「わかった!」と感じるほうが危険
第二章「世界を数える」ではスコットランドの作家、アリ・スミスの『両方になる』やマルクス・ガブリエルの思想などを引きつつ「世界」について論じ、第三章「神を超えるもの」では筒井康隆の『モナドの領域』、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』などのSF作品を俎上に上げています。さらには第四章「全体論と有限」では山下澄人の小説『月の客』を念頭に置きつつ、建築家の磯崎新、映画作家のゴダール、哲学者のホワイトヘッドらを召喚する。即興的な連想が働いていると感じて、実にダイナミックでした。
ただ、正直言って、すべてが理解できたとは思えないんです。不思議なのは、わからないこともあるけれど面白い。そう感じている自分がいるということです。音楽とか絵、写真を見ているのに近いという感覚でした。
そのとおりだと思います。そもそも「わかる」とは、どういう状態のことなのか。僕自身も、書いた本人だけれども「わかっているのか」と問われると、「わかっているのかな?」って思う部分もありますよ(笑)。でも考えてはいる。
だから、いまおっしゃっていただいた、わかっているかどうかはわからないけど面白かったというのは、僕がしばしば他人の本を読むときにも思うことなんですよね。
わかるけど面白くない本だってあるし、わからなくても面白い本もある。じゃあ面白いほうがよくないか? ということです。
わかった! みたいな瞬間っていうのは、実はとても危険なことで、かつ、間違っている。むしろ「わかった」と思った瞬間からわからない方向に進んでいかないと。
それは僕自身がそういうふうに思って書いている。だから実際、僕の本の感想として「結局何が言いたいんだ?」って言うひともいるんです(笑)。自分としては言われる理由はわかるが、心外でもあって「いや、読んでいるあなたの中で何か起きているでしょう」と思っています。
情報過多な現代では、私たちの中に整理された情報を求めたり、性急に結論を求める傾向がありますが、佐々木さんの批評はそういう時流に対する抵抗にも思えます。
主張や結論が重要ならそれだけ書けばいい。重要なのはそのとき何かが起きているということです。本を読むとか、ものを考えるってことは、ある運動性の中で何かが胚胎していくことです。それが思いがけないかたちでつながっていくこともあれば、そのままどっかに消えてしまうこともあるけど。
「ものを考える触媒として本がある」ということですね。そうした観点から考えると、『それを小説と呼ぶ』は評論でありながらも、出てくる本がどれもすごく面白そうで読みたくなります。
ありがたいですね。僕はこれまで膨大な量の書評やレビューを書いてきました。そのときはまさに僕の評を読んだ人がそれを読みたくなる見たくなるっていうのが最大のポイントなんです。それが果たせなかったら意味がないと思っていました。
作品と遭遇したときに、その作品が自分に対して何かしらの働きかけをする。その働きかけについて書いていくことが僕にとっては批評です。
例えばいま、挙げていただいたアリ・スミスの『両方になる』は「俺が言いたかったことはこの小説の中に全部入ってる」と興奮しながら読んだんですね。
そこから連想したものを挙げていくと、「これもつながった」「あれもつながった」。僕が論をつなげるというよりも勝手につながるんです。いや、そもそも最初からつながっているんですよ。
アクロバティックな論理展開に思える部分もあるのかもしれないですが、実はアクロバットをしているのは僕ではなく小説のほう。小説やその他のジャンルのさまざまなものが勝手にアクロバットしているのを、たまたま僕が発見して記述している。見つけたものを実況しているような気持ちになることのほうが多いんです。
「準備」し「到来」した小説
最終章となる第五章は「小説の準備」。フランスの哲学者、ロラン・バルト晩年の著作『小説の準備』が中心的な題材となっています。バルトは「小説の準備」と題した講座を大学に持ちながら、自身ではついに小説を書くことはありませんでした。
それに対し、佐々木さんは2作の小説論の連載終了後、小説「半睡」を発表しています。いまとなっては最終章を佐々木さんの小説家デビューと重ねて読んでしまいますが、お書きになっていたときはどうだったのでしょうか。
実は『これは小説ではない』の連載が終わって、少ししてから同じ「新潮」に小説が載るというのは事前に計画していました。小説を書いていることは表沙汰にしていませんでしたが。「新潮」と「群像」に同時連載したのは、きたるべき小説に向けての助走だという気持ちは、最初から頭の片隅にあったような気がします。しかし、小説を書くために評論を書いていたのかと解釈されると、それは違うと言っておきたい。
自分としては、批評家であること、批評を書くことに対して強い信念を持ってきたつもりです。そもそも小説を書こうなんて思ってもいなかったし、書きたいと思っていたかどうかも怪しいです。それがあるときから書くかもしれないと思うようになった。
『それを小説と呼ぶ』の最終章でバルトのことを書いたのも、途中から最終章はこれだとわかっていたんです。バルトを出したらこの連載は終わる、と。
バルトが小説の準備をしながら、小説を書かなかったという事実があって、そのことを扱おうというのは最初から決めていた。それを書くことが、自分にとって小説を書くことを「あり」にする。『それを小説と呼ぶ』のあとがきで「『小説』の到来」と表現しましたが、バルトを取り上げることが小説を書くための仕掛けになるだろうという予感はありました。
ただ、正直に言うと、『それを小説と呼ぶ』の最終章を書いたときには、すでに「半睡」を脱稿していたんです。つまり「小説の到来」について論じていたときに、小説はもう到来していた。それを踏まえてもう一度読んでもらうと、『それを小説と呼ぶ』と「半睡」の読み方も変わるかもしれません。
取材/構成:タカザワケンジ
撮影/写真提供:内藤サトル
プロフィール
思考家。音楽レーベルHEADZ主宰。1964年、愛知県生まれ。広範な範囲で批評活動を行う。2020年、「批評家卒業」を宣言。同年3月、初の小説「半睡」を発表した。著書に『ニッポンの思想』(講談社現代新書)、『これは小説ではない』(新潮社)、『批評王――終わりなき思考のレッスン』(工作舎)、『絶体絶命文芸時評』(書肆侃侃房)など多数。