対談

新自由主義と国家主義の圧力を前に、教育は今何をなすべきか

鈴木大裕×前川喜平

2024年10月に発売された『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)の著者、鈴木大裕氏は9年前に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)で、物事すべてを経済的な尺度で測ろうとする新自由主義に侵食され疲弊していくアメリカの公教育現場をレポートし、日本も30年遅れでアメリカの轍を踏むことになると警告を発していた。まさに今、その危惧が現実のものとなっていることを著したのが今回の本だ。
その鈴木大裕氏と、元文部科学省事務次官の前川喜平氏を招いて、秋田雨雀・土方与志記念青年劇場が「いま子どもたちにとって学校とは?─演劇との出会いが生み出すもの─」という創立60周年青少年シンポジウムを開催した。当劇団は60年前から全国の学校を巡回し、演劇公演を続けてきたが、ここにも新自由主義の波が押し寄せ危機感を抱いているという。こういう時代だからこそ、教育自体、それを取り巻く環境、教育と演劇の関係性を考える必要があるということで、その模様をレポートする。

※この記事は2025年2月23日に行われた講演会の模様を抄録したものです。

鈴木 今日は、『崩壊する日本の公教育』という本、全6章のうち第1章“「お客様を教育しなければならない」というジレンマ”と、第2章“人が人でなくなっていく教育現場”を中心にお話させていただきます。
 2016年に出版した『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』の「はじめに」で、僕は花火大会の観覧席が有料化していることに衝撃を受けたと書いたんですが、その流れはさらに加速しています。そもそも早いもの勝ちだった浜辺の席が売られることに衝撃を受けたのに、いまは行政があからさまに「チケットを持っていない人は来ないでくれ」と言い、行政が市民を消費者のように扱って、公然と序列化をして排除しているんですね。
 もっと酷かったのが2023年の琵琶湖大花火大会。有料席は5万席で、ゴザを敷く浜辺の席が4800円。中学生や高校生が、「一緒に見に行こうぜ」って気軽に言える金額じゃないですよね。普通席6000円、エグゼクティブシートが2万5000円。床几席は6万円です。この年に最も高かった有料観客席は小田原の花火大会で、30万円の大人2名用のベッド席です。
 こういう話を聞いて、僕、自分が議員を務める土佐町の町長に試しに言ってみたんです。「いまはこれが全国のトレンドです。うちの盆踊りの花火大会は、有料席をつくらないんですか?」って。町長は、「そんなことをしたら俺の首が飛ぶ」と笑って言っていました。でも、そうなんです。資本主義的な貨幣の人間関係は即時的で、匿名的な関係である一方、土佐町のようなところは貨幣経済だけではなく、贈与の関係で成り立っている部分も大きいわけで、盆踊りに行ったら、もうみんなが知り合いです。知り合いがみんな立って花火を見ているなかで、自分だけベッドにゆったりと横たわって観るような恥ずかしいことができるわけがない。その感覚の違いなんですよね。
 僕が前作から今作まで、何回も引用したMIT(マサチューセッツ工科大学)名誉教授のノーム・チョムスキーがこんなことを言っています。
『民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限し、その中で活気ある議論を奨励すること』
 行政がこの花火大会で押し付けてくる議論の枠組みは、「膨張する経費をどう賄うのか」。その狭い枠組みの中で議論を奨励するわけです。でも、そもそも「花火大会は誰のものなのか」ということは問われていない。琵琶湖花火大会の自治連合会会長が言っていました。「地元の人が見られないのなら、誰のための、何のための花火大会なのか」と。
 もともとは行政が市民のために始めたものだったのに、いまではサービスの提供者が市民を消費者のように扱っている。このように、いまの時代は、世の中のあらゆる出来事を経済的な観点からのみ捉えようとする新自由主義の時代、と言えると思います。新自由主義の世の中で、教育はお金で買える商品に変わるわけです。子どもは何かといえば、将来の労働力。子どもにどんな付加価値をつけて市場に出せば、どんなリターンがあるか、という考えになるわけです。

