対談

人間の弱さを包摂する修行道──スーフィズムの本質

釈徹宗×山本直輝

『スーフィズムとは何か』の著者、山本直輝氏は、スーフィズムとはイスラームを味わうための修行道だという。修行といえば苦行を思い浮かべるが、このイスラーム神秘主義の中心にあるストーリーには、人間は弱く、間違いを犯す存在であるという深い人間観がある。むしろ「そんなに頑張らなくてもいいよ」と、挫折や絶望の中にいる人間の肩をポンと叩いてくれる。それがスーフィズムの本質なのだという。宗教学者の釈徹宗氏を対談に迎え、人間の弱さを包摂する宗教とはどんなものなのか。いまなぜ必要なのか。仏教やそのほかの宗教との比較論を交えつつ、伝統宗教の魅力と奥深さに迫る。

構成=宮内千和子 撮影=編集部

トルコにおける民族多様性

 『スーフィズムとは何か』を読ませていただいて、随分面白かったので、今日は興味津々でいろいろ聞かせていただきます。

山本 ありがとうございます。

 その話に入る前に、このところトルコの果たすべき役割、世界における重要性がすごく高まっていると、素人ながら感じることがよくあるんですが、そんなふうに思われますか。

山本 国際政治の観点から、トルコの地政学な重要性が指摘されることは最近増えているとは思います。今、僕自身はトルコの国立のマルマラ大学というところで働いているんですが、その前に、博士課程を終えて最初に赴任した大学がトルコの私立のイブン・ハルドゥーン大学でした。

 イブン・ハルドゥーン、有名な歴史学者ですよね。

山本 そうです。イブン・ハルドゥーンのように世界に影響を与える人文学者を育成したいというビジョンで設立された大学なのですが、そこに赴任してすぐ気づいたのは、外国人留学生がすごく多いということ。とくにアフリカ系、アラブ系が多く、僕がいたころは100%奨学金が出て、学費が無料でした。イブン・ハルドゥーン大学だけではなく、私立の大学では、いろいろなナショナリティーのバックグラウンドを持っている人がこの二十年で明らかに増えて、『The Economist』などのイギリスの雑誌でも、今トルコが再びアラブの中心となったという記事が出ていますね。

 アジアから見ればアジアの端っこ、ヨーロッパから見ればヨーロッパの端っこ、ロシア世界から見ればロシアの端っこ、アフリカから見れば、アフリカの海を越えた先にある場所がトルコであると考えると、その世界の周辺に位置することが逆説的に、トルコが世界の中心的役割を担えることを意味するのではないかと考える人たちも増えています。その意味で、この民族多様性というのは、なかなかほかの国では味わえないなと思います。

宗教の多様性とは何か

 今の与党になってから、イスラームへの回帰というような流れが続いていると思うんですが、多くの留学生が来たり、あるいは海外からの流入移民が来たりすることによって、宗教的多様性という意味ではどうですか。

山本 ここ過去二十年、メディアで語られるときに、トルコがイスラーム化している、あるいは、トルコ政権が親イスラーム政策を取っているとよく言われます。それは一面においては正しいし、一面においては間違っていると思います。今の与党が政権を取ってから20年以上になりますが、それ以前、トルコ共和国はずっと世俗主義政策を取っていて、例えば女性がスカーフ(ヒジャーブ)をかぶった状態では公共の場で働けもしないし、大学に入れもしないという規約があったんです。それが今の与党が政権を取ってから、やっと大学にスカーフをかぶって登校していいと法律が変わったんです。ただ、スカーフをかぶって公共の場で働くことができる、勉強ができる政策に変えるのは、親イスラームな政策ではなく、むしろ僕はいわゆる基本的人権の話だと思うんです。そもそもこれは服装の自由の問題であって、親イスラーム、反イスラームの話ではないと僕は思っています。

 公共の場に宗教を持ち込まないというフランスのライシテ(基本原則)のトルコ版にライクリッキ(政教分離原則)がありますが、その世俗化政策が少し緩んでイスラームへ回帰し、さらにそれぞれの個人の自由を認める方向に動いているんでしょうか。

山本 そうですね。でも、僕がむしろ分からないのが、宗教的なものを持ち込まないという原則で、何でスカーフが宗教的なものになるのかが、いろいろな本を読んでみましたけど、いまだによく分かりません。スカーフをかぶっていないからといってムスリムをやめることにもなりませんし、スカーフをかぶったからムスリムになれるわけでもありません。だからといって他人が「じゃあスカーフを被らなくてもいいでしょ」というふうに法律で強制する権利もないはずです。

 イスラームへの偏見に基づいた見方というようなところはあると思います。

山本 というより、ヨーロッパ人はスカーフをかぶっていないということで、自分の宗教性を表現しているんでしょうか。世俗主義に関して言うと、むしろムスリムが何を宗教的だとみなして、どういう実践をしているかというのが問題ではなくて、むしろヨーロッパの世俗主義というものの定義がすごく曖昧で、歴史も浅くまだあまり洗練されてないのではないかなと私は感じます。

