日々報道されるニュースだけではなくインターネット上にも大量の情報があふれる現代。
情報の送り手と受け手にとって大事なものは何か?
自分の価値観で善悪を一刀両断にするような「正義」を振りかざすのではなく、
「あれ、これおかしいんじゃない?」という健全な違和感を起動させ
その違和感に共感を集めるために必要なこととは?
政府発表をそのまま流す、あるいは重要な事件を報じない大メディアの問題から、
SNSやネット掲示板の空間での根拠不明なフェイク情報の問題、
アルメニア、アゼルバイジャンの戦争報道にいたる国際報道の問題まで。
『プロパガンダ戦争 分断される世界とメディア』(集英社新書)を上梓した内藤正典氏と
『ニッポンの違和感』を刊行した松尾貴史氏が縦横無尽に語り合いました。
構成・文 稲垣收 写真(内藤)三好妙心
今こそ情報を判断するリテラシーが求められている
──今回は「ニュースの違和感」ということでお話を伺いたいです。まず松尾さんから、内藤先生の『プロパガンダ戦争』の感想をお願いいたします。
松尾 メディアを使って自分に都合のいいように印象操作・情報操作をして誘導していく、というようなことは昔から行われていたと思いますが、今は情報量があまりにも多過ぎて、一般の僕らが「その情報が本当に正しいのかどうか」を見極めるのが難しい。また「意図的に伝えない部分」があったり、それによって僕たちの判断を操作しようとしているのではないか、とも感じます。それを見分けるリテラシーが今、いっそう必要になってきている。でも手間もかかるし、どうやって判断していけばいいのか、すごく難しい状態だなと思っていまして。
それに受け手も、自分がもともと持っていた反感や対立意識、差別意識みたいなものに都合のいい情報だけを採用して、その思いを深めたり、対立とか分断というものをいっそう深めていってしまうものなんだな、というようなことを考えながら読ませていただきました。
内藤 まさにそうですね。冷戦の時代までは、アメリカ側についているのかソ連側についているのか、自由主義・資本主義の側か社会主義の側かって、大体2つに分かれていましたから、違うところで何かが起きても、その枠組みで見ていれば、ある程度解釈できた。それでよかったのかどうかは別にして、何となく分かった気になれた。
でも冷戦が終わった後、世界で起きていることって、何だか分からなくなってしまったわけです。特に90年代には、何が起きているか分からないような民族紛争をずいぶん経験した。
その冷戦終了から今約30年たったところですけど、今度は米中という大国同士が何か争っている。昔の頭で見ていると、これは新しい冷戦に見えるんですが、今の世界ってそんなクリアに、アメリカ側の陣営、中国側の陣営、というふうには分けられなくて。
特にこの20~30年の間、民族や宗教の違いによる争いというのが非常に表面化してきた。その結果、今までと違って、「どの枠組みで世界を見ているか」によって見え方も違うし、ジャーナリストの人も「どういうふうに書くか」がすごく難しくなった。その分、勉強しないと分からなくなってきたんです。
今、松尾さんおっしゃったように、「対立する同士がそれぞれ展開するプロパガンダ」に乗っているのか、乗っていないのかが、分からなくなってしまっている。そうすると、声の強い方に影響されたり「いや、俺はこっちが嫌いだから、あっちが合ってるんだろう」と、自分の好みや先入観のようなもので判断するということが起きてしまう。これは日本国内のことでもありますが、これが世界情勢になると、よけいに分かりづらくなっています。
「9・11はイラク人がやった」と思い込んでいるアメリカ人がいまだに多い
松尾 2001年9月11日にアメリカの同時多発テロが起きてからもう相当時間がたってますが「あの事件はイラク人たちがやった」って思い込んでいるアメリカ人が大変多いというアンケート結果を見たことがあります。自分の国で起きたあれだけの大惨事なのに、それについて自分から真っ当な情報を得ようとしない人が、そんなにたくさんいるのか、と驚きました。
内藤 そうですよね。実行犯のグループの多くはサウジアラビア国籍でしたけれど、今のトランプ政権にとってサウジは武器取引の最大のお客さんですから、サウジのことを悪く言わない。そういうこともあって「誰か違う連中がやったんだ」という方向に人々の思考を誘導してしまう。メディアのプロであるはずのジャーナリストたちのリテラシーも下がっているので、そういうものに簡単に乗ってしまうんでしょうね。
松尾 日本国内でもそうですけど「取材して調査をして、そこから情報を批判的に見ながら吟味して伝える」という割合がものすごく減って、どこかが発表したものを「こういうコメントが取れたぞ」と右から左へ紹介するだけの「報道じゃなくて広報」みたいなものが増えています。
内藤 ええ。実際私たちは身近にすごく多くの実例を見ていますよね。安倍政権以来、完全にそうなってしまった。流す方は「もうそのとおりに流せばいい」、批判する方は、それに対して「とにかく安倍さんや菅さんが言ったことだから反対すればいい」ということになってしまうと、非常に不毛です。批判精神って、本来そういうものではなかったはずなのに。
だから、やっぱり「冷戦頭」なんでしょう。正しい方と間違った方――「二項対立的に善と悪みたいなものに分けて考えないと、考えようがない」と思って、それ以上の思考を放棄してしまったのか。
ただ西洋世界の場合は、もともと善と悪に分けるのが好きですから、「善と悪の間にもこれだけグラデーションがあるだろう」という考え方って、なじまないんでしょうね。
「ウィン・ウィン」というが敗者はいないのか?
