「役に立つ」知識を手っ取り早く身につけ、他者を出し抜き、ビジネスパーソンとしての市場価値を上げたい。そんな欲求を抱えた人たちによって、ビジネス系インフルエンサーによるYouTubeやビジネス書は近年、熱狂的な支持を集めている。
一般企業に勤めながらライターとして活動するレジー氏は、その現象を「ファスト教養」と名づけ、その動向を注視してきた。「ファスト教養」が生まれた背景と日本社会の現状を分析し、それらに代表される新自由主義的な言説にどのように向き合うべきかを論じたのが、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)だ。
今回は、レジー氏と同じく会社員として長らく兼業で活動していた、書評家の三宅香帆氏をお迎えし、両氏に「ビジネスパーソンが読書をすること」「ポップカルチャーにおける趣味と労働」をテーマに対談いただいた。誰しもが生活と労働に追われ、「読書をする時間がない」と焦りと不安を感じている時代に、どのようにカルチャーと向き合えばよいのだろうか。
「最近のエンタメの動向がこれ1冊でわかります」とあえて紹介したい
三宅:ここ1~2年で、ネット上でのファスト教養的なものに対する議論ってすごく盛んになりましたよね。それこそレジーさんも本の中で触れられていましたが、映画『花束みたいな恋をした』(以下『はな恋』)が流行った2021年の2月頃は特に多かった気がします。そういった論点が体系的にまとめられている本はまだなかったと思うので、レジーさんの今回の本は、ファスト教養についての議論をする上での基礎になるような1冊だなと思いながら拝読しました。
レジー:ありがとうございます。三宅さんがいま『はな恋』を挙げられましたが、僕はあの映画の、社会人になって文化的なものとの距離が少しずつ離れていく描写をすごくリアルだなと思って観ていました。僕自身も、いまは会社員をしながらこうやって本を書いたりしてるんですけど、社会人になって生活環境が大きく変わったばかりの頃は、もうこのまま音楽とかあんまり聴かなくなっていくのかな……と感じていたので。『はな恋』の主人公の麦が、社会人になってパズドラしかできなくなっていくシーンがあるじゃないですか。あの感じってすごくわかるんです。
三宅:ああいう時期、ありますよね。私も大学時代、就職して本を読む時間がなくなることがいちばん怖かったです。私の場合は幸い、大学院に通っているときに書評の本を出せることになったので、こういう活動をしながらであれば本から離れずに働けるかも、と思って就職に踏み切れたんですが、周りを見ていても、社会人になって本から離れていく人は多かったです。
レジー: 『はな恋』では、いままで文学に関心があった麦くんが起業家、前田裕二のビジネス書『人生の勝算』(幻冬舎)を読んでいるシーンが描かれて、SNSでいろんな反応がありましたよね。でも、ああいう本に気持ちが持っていかれる感覚って共感するんです。僕も新入社員の頃は、『日経ビジネスアソシエ』の手帳術特集とか熱心に読んで取り入れてましたし。
その一方で、意外ともっと歳を重ねてから、それまでとは違ったかたちで文化と向き合えるようになることもある、というのは自分の実体験として感じるんです。だから、もう少し大人になったときの麦くんを、今回の本の想定読者として置いているところはあるかもしれません。
三宅:麦くん、『ファスト教養』読むかもしれないですよね(笑)。
レジー:いや、読んでほしいなと思うんですよ(笑)。読んですぐにはピンと来なくても、何年後かに「あ、そういうことだったのか」って思ってもらえるといいなって。
三宅:すぐに伝わらなくてもいい、というのは本当にそうですよね。それこそ私が書評家として『ファスト教養』を紹介するなら、今年話題になった『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(稲田豊史、光文社新書)も引き合いに出しつつ、最近流行ってるエンタメの動向がこれ1冊でわかります、という言い方をするのがいいかもしれないと思ったんです。「流行りがざっくりと知れそうだから」とか、それとは逆に「ファスト教養的なものを否定したいから」という動機で手にとったとしても、最終的には、これって社会全体の話なんだと気づいてもらえるような構成になっていると思うので。
レジー:そう言っていただけて光栄です。たしかに、周りと話を合わせるために流行りが知りたい、と思って本を手にとった人が、読み終わったあとにもともと想定していた部分とは違うところに興味を持ってくれたらいいなとは本が出来上がる前から思っていましたね。