スーフィズムとは、いかにイスラームを味わうか

 なるほど。トルコ事情をお聞きしたところで、本題に移りましょう。私は、スーフィズムって、出家者のイメージに近いものを持っていたんですが、この本のおかげで随分いろいろなことを知って、実に楽しく読ませていただきました。スーフィズムの研究とは、具体的にどんなアプローチになるんですか。

山本 スーフィズム研究は、日本でも、ヨーロッパでも、長年イスラーム神秘主義という枠組みの中で行われてきました。日本では井筒俊彦先生が初めてスーフィズム思想を紹介した人ですが、彼が紹介したスーフィズムは、イブン・アラビーという神秘主義哲学者の思想を基に、一般人が理解できないような深遠な真理を難解な用語で語るというような研究が多かったんです。

でも、僕が大学生のときにシリアやエジプト、トルコ、マレーシア、インドネシア、パキスタン、イギリス、フランス、アメリカなどに旅行して、フィールドワークでスーフィーの生き方に接してみると、そこで実践されていたのは、そうした哲学的なものよりは、日本文化における「修行」にむしろ近いものでした。つまり、日常の中でどうやってイスラームの味をかみしめるか、を考え、実践して生きていく日々のプロセスです。ムスリム社会の中で、その醸成のプロセスを味わう修行を、スーフィー的実践としてたくさん見たので、もし自分がスーフィズムを紹介する機会があるのなら、こちらの方をクローズアップして紹介してもきっと面白いんじゃないかとずっと思っていたんです。

 面白いのは、修行といっても、本当に日常生活がそのまま道につながるというような感じがある。ふだんスーフィーの教えを実践して暮らしている人たちとコンタクトを取ってたくさん取材なさったんですね。

山本 そうですね。中東でもトルコでも参与観察みたいなものはやりました。日常で修行を続けていくのは大きなテーマですが、特別な修行場に行ってする修行というのもある。日本で言えば、武術や茶道と同じようなものです。

 ええ。茶道に(たと)える場面があって、とても理解しやすかったです。空手道場に通っているみたいな、そんな感じでもありますよね。

山本 はい。空手でも、拳法でも、道場に行って、先生について形の練習をするんです。人間の動きやフォームの一つの理想形を学び、その動かし方を自らのものとするためにシミュレーション実験をしていく。でも、その道場でどれほどきれいな形ができていても、家に帰って、首を変な方向にねじ曲げて、寝ながら携帯でネットフリックスを見ていたら、すぐにその形は忘れるだろうし、崩れます。やっぱり重要なのは日常でどれだけ続けられるかですよね。

 なるほど。道というものは歩み続けていくことに意味がある。

『一汁一菜』もスーフィズム的思考

山本 僕は茶道も勉強しているんですけれど、茶道も、茶室の中だけで、お碗を丁寧に扱って、おいしいお菓子を食べてお茶を飲んでも意味がないわけです。茶室を出てからもその礼儀が日常で実践できないのであれば、わざわざそんなしち面倒くさいことをしに茶室に行く必要はないですよね。
あと、この本を書くときに、すごく参考になったのが、『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社、2016年)という本です。

 土井善晴先生の?

山本 はい。土井先生の『一汁一菜』には、非常にスーフィズム的思考に近いものを感じました。本にもメヴレヴィー教団の料理を紹介していますが、この料理もこの教団の修行用の料理ではなくて、日常的にトルコ人が食べている料理です。つまり、修行用の特別な料理を作ることが目的ではなく、料理をする上であるべき身体の動き、その料理に込めるべき祈りを学んで、そこで学んだものを当たり前の日常の中でいかに実践できるかということなんですね。自分のアパートで同じ料理を作ったときも、同じ祈りが込められて、同じ動きができないと意味がない。修行のための特別な食べ物と平凡な食べ物、裕福な人のためのいい食べ物と貧しい人の粗末な食べ物などという区別の世界に生きていては、スーフィズムは理解できない。オスマン帝国の有名なスーフィー詩人の詩に「神は何をなさろうが美しくされる」とありますが、これは神の眼には美醜、好き嫌いなど究極的には無いという意味です。食べ物も同じで、今目の前にある食材を使って作られた粗末にみえるスープの中にアッラーの愛がぎっちぎちに詰まっているんです。当たり前の日常の中にどれだけ祈りが込められるのか、あるいはどれだけ自分の修行の中で得た経験をにじみ出させることができるか。
そして、その食事の受け手が「当たり前に目の前にあるスープ」がありがたいことかを感じることができるか。それが多分、スーフィズムの修行の目的なのではないかなと思います。

日本と通じるスーフィーの説話

 スーフィズムの世界観とは、この本によると、見える、あるいは認知できる世界は虚構であって、本当の姿は、我々の認知の外にあるというお話ですが、基本的には、この世界を肯定するような方向性が強いのか、それとも否定する要素が強いのか。つまり、この世界は虚構であり、偽物であり、人々の思惑や欲望が渦巻いている世界だと見るのか。そんなふうに見えるけど、実は本質的には、もっとピュアで、神の表現そのものなんだとこの世界を肯定するような思想のほうが強いのか、どうなんでしょうか。

山本 それは流派によっていろいろな解釈があるので一概には言えません。日本でも仏教の説話や逸話がたくさんありますよね。僕は岡山出身なので、水墨画の雪舟さまの逸話とか道徳の授業などでよく聞かされましたが、トルコでも子供たちの授業で、オスマン朝のスーフィーの説話や逸話がよく紹介されるんです。

 へえ、たとえばどんなお話なんですか?