──“声の大きい論者”というのがまかり通っている中で、松尾さんが『ニッポンの違和感』で示されている、「ちょっと違和感」というのは面白いスタンスだと思います。違和感を持てるというのがリテラシーに他ならないと思うんですが、内藤先生、この本をどのようにご覧になりましたか?
内藤 面白かったです。割と世代が近いせいもあると思うんですけど、言葉に対する違和感、これがまさしく膝を打つような。私も常々思っていたんですが、お店とかに行って「ほぼほぼ」と言われた途端に出て行こうかと思う(笑)。まあ、言葉は生き物ですから、そこまで目くじら立てないですけど、この本を読ませていただいて、そういうものに潜んでいる違和感を松尾さんが指摘している点にすごく共感したんです。
松尾 ありがとうございます。
内藤 特に政治家たちが、そういう安っぽくなった言葉というものを使っていますよね。「ウィン・ウィンの関係」なんて言うけど、本当にみんなウィン・ウィンか、本当は負けた人がいっぱいいるんじゃないか。屍(しかばね)累々なんじゃないか。そういうのを「ウィン・ウィン」という軽薄な言葉が覆い隠してしまう。
松尾 一見、前向きで正しいことをしているとしか感じないような体裁の言葉、「一億総活躍」とかですね。その割に誰も活躍させてくれないムードになっていたり……。
内藤 「一億総活躍」って誰のことを言っているんだ、と思いますね。格差がどんどん大きくなっていく中でスローガンだけが独り歩きしていて。昔は「いや違うだろう」という抵抗が、それなりにあり得たんですけど、最近は流されちゃいますよね、政治家の弁解に。菅義偉さんが官房長官時代に「批判は当たらない」とか頻繁に言っていましたが、総理になっても日本学術会議任命拒否について経緯を説明するまでもなく早速、「批判は当たらない」とか言うんでしょうね。
松尾 「総合的、俯瞰的に判断した」そうですけど(苦笑)。
内藤 安倍前首相は「地球儀を俯瞰する外交」って言いましたが、地球儀クルクル回せば世界が分かるわけじゃありませんので。
松尾 今回菅さんは「国民のために働く内閣」と言いましたが、「……それ当たり前じゃないの?」って。「わざわざ言うってことは、実は違うのか」とすら思えます。
内藤 そうなんですよ。マスメディアは本来、そういうところをチクチク批判していかなきゃいけないのに、最近それがない。そういうことを言うと「大人げない」とか「頑張ってるのに何を言うんだ」などと言われる。
討論の番組もないですよね。
松尾 そうですね。討論風に、ポジショントークで、ちょっと盛り上げて、ショー的に対立構造を作って、結局、結論は出ないまま、重なりあって物を言い合うという番組はちょっとありますけど、議論になってない。かみ合っている議論をテレビで見ること、聞くことは、もうほとんどないですね。
内藤 私の本の中にも書いたんですけど、BBCの「ハード・トーク」という番組は、1対1でやる場合が多いですけれども、これはすさまじい番組です。今、コーカサスのナゴルノ・カラバフというところで激しい戦争になっていますけど、その一方の当事者のアルメニアの首相にBBCのスティーヴ・サッカーというジャーナリストがインタビューしているんです。その突っ込み方がすごい。
アルメニアの首相がアルメニアの立場を説明し「ナゴルノ・カラバフは何千年も俺たちアルメニア人のものだ」と言うわけです。そしたら、サッカーは「何千年の歴史をあなたに聞いているわけではありません。今、何してるかを聞いてるのです」と。一国の首相に面と向かって、そんな恐ろしいことを言う。そこまで突っ込むというのは相当の覚悟と下調べがあって初めて成り立つので。そういう、切ると血がほとばしりかねないような激しい討論は、絶対日本ではないでしょう。まあ、日本に向かないというのもあるかもしれないですけど。
松尾 そうですね。日本の場合は、例えば安倍さんなんかは、都合が悪いことがたまってくると、もう記者会見そのものを開かなくなるというのが……。
内藤 おびただしかったですね。
松尾 ええ。それが如実に出るのですけれど、でもテレビだけを見ている人は「安倍さん答えてるじゃないの」と思うような編集、しつらえになってる。