ファスト教養がいかにクソか、みたいなことを書くほうが簡単だし、それで喜ぶ人も一定数いるとは思うんですよ。でも、さっきお話しした通り自分も全面的にファスト教養を否定できるわけではないし、ホリエモンの言葉がいま必要な人だっているよな、と考えていった結果ああいう構成になったんです。ストレートに結論だけを提示したほうが、もしかしたら伝達する速度は速いのかもしれないけれど、そこにたどり着くまでには葛藤や逡巡があるよね、というのも見せたいなと。
三宅:うん、そうですよね。
「文化VS産業」という分断をどう埋めるか
レジー:僕自身、ファスト教養的なものをめぐる姿勢に関しては、日々引き裂かれているような感覚があるんです。たとえば、ファスト教養と親和性のあるメディアに関する話を会社でちょっとシニカルにしようとしても、その文脈がまったく伝わらず、むしろみんな意外と普通に読んでるんだな、と気づかされることがある。でもそれがリアルだよな、とも感じます。三宅さんもたしか、IT系の会社に勤められてたんですよね。
三宅:そうです。本をじっくり読んだり書いたりする時間がとりづらいなと思って、つい最近、専業になったんですが。自分がふだん文章を書いて活動している場と会社とではまったく空気が違う、というのはたしかにすごく共感します。
レジー:会社だと、できるだけ早く効率的に成果を上げるという姿勢も少なからず必要になってくるじゃないですか。本をじっくり読んで味わうという、書評家として大事にされている姿勢とはギャップがあるのではないかと思うのですが、ふたつの文化圏の間で悩まれたりすることってありませんか?
三宅:そうですね……個人的には、何かをじっくり読むことと早く効率的に情報を手に入れることは、そこまで対立しないんじゃないかと思ってますね。現代社会に適応するための知識を集めることと、社会そのものを俯瞰することって、実際には両立するじゃないですか。
レジー:はい、そうだと思います。
三宅:どっちも大事だよね、と思うんですが、そういうスタンスの人が少なくて、そのふたつが分断されてしまっているのが問題なのかなと。ふだん本を読まない方からの「本ってなんのために読むんですか?」みたいな質問に、人文界隈の人が「なんのためにならなくても読むんです」と答えているのをよく見るけれど、目的がなければ本を読みたくないという意見も、みんながここまで忙しく働いたり生活したりしている以上、前提として受け入れなくちゃいけないと思うんです。それを頭ごなしに否定するのはあまりにも上から目線だな、と思います。
レジー:たとえば音楽の世界でも、売れるためのマーケティングに積極的なアーティストがことさらに叩かれる傾向っていまだに強いなと感じます。本当はそのふたつ、文化と産業をどう繋いでいくかを考えていくべきなのに、どうしても文化VS産業のような対立構造になってしまう。
三宅:そうですよね。ただ、個人的な感覚としては、文化と産業のバランスを自分の中でちゃんととっている消費者って意外といると思っていて、どちらかというと、日本の作り手の側にそれが少ないのかなと。たとえばNetflixのコンテンツがここまで支持されているのは、文化と産業のバランスをうまくとって楽しんでいる視聴者に刺さるような、クオリティの高いコンテンツを作っているからという側面もあると思うんです。そのふたつのバランスがとれたクオリティの高い作品を提供できる作り手が増えれば、受け手の側にも、そういう層がより増えていくんじゃないかと思いますね。
レジー:ちょっとでも「お金のにおい」がした瞬間に、もうこれは自分たちのものじゃない、とコンテンツを拒否する人が作り手にも受け手にも一定数いますよね。
あとは、そういったクオリティの高いコンテンツに対して、批評的な文脈をいっさい参照せず、ただ表面的にわかってる風のことを言う拡散力のある人の意見ばかりが広まってしまう、という問題も存在しているように感じています。一方で、文脈や背景を理解していて実際にそのコンテンツを批評する力のある人は、遠巻きにそういう状況を見て冷笑するばかりで何も言わないなんてことも少なからずある。この分断をどうやって解消すればいいんだろう、とよく考えます。
三宅:たしかに日本における「文化人」枠が、なにかを強い言葉で言い切るビジネスマンか、お笑い芸人の方だけになってますもんね。それ自体が悪いわけではないけれど、それ以外の人がほとんどいないのはどうしてなんだろうと思います。
