宗教におけるカウンター的役割とは
釈 著作の中で、維摩経における「直心是道場」という言葉を引いておられる。維摩経とは非常にユニークな経典なんです。それまでの仏教思想は基本的には、この世界を否定します。生命活動自体をも否定するようなところがあるんですが、維摩経は「仏の目から見れば、この世界は美しいんだよ」という思想が入っている経典で、その後展開する密教も、言ってみれば全てを肯定するという方向へとひっくり返っていく。つまり、体系化された宗教思想において、強烈なカウンターが起きて、それまでの伝統的な解釈がごろっとひっくり返ったりする。そこが思想研究者としてはすごく面白いところなのですが、スーフィーはどうですか。そういうところはありますか。
山本 まず、カウンターがあるかどうかですが、スーフィズム内にも強烈なカウンターはあるし、イスラーム思想内にも強烈なカウンターがあります。むしろ伝統宗教の強さって、一つの思想に対してどれだけ強いカウンターがその宗教内にあるかどうかだと思います。スーフィズムの中でも、この世にあるものは全て幻でしかなく、本当に大事なのは神のところに行くことだから、もう現世では何も楽しまないというグループもいました。
釈 なるほどなるほど。
山本 そのうちの一人のスーフィーの修行者は、周りになどまったく目もくれず、ただひたすら自らの罪深さとだけ向き合っていたといいます。ヒヤシンス先生から見れば、これは全く逆の話なわけです。
釈 本当ですね。
山本 でも、ムスリム社会では自分の属している修行グループが重んじている思想が正しいと思う人が多いんですが、重要なのはどの宗派が正しいかではなくて、宗教思想内にどれだけの思想の多様性があるか。お互いを認め合う必要はないし、否定し合う必要はないですけど、取りあえずちゃんと多様性がただそこにあり続けるかどうかというのが強さだと思うんです。
釈 わかります。もう一つお聞きしたいのですが、スーフィズムって、究極的には神との合一を考えるんですか。
山本 スーフィズムの中では、神秘哲学の一部のグループは、最終目標は神との合一だと語っています。それに対してスーフィズム内でも多くの批判があります。スーフィズム全体の思想の中で見ると、スーフィズムの究極的な目標はあまりはっきりとは語られてないと思いますね。そこはあなたが味わってくださいとゆだねている。「アッラーの愛を感じること」、「アッラーと出会うこと」などいろいろ表現はありますが、それが一体何なのかは結局修行者にしか分かりませんから。
失敗を包摂するスーフィズムの師
釈 この本で印象的だったのは、師匠が弟子と一緒に失敗して、失敗しちゃったねと笑って受け止めてくれる。それがスーフィズムのよい師だと書かれている。修行に成功すれば救われて、失敗すれば不幸になるといった価値観ではなく、その教えの中心にあるのは、人間は基本的に弱いもの、間違いを犯す存在であるということ。それでも神によって生かされているんだと気づくことが重要なのだという。そこがスーフィズムの奥深さなのかなと思いました。
山本 そうですね。修行というと、頑張って修行して、いろいろ我慢して、自分を練り上げて、努力して構築するものという観念がありますけれど、人間ってそんな大した存在じゃないので、絶対失敗するし、言うほど立派な修行ができるわけじゃありませんよね。そんなときに、真面目に頑張れというメッセージだけがあると、緊張の糸がどんどんきつく締められていって、しまいには自分の首を絞めてしまうということがある。修行をずっと頑張って、神経が張り詰めて緊張している弟子に対して、いや、そんなに頑張らなくてもええやんと、ぽんと背中を叩いて笑わせてあげる。緊張と緩和みたいなものですね。その緊張をはじけさせて緩和させる役割がスーフィズムにもあって、かつそれを体現するのもマスターです。真面目に頑張れと難しい顔をして緊張させるのも先生だし、いや、そんなに頑張らんでもええやんと笑わせるのもよき師の証です。ご指摘のように、そこがスーフィズム思想の奥深さなんだと僕も思います。
釈 そもそもイスラームは人間は弱いものだという人間観を持っています。スーフィーはそういう人間の弱さをよくよく理解した上で、師に導かれて神の愛を理解していくことを一つ共通項として抽出されているんですね。仏教でいうと、「他力」と表現される仏道があるんですが、それも基本的には、人間は弱いものであり、愚かであるという人間観に基づいて道が出来上がっています。著書で紹介されているイブン・アターイッラーの箴言がありますね。
「過ちを犯してしまったときに自分はもう救われない、と希望を失ってしまうのであれば、それは自らの力を過信している証拠だ」
これはスーフィズムではすごく有名な言葉らしいですが、なるほど、こんなふうに表現できるのかという、そんな思いがありました。
山本 それは箴言の一行目で、一番最初に学ぶスーフィズムの格言です。そこからスーフィズムの教えが始まっていくんですね。人間の気づきの第一歩はそれでなければならないというのが、イブン・アターイッラーの教えです。
『歎異抄』に見る人の傷や恥を包摂する宗教の魅力
釈 『歎異抄』は、親鸞の弟子の唯円が書いたものですが、その第九条にこんな話が載っています。唯円がたまたま親鸞と二人だけになったときに、若き唯円が、高齢の親鸞に対して思い切ってこんなことを言っちゃう場面がある。私は、いくら阿弥陀様に救われるといわれても、全然うれしくないですし、念仏を称えても何の喜びも出てこないんですよと。
すると親鸞が、「おまえもそうか、わしもそうや」と唯円に向かって言う。私は『歎異抄』の著者がこのエピソードをよくぞ書き残してくれたなと思います。この第九条がないと、親鸞がどんな人だったか、分からなかったでしょう。親鸞は自分のことをほとんど書き残していない人なので、弟子がたまたまそうやって書いてくれたおかげで親鸞の人柄が分かります。この本のスーフィーの師匠の箇所を読んで、『歎異抄』の第九条を思い出しました。
山本 そうですね。NHK「100分de名著」ブックスで釈先生が出された『歎異抄』の解説書を読みましたが、やっぱり人の輪郭、傷であったりとか、恥であったりとか、それが声として入っていない真理の言葉って何の魅力もないと思います。