総理が官邸に入ってきたときに、立ち話のようにマイクを向けて、いわゆるぶら下がりという形で聞く人たちの前で、言いたいことだけ言って。でも、あの人たちは新米の記者さんがほとんどで「番記者同士の輪を乱さないように」というプレッシャーもあるし、追加質問みたいなことを重ねていくということができない空気の中でしか、総理は答えない。しかし、テレビを見てる人は「総理大臣ちゃんと答えている」というふうに思ってしまう。
内藤 取材する記者の方の圧倒的な勉強不足というのもあって、それ以上突っ込めないのと、よく勉強している記者がいても「おまえ目立つな」とマスコミ同士で潰し合いますよね。これは今の日本にとっても非常にマイナスですし、それが世界レベルで起きると、もう、とんでもないことになってしまう。
松尾 そうですね。これ、きっと世界中のジャーナリストが思っていることでしょうけど、やっぱり「(政治家などが)伝えられたくないことを伝えなければ」という使命感を、どこまでちゃんと持って実行しているか、ということに尽きると思うんです。
ナゴルノ・カラバフ戦争をトルコのせいにしたマクロン大統領
内藤 以前NHKのラジオで松尾さんと御一緒させていただいたときトルコの話をしたんですが、このトルコが今や世界中から猛烈なバッシングを受けている。私、別にトルコを専門にしているからトルコの肩を持とうというんじゃなくて、トルコのことをよく知ってますから、このバッシングが非常に異様だなという印象を持っています。
松尾 『プロパガンダ戦争』の中にも書かれていましたよね。
内藤 ええ。本に書いたのは1年前のシリアでの状況なんですが、先ほどちょっと申し上げた、今、ナゴルノ・カラバフというところで、もう10日近く激しい戦争になった。これ9月27日に始まって、どっちが先に手を出したかというのは明らかではないんですけど、今や双方、犠牲者が増えている。
で、これが始まった時にニュースを見ていると、まずアルメニアの首相が「トルコが悪い」って言い出すんです。
私は、何を言っているのか、そのときはすぐには分からなかった。その直後に今度はフランスのマクロン大統領が「トルコが悪い。トルコが最初からアゼルバイジャンの側に立って軍を支援し、シリアから傭兵を送っている」と言ったんです。
トルコがシリアで支援している反政府勢力にはジハード主義者といって、イスラームの過激派も中にはいますが、マクロンは「彼らをトルコがアゼルバイジャンに送ってアルメニアと戦わせている」と言ったんです。すると1日、2日のうちに日本のメディアも全部それを書き始めました。調べてみたんですけど、もうあらゆるメディアが、そう書いている。しかし一つ確かなのは、誰も現地へ行ってない、ということです。現地からの報道というのはない。近くの国から見ているだけで。
確かにアゼルバイジャンとトルコは仲よしだと言われています。言語が似ているんですね。でも私は、「それはあり得ないだろう」と思った。どうしてかというと、100年前に遡るんですけど、アルメニア人に対する大変な迫害というのが起きて、多くの犠牲者が出たんです。いまだにアルメニアは「その責任はトルコにある」と言っている。ただしその当時のトルコって今のトルコではなくて、前のオスマン帝国末期で、軍閥が入り乱れて争っている時代のことなんです。しかしアルメニア人の身に大変な悲劇が起きたことは事実です。
だからトルコが、そんなセンシティブな相手であるアルメニアに対して、いきなりアゼルバイジャン側を応援する軍を送ったり、まして傭兵を送り込むなどということをするとは、とても考えられない。それを実行したら、世界中からごうごうたる非難を受けることは明らかなので。
もう一つは、現アゼルバイジャン大統領のイルハム・アリエフという人物は、父のハイダル・アリエフから世襲で権力を受け継いだんですが、親父のハイダルはソビエト共産党からKGBのトップに上り詰めて、石油の利権で国を固めた人物で、いわば独裁者です。息子もそれを受け継いでいる。だからアリエフ大統領はイスラーム過激派なんて大嫌いなのです。こんな勢力が国に入ってきたら、いつ自分たちに逆らうか分からない。だからアゼルバイジャンがイスラームの過激派を使うはずがないんです。逆に、そういう人たちは「テロリスト」として片っ端から摘発している。ところが、マクロンをはじめ世界は全然違うことを言うんですよね。
アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教にした国なんですがそれをもって、「これはキリスト教対イスラームの対立なんだ。アゼルバイジャン側にはトルコがジハード戦士を送り込んでいる」とね。そして、こうしたデタラメは一から十まで、雪だるま式に増えていくんです。
しかし日本のジャーナリストも海外のジャーナリストも全くそれに疑問を持たない。BBCだけはさすがに、そういう疑問を呈していましたけれども。あとは、アルジャジーラ(カタールの国際放送局)も、やっぱり両方の意見を聞いて報じていましたけれど……。
松尾 でも、例えばイスラームに関して明るい記者の人が、大きな通信社や放送局の報道部には、いると思うんですけど、その人たちが「これ本当なのか?」と思わないとしたら、おかしいですよね。各地の出来事に対して、きちんとファクトチェックをするという、システマティックな体制がないと、これからもどんどんこんなことが増えて、雪だるま式にデタラメが膨らんでいくということが、また起きてしまうんじゃないかと思うんですよね。
内藤 そうなんです。私はたまたま中東の方が専門ですけれども、東アジアや東南アジアでも、同じようなことがあるんじゃないかという気がするんです。だからファクトチェックは重要です。たぶん個々の記者のレベルでは、そういう人がいても、会社という組織のなかでは、途端に、「いや、そのトーンで出すのはいかがなものか」と言われたり。
『プロパガンダ戦争』を書いた後に、何人かの大メディアのジャーナリストから感想を頂戴して、「おっしゃるとおりです。記者たちは個人としては〝こうじゃない〟という作業を積み重ねても、上層部に行くに従って、そのトーンは丸められて、角が取られて丸くなって、最後は何でもないような書き方になることは、よくあるんです」って。
これが、やっぱり大企業化したメディアの持っている大変難しい点でもあるし、ある意味、そういう大メディアが自滅していってしまうきっかけになっているんじゃないかという危機感を持ちます。
松尾 海外のメディアといっても一口には言えませんけど、例えば日本の場合は、メディアってものすごく巨大な組織で、傘下にテレビ局も持っていたりというような形で、持ちつ持たれつの関係であったり、「長いものには巻かれろ」というような空気があるのは分かるんですけど……。海外だと有名な新聞社でも、例えば政治的立場とか、考え方をハッキリと出して、批判的な記事は批判的な記事として「私たちはこの方向を応援する」みたいなことを社を挙げてやっていたりするじゃないですか。
もちろんそれは、日本の新聞社ほど大きな組織じゃないところが多いのだろうなと想像するんですが、日本は何でこんなにメディアが巨大化してしまったのか、すごく不思議なんですよね。
内藤 あまりに、大企業になり過ぎてしまいましたよね。
「冷戦」終結後、新たに「分断」が始まった
松尾 最近のベイルートの爆発事件で、思い出したんですけど、2001年の9・11同時多発テロ事件が起きて、その報復で、アメリカが空爆を大規模にやって、誤爆の方が多かったんでしょうけど、それによって、おびただしい数の人たちが亡くなった。兵隊でも何でもない一般市民や子供たちが。まあ、死者の数で比べるのも意味ないかもしれませんけど、被害が大きかったのは後者だと思うんです。
*編集部注 9・11同時多発テロの際の死者数は2996人。その後アメリカと有志連合が始めたアフガニスタン戦争での現在までの民間人の死者数はその10倍以上。またアメリカが2003年に始めたイラク戦争での民間人の死者数はIraq Body Countによれば、18万~20万人以上 https://www.iraqbodycount.org/database/
内藤 明らかに、そうです。
松尾 それが、東西の冷戦構造みたいなものがなくなった後、一番ハッキリ僕らにも伝わる形で出てきたことですけど、あの9・11から今20年近くたって、何にも納得のいくことが起きていないというか。世界がただただもう壊れていくというか、断(た)たれていく。東西陣営という分かりやすい力の均衡みたいなものが崩れた途端、宗教とか貧富とか考え方とか損得とか利害関係とか、いろんな分断が起きている。今回、新型コロナという病気で、また分断が起きたり。
意図的に分断しようとする人たちもいるし。もちろん人種間の対立もありますし。分かれていく、断たれていくということが、ものすごく連鎖反応的に起きて、暗たんたる気持ちにさせられることばかりですね。
