないものの基礎として身体がある。言い換えると、例えば予防医学の分野で「こういうリスクがありますよ」と言ったとしても、それで自動的に納得できるわけではない。腑に落ちるような理解に至るにはそれ相応のレトリックを用いなければいけない。
画一的なルールから外れてしまう「この私」性とともに、第二に、身体にはやはり共通のコードという側面があります。つまり男性ならば男性の、女性なら女性の生理があり、人種的なさまざまな体の反応の違いもあるかもしれない。医学はこれにいやおうなく直面してしまう。
それを私の言葉遣いで言うなら、身体というのは一方では個の次元に属しながらも、他方ではどうしようもなく種の次元を召喚してしまう矛盾に満ちた対象ということになります。こういう風に考えてみた時に、あらためて磯野さんが「身体」という言葉を使うさいに考えていることがあれば教えて欲しいのですが。
磯野 なるほど。確かに医学の分野だとエビデンスとシングルケースの矛盾として語られる話は、この本の田辺元の話と結び付いてくる部分かなとは思いますね。
なぜ私は身体に対してすごく関心があるのか? 実は私は元々、運動生理学をやっていたので、いわゆる種とか類という形で身体を捉えるところから学問の世界に入っているんです。でもそれを使って、アスリートにいいパフォーマンスを出させようとすると、どうしようもない個が現れてくるんですね。そうすると、科学的に完璧なトレーニングを積んだとしても—そういうトレーニングがあるとすればですが、その1回のゲームで勝てるかどうかは分からないということになる。
そこで荒木さんのサークルの話につなげるならば、当事者が個別具体的な自分の体験を語ろうとした時に、田辺の言葉を借りるなら種の次元に、突然話が一般化されてしまうことがあるんです。当事者性の競争が始まるわけですね。
そうすると、「貧困で、DVを受けていて、アフリカ系の人間が(弱者として)一番強い」みたいな状況が起こってしまう。これって今、ネット上だと色々なところで起こってる問題ですよね。
荒木 確かに。
磯野 そうした議論への違和感を、私には絶対できないアプローチで解きほぐしていっているので、荒木さんはすごいと思いました。
先ほども出た東大のサークルにおけるクオータ制みたいな話になってしまいがちですけども、本当は逆だと思うんです。種(アイデンティティ)というのは個の集合として後から出てくるものなのに、それがひっくり返って種が先にあることになっている感じですよね。
荒木 それって、非常に面白い話ですよね。アイデンティティや属性の政治、いま話題にでたところでいうと最強弱者属性合戦みたいなものに対して、私は、複雑な個が重要なんだというふうに言っている。私の理解では、個というものはこれこれこういうものであるという形でそれ単体で成立しているのではなく、むしろコミュニケーションにおけるミス、あるいは他人との解釈の違いがどうしても生じてしまう、そのことに個の次元が現れてくるんだと思います。
つまり、最強の属性の組み合わせを発見したと思っても、そうは問屋が卸さず、他人と話していると組み合わせはおろか、属性の解釈自体もちぐはぐになってしまう。自分が正しいのか他人が間違っているのかはさておき、一致しない現実がどうしたって残る。
つまり種と個が先在的に対峙しているというよりも、種のコードに従おうとすればするほどそこからこぼれ落ちてしまうものがある。それを私は、あらためて個というふうに呼びたいと思っているのです。
磯野 最近の世の中の流れだと、いわゆる種からこぼれ落ちてしまったものをすくい上げるために、新しい種をつくり出して、そこに包摂していこうという形になって、どんどんカテゴリーが細分化されていく状況が起こっているじゃないですか。それについては、荒木さんはどう思われますか?
荒木 まずは、お好きになさればよい、というしかない。というのも、仮に「辞めたほうがいいですよ」と指摘をしても「俺たちは抑圧されてるんだ!」って反論されて終わりですからね。当然。
ただ、そのような仕方で複数のカテゴリーを開拓していっても、結局カテゴリー間の相克は消えず、むしろ過酷になっていくでしょうから、カテゴリー同士をどう調停するのかというかなり古典的なリベラリズムの課題に還ってくると思いますよ。そしてそれでよいと私は思います。
「未開の部族」の世界
磯野 私は人類学者なので、いわゆる「未開の人たち」みたいにまとめられる人たちの資料を読み込むわけですが、誤解を恐れず言えば、かれらは「分かりやすく差別的」なところがあります。例えば、自分たちの部族以外の人は人間じゃないみたいなことを言ったり、「我らこそが人間だ」みたいな振る舞いを平気でしたりする。
そういう人たちって、荒木さんが否定的に捉えている、同心円的なサークルの住人だという気がします。そんなに「個」というものが出てこないんですね。元々「個人」っていう考え自体もないから、「私らしさ」云々という話も出てこないわけですよ。
そうした部族の生活は、いわゆる多様性とか抑圧はよくないって言っている人たちから見ると、とんでもない社会でしょう。やることは決まっているし、職業選択の自由なんてゼロ。にもかかわらず、そこでそれなりに楽しそうに暮らしてる人たちが存在する。荒木さんは、こうした部族についてどう思われますか?
荒木 私は微妙に近代主義者なので(笑)。ですから、未開の部族による女性性器切除などには、反対ですし、発展途上国における性的虐待の問題も気になるところではありますが……。
磯野 女性性器切除の問題は、完全に切除するのは本当に一部の地域で、ちょっとだけ傷を付けて終わるとか多様性が結構あるのは人類学者の間では知られています。まぁ、確かに、これを「性的虐待」とまとめる方達の視点も理解できるところはありますが。
プロフィール
荒木優太(あらき ゆうた)
1987年東京生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了。2015年、第59回群像新人評論賞優秀作を受賞。主な著書に、『これからのエリック・ホッファーのために』『無責任の新体系』『有島武郎』『転んでもいい主義のあゆみ』など。編著には「紀伊國屋じんぶん大賞2020 読者と選ぶ人文書ベスト30」三位の『在野研究ビギナーズ』がある。最新刊は『サークル有害論』(集英社新書)。
磯野真穂(いその まほ)
人類学者。専門は文化人類学、医療人類学。2010年早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。著書に『なぜふつうに食べられないのか』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書)、『ダイエット幻想』(ちくまプリマ―新書)、『他者と生きる』(集英社新書)、共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。