すずきだいゆう 1973年、神奈川県生まれ。教育研究者。16歳で渡米し、1997年コルゲート大学教育学部卒業、1999年スタンフォ―ド大学教育大学院修了。帰国後、千葉市の公立中学校で英語教師として勤務。2008年に再渡米し、コロンビア大学教育大学院博士課程で学ぶ。2016年、高知県土佐町へ移住、2019年に町議会議員となり、教育を通した町おこしを目指しつつ、執筆や講演活動を行なっている。著書に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)など。

 そして学校と教員は、教育という商品を提供するサービス提供者、子どもと親はそれを消費するカスタマーですよ。教育委員会はカスタマーサービスです。クレーム受付係。そんな中で、今日の学校はとんでもないジレンマを抱えるんです。人を教育するという学校の使命は、もちろん変わっていない。ただ、そこに来るのは生徒じゃなくてカスタマー、お客様なんですよ。「お客様を教育しなければならない」というジレンマを抱えて、教員が引き裂かれるんです。生徒や保護者に口では「先生」と呼ばれるけれども、扱いはサービス業です。それなら、と今度はお客様のように扱うと「もっと先生らしくしてください」って言われるわけです。
 このような現場にとって最も楽な対処方法は「学力向上で点数を上げていれば文句ないでしょ」とサービスに徹することです。ただ、そうすると学校と塾の境目がわからなくなってくるんですよね。実際にそれが形になったのが、アメリカのチャータースクール、いわゆる公設民営学校です。学校業務を民間に委託しましょう、という発想になって、学校が要らなくなるんです。
 最も楽な対処方法のふたつ目は、あらゆる業務のマニュアル化です。サービス業にとって一番怖いのはお客様からのクレームですから、逆に言えば、それが無ければ良い。そうして、授業は学習規律でマニュアル化される。いわゆる「学習スタンダード」と呼ばれるものです。生徒指導もマニュアル化されます。でも、生徒指導は教師の力量が最も問われるところです。教師とは人としての成長を促す営みですから。ただ、リスクも当然高いので、何かあった場合にはこういう手順でやりましょうということをマニュアル化して、保護者にも「こういう場合はこういう処分にします」と言っておきます。要は、「サービスの邪魔をするお客様にはお引き取り願います」、というメッセージです。