釈 そういうユーモアを利かせたり、揶揄したりすることによって、ちょっと脱力するでしょう。そこでばーっと拡散が起こるんです。宗教の教説って、基本的にぎゅーっとフォーカスするようにできているんです。どんどん凝縮して、一点へとぎゅーっと収縮させると、そこには排除が起こったり、境界が生まれたりするんです。しかし、ユーモアとかからかいでそこをがくっと外すことで、ばっと拡散して緊張がほどける。それはすごく重要なことだと思う。そういう構造になるには、ある程度の年月が必要だし、伝統宗教の懐の深さというか、二枚腰三枚腰のしたたかさみたいなものが求められますよね。だって、原理主義って、笑えないでしょう。
伝統宗教は落語の名人芸
山本 そうですね。原理主義には隙がないんですよ。粋、色っぽさって隙から出てくるじゃないですか。伝統宗教って、落語の名人芸と似ているなと思うんです。落語って内容自体は同じでしょう。それは若手のすごくうまい落語家もいるでしょうけど、やっぱり八十を超えて、実際、何を言っているか分からないような落語家の師匠のほうがげらげら笑えたり、あるいは何とも言えない味があったりしますよね。
あれは内容の正しさや美しさだけではなくて、やっぱり人間が不完全だからこそ、あるいは、完全を求めたその過程の中で生じたほころびや隙があるからこそ、そこに魅力があると思うんですね。
釈 そうですよね。古典落語であればみんなストーリーも知っているし、サゲまで知っているし、分かっているにもかかわらず、同じところで笑ったりしますよね。何より落語って、立派な人が全然出てこないんですね。駄目な人間ばっかり集まって、それを非難するわけでもなく、怒るわけでもなく、みんなで笑っている良さがありますね。
山本 はい。近代に入ってからできた宗教、あるいは伝統宗教から出てきた厳格な原理主義運動は、隙があることが悪いことだとして排除する傾向があります。伝統宗教の中でも、そういうものをそぎ落として、ピュアなものに回帰させようとするけど、いや、隙があるから伝統宗教は奥深く魅力的なのだということをスーフィズムを知ることで理解してほしい。
釈 そうですよね。だって、イスラームというのは、普通に暮らしている人が理解できる教えなんですから、教え自体はすごくシンプルで、誰もが理解し実践できるようにできている。それがイスラームの大きな特徴ですよね。
山本 あれだけシンプルでわかりやすいのに、何で信じてくれないんだろうと悩むムスリムがいるんですが、それは隙のあるいい色気を持った、それを語る「芸人」がいないからだと思うんですね。傷と隙を抱えた、粋な伝え手がいない。それを考えると、唯円の『歎異抄』の九条の役割はとんでもなくすごい。これを読んで、親鸞の教えがすごいと思った人が何億人規模でいると思う。彼がいなかったら、ここまで広まらなかった可能性もあるんじゃないんですか。
釈 そうですね。そういう味のある伝え手が出現すれば、伝統宗教の魅力がもっと身近に感じられるでしょうね。そもそも自分で正解を見つけて生きていけるのであれば、スーフィズムも要らないですし、仏教の教えも要らない。いかんともしがたいものを抱えて、我が身、我が心でありながら、どうにも思いどおりにならない、生きるのが本当につらい、苛酷な人生を生きている人にとって、そこに道が開けているといいますか、思ってもいなかった方向に扉が開く。そこに見えてくる世界が、何となく直感的には分かっても、うまく表現するのは難しいなと常々思っていることを、このスーフィズムの本に書かれている言葉たちによって、ああ、そうかと腑に落ちることがたくさんありました。
また浄土真宗で説いていることはこういうことかなと、逆に向こう側からライトが当たって、こちら側がはっきり見えたりもした。そういう意味ではすごく面白い読書体験をさせていただきました。
山本 こちらこそありがとうございます。スーフィズムの精神には、日本文化に通じるところもたくさんあるので、僕自身未熟ではありますけど、粋なスーフィーの伝え手たちを紹介する役割を少しでも果たせたらなと考えています。
プロフィール
(しゃく てっしゅう)
1961年、大阪府生まれ。僧侶、宗教学者。相愛大学学長。著書に『親鸞の思想構造』(法藏館)、『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ)、『不干斎ハビアン』(新潮選書)、『歎異抄 救いのことば』(文春新書)等多数。『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞受賞。共著に『日本宗教のクセ』(内田樹との共著、ミシマ社)、『いきなりはじめる仏教入門』(内田樹との共著、角川ソフィア文庫)、『異教の隣人』(細川貂々、毎日新聞「異教の隣人」取材班との共著、晶文社)等多数。
(やまもと なおき)
1989年岡山県生まれ。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。広島大学附属福山高等学校、同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究科助教を経て、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。著書に『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』(集英社新書)、内田樹、中田考との共著『一神教と帝国』(集英社新書・2023年12月刊行予定)。主な訳書に『フトゥーワ――イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)等、世阿弥『風姿花伝』トルコ語訳(Ithaki出版、2023年)、『竹取物語』トルコ語訳(Ketebe出版、2023年)、ドナルド・キーン『古典の愉しみ(The Pleasures of Japanese Literature)』トルコ語訳(ヴァクフ銀行出版、2023年11月刊行予定)」等がある。