内藤 おっしゃるとおりで、9・11の同時多発テロ事件の後にアメリカはアフガニスタンを攻撃しましたが、20年たった今もなお非常に強烈な違和感として残るのは、テロを起こしたのはウサマ・ビン・ラディンでありアルカイダなんですよね。当時アフガニスタンを支配していたタリバンが彼らをかくまっていたわけですが、「かくまっている相手も同罪だ」といって、国ごと壊して、膨大な犠牲を出していいのか、ということです。
それは国際法上、もちろん成り立ちませんし、倫理というか基本的な人間の道徳として、「それをやっていいのか」と問うた人も当時はいたんですが……。今はもう、その辺りも全く問わなくなってきている。
「それは〝やむを得ざる犠牲=コラテラル・ダメージ〟だ」と。もう仕方ないんだと言う。しかし「仕方がないで済むのか」ということをずっと言い続けたんですが、その2年後にはイラク戦争が始まってしまって。この戦争に至っては、戦争を始めた理由の「イラクが大量破壊兵器を持っている」というのもウソだったと後で分かって。
松尾 難癖をつけて確証もないのにイラク攻撃に突き進んで。日本もそこに加担して。アメリカやイギリスは「あれは間違いでした」って、後である程度、公式に認めましたが、日本は誰も責任取ってないのですよね。
内藤 あのとき「いや、おかしいだろう」と言っても、「大量破壊兵器がないということを証明しなかったサッダーム・フセインが悪い」ってテレビで保守派の評論家に言われたことがあります。でもちょっと待ってください、と。それを言うなら、政権が何らかの不正をやったときに、政権側が「やってない」って言ったら、「やってないという証拠を出せ!」と政権に言うのでしょうかと。
松尾 そうですね。
「疑う待機電力」をずっと入れておかなきゃいけない
内藤 そういうふうに日本で私たちの身近でも見られることが、世界的なレベルで広がってしまっている。それ以上物を考える力を奪い取るような圧力が、非常に強くかかってきていると感じます。
私は64歳ですから、子供の頃、派手な学生運動というのがあって、学校がロックアウトされたりしたこともありました。それから、だんだん振り子が左から右に振れてくるところをずっと生きてきたんですけれど、もうつくづく、どっちのサイドも駄目ですね。昔からそういうふうに対立的に争ってきたことのツケが今回ってきている。だから、松尾さんが、この「小さな違和感」ということを言っておられるのが面白くて。本当は、松尾さんご自身は「小さい」と思ってないのでしょうけど。
松尾 そうですね(笑)。
内藤 こういう違和感を、やっぱり大事にしないと。ファシズムが大きな力でもって我々の上に覆いかぶさってくるというより、自分たち自身がそっちの方に流れていってしまうだろうと思うのです。
松尾 昔から「猜疑(さいぎ)心」という言葉にはものすごく悪いイメージがあると思うんですけど、僕は「懐疑精神」というのを必ず発揮し続けなきゃいけないというか、「疑う待機電力」をずっと入れておかなければいけないと思っていまして。
「信じる」って、すごく美しい言葉に感じますし、「信」って字もきれいなんですよ。にんべんに横棒が並んでいて口があって、まとまりのいい字なんです。逆に「疑う」という字はものすごく、わらわらした、イメージがよくない文字で(笑)。おまけに、「疑うなんて」って、その感情を持つこと自体、すごく邪悪な卑しい行為であるというふうに思われがちなんですけど。
でも、「信じる」というのは結論であって、「信じる」の反対の結論は「信じない」なんですよね。「疑う」というのはプロセスですから、結論じゃないので、疑って信じるか、信じないかを決めなきゃいけない。なのに、疑うっていうプロセス自体を悪者視するという風潮が……。
内藤 そう。今、「疑うな」って言いますからね。
松尾 ええ。
──特に日本人は、政府に対して疑うことがいけないみたいな考え方が今、強くなっている気がします。まるで戦争中に「日本軍は勝ち続けている」という大本営発表を疑っただけで「非国民」と呼ばれた時代のように。
松尾 そうですね。「菅さん頑張ってるじゃないの、パンケーキが好きな優しそうなおじさんじゃないの」ということで7割が支持するという不思議な現象が起きていますけど、これはやっぱり「疑う」ということに対する抵抗感みたいなものがあって。しかし、疑わない民族って衰退していくんじゃないかな、って僕は思うんです。