レジー:そうなんですよ。海外に目を向けると、たとえばアメリカではオバマ元大統領が音楽や映画のお気に入りリストを発表するじゃないですか。もちろん文化に対する彼の感度が特別に高いという部分はあるとは思うけれど、ああいうのを見てしまうと、日本のビジネスや政治を引っ張っている人たちの文化の理解度・許容度の低さにガクッときてしまいます。麻生太郎が『ゴルゴ13』を読んでるとか、そういう話ばかりになってしまう。『ゴルゴ13』の良し悪しではなく、何かこうもっと決定的な差を感じてしまうというか……
三宅:もちろん漫画にも素晴らしい作品はたくさんあるんですけどね。特にいまは、人気のある漫画を読んでいても、作者の方が非常に高いクオリティのものを書きながらも、同時に大衆的な支持を集めていることが多く、救いだなと思います。ただ、もっと若い世代の人を見ていると、最近は漫画を読んでいる人すら少ないなと……。やっぱりコロナの影響もあってか、多くの人の情報源が、ここ1~2年で急速にYouTubeに変わってきているのを感じます。
レジー:そうですね。やっぱり時間がないし、みんな忙しいという。緊急事態宣言のとき、ひろゆきのYouTubeチャンネルの切り抜きが一気に増えたりしたのも、需要をダイレクトに反映していたんだろうなと思います。
三宅:ここ数年でひろゆきさんとか成田悠輔さんが一気に脚光を浴びるようになったのって、コロナでマッチョイズムに疲れた人が多いことも影響しているんじゃないか、と最近思います。すこし平熱というか、熱血さのないものがウケるようになってきたのかなと。
レジー:ひろゆきって極端なことを言うイメージがあるかもしれないけど、本を読むと、「『貯金はするな』みたいな意見は極端だから、ちゃんとしたほうがいい」みたいなことを書いていて、意外とふつうなんですよね(笑)。
三宅:ひと昔前は「とにかく会社を辞めろ」みたいな極端なことを言う人がウケていたかもしれないけれど、いまは「会社にいるのも得だよ」のほうがウケますよね。コロナ禍で空気が変わったのを感じます。
麦くんだって、『ゴールデンカムイ』が無料公開されてたら読むかも
レジー:コロナ禍での変化でいうと、僕は仕事がほぼ在宅勤務になり、読書する時間の捻出が一気に難しくなりました。いままでは電車で本を読むことが多かったんですが、生活と仕事の切れ目が曖昧になったことで、そこにどうやって読書の時間を差し込めばいいかが難しくて。
三宅:レジーさんはお子さんが3人いらっしゃるそうですが、とくにお子さんのいるご家庭では、家でゆっくり読書っていうのはなかなか難しそうですよね。
レジー:全員寝てから読もうかなと思うんですが、その時間になると大体もう疲れ果てているので(笑)。
三宅:いや、そうですよね。その中でもなんとか読書をしたり、新しいコンテンツを追うのって大変じゃないですか?
レジー:僕はやっぱりもともとコンテンツを追いかけるのが好きなので、ある程度は無意識にやっちゃえるというのは正直あるんですけど、自然に追いかけられるレベルを無理に超えようとしないことは意識してますね。
たとえば音楽についてなにか書くとなると、新譜はひと通り日常的に聴いていないといけないとか、音楽だけじゃなくてその周辺、それこそNetflixの新作も押さえておかないといけない、と無限に広がっていってしまう。それを本当に全部追いかけようとしたら精神的にも破綻してしまうと思うので、無理しないというのは大事だなと。
三宅:新しいものを追うことが義務のようになってくると、どんどんつらくなっていきますよね。
レジー:本当にそうなんですよ。うちは7歳の娘と4歳の双子の娘がいるのですが、3年ほど前、双子が保育園に行き始めた頃から「あ、これ無理だな」って感じることが増えてきまして。僕はもう、「スキマ時間をうまく調整して、そこに予定を入れていこう」みたいなライフハックは全部嘘だって思ってます(笑)。無理なものは無理なんですよ。スキマ時間はスキマ時間で休まないと、体にもくる。
三宅:本1冊、漫画1冊も読めないときって、めちゃくちゃ疲れてるときですもんね。仕事や生活にも、当然ですが波があるじゃないですか。私、それこそ『はな恋』の麦くんも、『ゴールデンカムイ』(野田サトル、集英社)は、ジャンプ+で無料公開されたタイミングでまた続きを読んだんじゃないのかな? と思うんですよ。一度読むのをやめた漫画も、久しぶりに読んだらおもしろいな、と感じる未来って容易に想像できる。
そういうふうに、仕事や育児がすこし落ち着いて時間ができたときに、あ、久々に読もうかなって手を伸ばせるくらいのものが文化じゃないかと思うんですよね。だから忙しいときは無理になんでもかんでも触れようとせず、あまり敬遠しすぎずに「時間ができたらあの積ん読も読もうかな」くらいの距離でいるのが大事なのかなと思います。