『崩壊する日本の公教育』の第2章では、旭川で起こった中2少女の凍死事件を取り上げています。2021年3月に、旭川の公園で中2の女の子が凍死した状態で見つかりました。自死と言われています。背景には、彼女に対するわいせつ画像の拡散などのいじめがあったようです。お母さんが教頭先生に相談した時の対応は、「わいせつ画像の拡散は校内で起きたことではないので、学校としては責任は負えない」という返事だったそうです。
 担任の先生は、深夜に先輩に呼び出されて怖かったという少女から、ゴールデンウィーク中に電話を受けたことがあったそうです。その先生は、「今日は彼氏とデートなので、相談は明日でもいいですか?」と返事をしたといいます。
 皮肉なのは、いまの働き方改革的にはこれは満点の対応なんです。実際に学校警察連携制度というものがすべての都道府県にあって、学校外で起こったことや、学校では手に負えないことは警察に任せなさい、勤務時間外の電話対応も留守番電話に任せなさい、と学校は指導されています。だから僕は逆に、この先生はよく生徒に携帯電話の番号を渡していたな、と思いました。
 でも、それで良いのか? 人を育てるのが学校の目的で、教育の目的は教育基本法に書かれているとおり、「人格の完成」ですよ。それがいつしか、「グローバル人材の育成」にすり替わっているんですね。教育現場から人を育てる機能が奪われてしまっている。そういう状況が、いま起こっているんだと思います。
 第4章は、「「自由」の中で不自由な子どもたち」というタイトルになっています。コロナ禍の全国一斉休校があった時に、ネット上に親たちの悲鳴が溢れました。「うちの子がゲームばっかりしいている」とか「ボーっとして何もする気が無いみたい」とか、「自分たちが仕事にならないから何とかしてほしい」という悲鳴でした。
 このコロナ禍で瞬発力よく動いたのが経産省だった。「子どもたちの学びを止めない」というキャンペーンを張りました。でも、このキャンペーンの名前、滑稽だと思いませんか?だって、「学びを止めない」って、学校が閉まっただけで、子どもたちの学びがいとも簡単に止まってしまったと、自らが行ってきた教育の脆さを国が認めているんです。
 先ほど言ったノーム・チョムスキーの言葉を借りると、この場合の議論の範囲は「学びを止めないためにはどうしたら良いのか」という枠組みです。やれオンライン授業だ、課題学習だと、いろんなアイデアを出すわけです。でも、本来問うべきは「これまでの学びそのもの」だったんじゃないのか、と僕は思うわけです。だって、教育の真価は危機の時にこそ問われるじゃないですか。ならば、学びに関するより大切な問いは、「なぜ子どもたちの学びはいとも簡単に止まってしまったのか」「私たちはこれからどんな学びを追求していくのか」だと思うんです。
 コロナ禍では「早く学校に行きたい……」「学校の再開、まだ?」「修学旅行にいけるの?」という声がいっぱい上がって、学校は子どもたちにとってやはり大切な場所だったとわかり、多くの教育関係者が励まされました。同時に、学校は保護者にとっても有り難い存在だったことが再認識されたんです。なぜなら、学校はいろんな機能を持つ特別な機関だから。子どもを預けておける託児所機能があり、勉強も教えてくれる、ご飯まで食べさせてくれる。音楽やスポーツまでやらせてくれて、遊ばせてくれて、文化的なことを教えてくれる。こんな機関、他にありますか?
 コロナ禍で行政が押しつけてきた狭い議論は、「失われた授業時数を確保せよ」という枠組みでした。昼休みの短縮、行事の削減、土曜授業……。神戸で講演した時には、小学校で8時間授業をやっているところがあると言われました。非人間的じゃないですか。そんなことをやっていたら、子どもたちはせっかく学校の再開を楽しみにしてくれていたのに、勉強ギライや学校ギライを大量生産するだけですよ。
 アイルランドの詩人のイェーツという人が言ったとされている言葉があります。
「教育とはバケツを満たすことではなく、心に火をつけること」
 さっきの「授業時数を確保せよ」というのは、急いでたくさんバケツを満たそうとしていることじゃないですか。だけど、たとえ300時間教えても心に火がつかない授業はつかないんですよ。そうじゃなくて、残された時間でどうやって子どもたちの心に火をつけようか、という取り組みならどうなっていただろうか、と思います。
 なので、私たちに求められていたのは、実は正常化を急ぐのではなくて、これまで「正常」とされていたものを問い直す。遅れを取り戻すのではなく、これまでの学びそのものを問い直す、ということだったんじゃないのかと思います。

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崩壊する日本の公教育

プロフィール

鈴木大裕×前川喜平


鈴木大裕(すずき・だいゆう)
1973年、神奈川県生まれ。教育研究者。16歳で渡米し、1997年コルゲート大学教育学部卒業、1999年スタンフォ―ド大学教育大学院修了。帰国後、千葉市の公立中学校で英語教師として勤務。2008年に再渡米し、コロンビア大学教育大学院博士課程で学ぶ。2016年、高知県土佐町へ移住、2019年に町議会議員となり、教育を通した町おこしを目指しつつ、執筆や講演活動を行なっている。著書に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)など。

前川喜平(まえかわ・きへい)
1955年、奈良県生まれ。1979年に東京大学法学部を卒業後、文部省に入省。2016年文部科学事務次官、17年に退官。現代教育行政研究会代表、日本大学文理学部非常勤講師、福島市と厚木市で自主夜間中学のボランティア講師も務める。『面従腹背』『権力は腐敗する』(毎日新聞社)『前川喜平「官」を語る』(山田厚史氏との共著、宝島社)『日本の教育、どうしてこうなった』(児美川孝一郎氏との共著、大月書店)『政治と宗教 この国を動かしているものは何か』(島田裕巳氏との共著、徳間書店)など。

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新自由主義と国家主義の圧力を前に、教育は今何をなすべきか