内藤 そうですよね。だって菅さんのパンケーキだってね、あれは大メディアがそれを垂れ流さなければ、国民は知らないですよ。伝えたのは大メディアなんです。そういうイメージ作り。「パンケーキが好きなおじさん」だから「いい人だろう」というところに結びつける、その誘導に大メディアが手を貸しているとしたら、実に愚かなことです。
松尾 勝手な勘ぐりなんですが、大手広告代理店がその演出に手を貸しているんじゃないかと思うんです。
内藤 はいはい(笑)。前政権の辺りから、どう考えてもこれは広告代理店が仕切っているんだろうと思われるようなことは多々ありましたね。
これは国際的にも、アメリカは大統領選を含めて全てそういう仕切りになっているということがあるんですけれども……。ただ、そういうふうに仕切られているということを多くの人が知っているかどうか。納得した上ならいいですが、そうでないと、広告代理店というのはCMで「自分たちの意図する方にいかに引きつけるか」ということを生業(なりわい)としているわけですから。でも政治にそういうコマーシャルを持ち込む手法は非常に危険な面があると思います。昔ヒトラーが実に巧みな演説と演出で、ベルリン・オリンピックも含めて、国民を誘導しました。
あれは何もナチズムとかナチスだけが悪いわけでもなくて、知らず知らずのうちに誘導されていった国民にも最終的には責任があるんです。
松尾 そうですね。バルコニーで高みから民衆に向かって、後ろから光が差すような状態で、カリスマ性みたいなものを演出して。でもそれで「キャー、すてき!」ってなっちゃう人たちの気持ち悪さというのが、実は僕らも人ごとじゃないなという感じがします。時代も国も違いますけど。
内藤 アメリカの公民権運動の指導者キング牧師の言葉を本の中に引用しました。「一番よくないのは善人の沈黙なんだ」と。悪は悪いと分かるし、沈黙していた善人は後で罪を問われるわけではないんですが……。
ただ、今の世界の場合、「沈黙している善人」じゃなくて「分からないうちに操作されている」ことの方がはるかに多いと思うんです。
居酒屋の政治談議をネットで
松尾 昔は居酒屋で政治談義的なことがよく行われていたように思います。それで口論になることもあれば、理解が深まったりすることもあったと思うんです。そういうときに、「あれって何なの? 今日のニュース見ても訳分からないよ」というような話ができるような人たちが今、まわりにいなくなって、新型コロナでなおさらリモートだ、在宅勤務だ、とかしていると、人と会うことも少なくなるので、違和感を共有することというのは、恐らく益々ネットを通じてということになってくると思うんですよね。
なので、SNSなんかで、例えば「ちょっとセンシティブなことは友達が集まっているフェイスブックで」とか、「広く素朴な疑問を投げかけたいときにはツイッターで」とか、そういう使い分けをしながら上手に付き合っていくと、人の違和感とか、感じているものに気がつくことができるのかな、という気がします。
もちろんそこには、また別のリテラシーが必要になってくるとは思うんですが。
内藤 おっしゃるとおり、居酒屋での話とかそういうところで一種草の根的に小さなコミュニティを核としながら、違和感の共有ができていた部分はあると思いますね。今はソーシャルメディアを普通、我々みんな手にしているわけですから、そういうところに出てくる。
もちろん、その中には、いろんなフェイクもあれば、誘導するものもある。その中で「どれが本物かな」というのを見抜くためのリテラシーというのを磨いていかなきゃいけない。
そこは、やや希望的に見ているんですけど。ツイッターなどで発信しているものに対して、やっぱり分かってくれる人というのは出てくるのでね。その点には一つの期待を持っています。ものすごい罵詈雑言(ばりぞうごん)の応酬みたいになったりすることもあるけど。
逆に、やっぱりテレビの時代って、もう終わってしまうだろうなと思うんです。若い方はテレビを見なくなっていますし、それこそYouTubeの方を、はるかに見ているだろうと。しかし、YouTubeというのは、これまた誰でも手にできるツールになりますから玉石混交なわけで、その中から何を選んでいくかというと、やっぱりリテラシーが必要で。それには教育も必要です。判断力をどういうふうに磨いていくか。