レジー:僕は1981年生まれなので、1994年生まれの三宅さんよりはすこし上の世代なんですが、人生のサイクルの中で文化から離れてしまうことがあっても、またどこかで距離が近くなるタイミングもあるよ、というのは生きざまとして伝えたいと強く思ってるんです。結婚して子どもが生まれたら趣味を全部捨てなきゃいけないなんてことは絶対にないし、いまはオンラインで楽しめるイベントも増えているので。たしかに1、2年のスパンで見れば好きなものから遠ざかってしまうこともあるかもしれないけれど、10年単位で見れば、そこに戻りたい気持ちがあれば何らかの形で絶対にまた楽しみ方を見つけられますから。
自分が新しいものを追うのが難しい時期に、もしかしたら「あのコンテンツ、みんな盛り上がってるのにまだ見られてないな」と自己嫌悪に陥ったり、周りの人からなにか言われることもあるかもしれないけれど、あんまり気にする必要ないよと思います。無理のない範囲でやれることをやろうとしていると、その範囲の中で自分に響くものが届いてきたりもするんですよ。たとえば子どもと一緒に見てるとプリキュアってけっこうおもしろいんだなって気づいたりもするし、そのフェーズでしか入ってこないものって絶対にあると思うので。
三宅:本当にそうですよね。新卒1年目で『人生の勝算』を読んでもいいじゃないかって思います。そういうのが必要な時期もあるじゃんって。みんな厳しすぎる。
レジー:それくらい軽い気持ちでいたほうがいいですよね。ただ、それにしても『人生の勝算』はチョイスとしてどうなの?っていう話は『ファスト教養』でも触れているのですが(笑)。
三宅:私はいまのネット文化の空気って、ワナビー的な人に対してちょっと厳しすぎるんじゃないかと思うんです(笑)。たとえば麦くんのような趣味でイラストを描いているキャラクターに対して、プロになれないならやっていても意味がない、というような感想を見て。いまはpixivのようにネットで作品を発表する場はたくさんあるから、無駄なんてこと全然ないのに。『ファスト教養』の中でも書かれていたように、それも自己責任論のひとつだと思うんですが、若い人に「ワナビーはだめ」なんて思わせてしまうのは問題ですよね。感想や批評に関しても、ちゃんとしたことを言わなきゃいけないとか、推しているコンテンツは全部追ってこそ一人前だ、みたいな空気があるのは息苦しいなと思います。
レジー:SNSによってそれを全部やっている人が可視化されてしまうことも大きいですよね。本当はもっと、自分なりの楽しみ方を見つけていったほうがいい。
それこそさっきの話で言うと、数年前までよく言われていた「会社なんか辞めちまえ」みたいな極端な意見があり、その極端さの副作用みたいなものも多くの人が感じるようになって、じゃあこれからはどうしよう、というフェーズが今ですよね。こういうとき、「結局バランスやモラルが大事だよね」っていう意見は、大切だけれどすごくつまらないんですよ。そのつまらなさに耐えられなくなって、また違う過激さがいずれ出てくると思います。だからここは踏ん張って、一見退屈で凡庸そうな意見でも、ちゃんとバランスが大事だって言い続けることがいま必要とされているんじゃないかと思います。それを言い続けてこなかったツケがいま回ってきていると思うので。
三宅:そうですね。ネットはどうしても過激な意見のほうが広がりやすいから、そちらにばかり人が寄っていってしまうのもわかるけれど、それでもなんとか耐えてほしい。
レジー:「結局どっちだよ?」みたいなことが言われがちな時代なので、「いや、どっちでもないよ」ってちゃんと言い続けたいですよね。
(取材/構成:生湯葉シホ)
プロフィール
レジー
ライター・ブロガー。1981年生まれ。一般企業で事業戦略・マーケティング戦略に関わる仕事に従事する傍ら、日本のポップカルチャーに関する論考を各種媒体で発信。著書に『増補版 夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)。twitter : @regista13。
三宅香帆(みやけ かほ)
1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了。大学院時代の専門は萬葉集。大学院在学中に書籍執筆を開始。現在は作家・書評家として活動中。著書に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!? 人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(大和書房)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)。ウェブメディアなどへの出演・連載多数。