ですから、松尾さんがおっしゃったように、例えばYouTubeの世界で居酒屋的な政治談義をしなきゃいけないと思うんですね。
松尾 そうですね。
フェイクや陰謀論を見分けるために「教養」を身につける
内藤 無数の居酒屋があるけど、これは逆に利点でもあるわけです。どこかの居酒屋に行かないと分からない、閉じられた会話がYouTube上にもあることになるわけですから。いつかは、その中での対話とか議論というものが出てくるようにならないかな、と思っているんです。
NHKなど公共放送を筆頭に、もう仕込みのないものが、なくなってきているわけで。そうすると飽きられていく。もっと鋭いものはYouTubeの方にある、と。
しかし、YouTubeの方が質やエビデンスを担保しているかというと、それは全くないわけで、そこをプロのジャーナリストたちが考えていかないと。いきなりどっちかに流れちゃうと非常に危険なことだと思うので。
松尾 リテラシーやファクトチェックが流行になって、定着してくれるとありがたいな、と本当に思います。
内藤 そう。私はもう年だから、あんまりそういうのをやる力もないけど、YouTubeなんかの中でも、そういうぼそぼそとファクトチェックをする世界、隅っこの世界みたいなものが、息づいてくれないかな、というふうに思ってるんですよ。
松尾 そうなんですよね。
ただ、そういう人たちを、たまに見かけると、単に根拠のない陰謀論を言っているだけだったりという場合もあるので。だから本当に面倒くさいんです。
内藤 よく見ないと、ただの陰謀論というのも多々出てきますからね。
やっぱりそれを見分けるのは「教養」だと思うんですよ。「これ本当かな」と思うときの判断材料、その力になるようなものというのが本来の教養のあり方であって。今みたいに新型コロナの問題があるときって、「本当にこんなことあるのかな」という科学の基本中の基本のリテラシーというものを教養として持ってないといけないと思うんですよね。
教養って、あるからいいとか、ない人を下に見るとか、そういうものじゃなくて、教養を持っていることによって「何か困ったことがあるときに頼りになる」とか、ホッとできるような知識。つまり、これがあれば、安心してこうやればいいんだなと思えるような「知の源泉」だと思うんです。
今こそ、自分の知らないことに対する判断をするとき、判断材料の一つとして、リテラシーの基(もと)として、「知」というのは、やっぱり大事にしていかないといけないな、というふうに思っているんです。ですから、まだ、あと何年か大学の教師やらなきゃいけないかなと(笑)。
松尾 そうですね。反知性主義みたいな動きが今、力を持っているのが、すごく暗たんたる思いがしますからね。
(了)
プロフィール
内藤正典(ないとう・まさのり)
1956年、東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科卒業。博士(社会学)。 専門は多文化共生論、現代イスラーム地域研究。同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。一橋大学名誉教授。『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』『限界の現代史 イスラームが破壊する欺瞞の世界秩序』(集英社新書)、『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』(集英社)、『イスラームからヨーロッパをみる 社会の深層で何が起きているのか』(岩波新書)他著作多数。ツイッターアカウント @masanorinaito
松尾貴史(まつお・たかし)
1960年、兵庫県生まれ。大阪芸術大学芸術学部デザイン学科卒業。俳優、タレント、ナレーター、コラムニスト、「折り顔」作家等、広い分野で活動。『季刊25時』編集委員。著書に、『作品集「折り顔」』(古舘プロジェクト)、『違和感のススメ』(毎日新聞出版)、『東京くねくね』(東京新聞出版局)ほか。最近刊に『ニッポンの違和感』(毎日新聞出版)。ツイッターアカウント @Kitsch_Matsuo