山本 メルケズ・エフェンディという有名なスーフィーの修行者がいて、彼の師匠が弟子たちを呼んで、もしあなたが一つだけ世界を変えられるのなら、何を変えたいですかという問題を与えるんです。弟子たちはそれぞれ、イスタンブールは暑いからもう少し涼しくしたい、貧富の差をなくしたい、強いオスマン帝国が永遠に続いてほしいとか言うのですが、その中でメルケズ・エフェンディだけはずっと黙っている。最後にお師匠さんが、あなたはどう変えたいのかと彼に聞くと、メルケズ・エフェンディは、この世の中は全て神が創造して神の大いなる知恵によって動いているのであれば、人間が不幸だと感じたり醜いと感じたものであっても、それには意味があるに違いない。私一人の都合で何かを変えたいと願うことはとても傲慢なのではないか。ならば、私は、この世にある全ての醜いものも美しいものも、中心に置いて任せようと思うと答えた。するとお師匠さんが、「そうじゃ、その答えが欲しかったんじゃ」と言う。

 ほう。トルコの子供たちはそういう説話を聞いて育つのですね。

山本 もう一つ有名なスーフィーの説話があります。ある時、お師匠さんが弟子たちに、この世の中でおまえが一番きれいだと思う花を持ってこいと言う。弟子たちは頑張って、自分が一番きれいだと思うチューリップやバラを持ってきたが、スンブル・エフェンディだけが、枯れてしわしわになったヒヤシンスを持ってきた。お師匠さんが、何で枯れたヒヤシンスを持ってきたのかと聞くと、私もきれいなお花を取ってこようと思ったが、花畑にあった花はみな生きていて、神をたたえるのに忙しそうだった。その邪魔をして折ってしまうと、その花の命を奪ってしまうことになる。ふと地面を見ると、既に折れて、枯れ、死にかけているヒヤシンスが目に入った。せめてこの花にお師匠さまのお慈悲をかけていただきたくて、あなたの目の前に持ってきましたと言った。
 するとお師匠さんは「そうじゃ、その答えが欲しかった」と言う。前の説話と同様、美しい、醜いは人間の価値観でしかない。重要なのは、この世にあるものは全て神の側から見れば、平等であるということだ。ただし、平等であるから全部同じように扱うのではなくて、人間が行為の選択ができるのであれば、醜いと見られているもの、老いや病の中で苦しんでいるものに優しさをかけることも人間にはできる。その優しさも究極的には神から与えられた力なのではないか。

そしてお師匠さんは「おまえの修行は終わった。これからおまえはヒヤシンス先生と名のれ」と言うんですね。スンブル・エフェンディのスンブルはヒヤシンスという意味。それがヒヤシンス先生の由来ですね。

 ヒヤシンス先生のお話も子供たちの心に深く響く説話ですね。

山本 こういうスーフィー説話で説かれている教訓は、日本社会の、一休さんのお話とか雪舟さんのお話と大して変わらないし、一般人の宗教理解というのは、むしろそれぐらいなのですが、それぐらいだから大したことがないのではなくて、それぐらいの理解をちゃんと紹介することが僕は案外重要なのではないかと思っているんです。「それぐらいの理解」を醸成する説話だからこそ美しいんです。

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関連書籍

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スーフィズムとは何かイスラーム神秘主義の修行道
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プロフィール

釈徹宗

(しゃく てっしゅう)

1961年、大阪府生まれ。僧侶、宗教学者。相愛大学学長。著書に『親鸞の思想構造』(法藏館)、『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ)、『不干斎ハビアン』(新潮選書)、『歎異抄 救いのことば』(文春新書)等多数。『落語に花咲く仏教  宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞受賞。共著に『日本宗教のクセ』(内田樹との共著、ミシマ社)、『いきなりはじめる仏教入門』(内田樹との共著、角川ソフィア文庫)、『異教の隣人』(細川貂々、毎日新聞「異教の隣人」取材班との共著、晶文社)等多数。

山本直輝

(やまもと なおき)

1989年岡山県生まれ。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。広島大学附属福山高等学校、同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究科助教を経て、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。著書に『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』(集英社新書)、内田樹、中田考との共著『一神教と帝国』(集英社新書・2023年12月刊行予定)。主な訳書に『フトゥーワ――イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)等、世阿弥『風姿花伝』トルコ語訳(Ithaki出版、2023年)、『竹取物語』トルコ語訳(Ketebe出版、2023年)、ドナルド・キーン『古典の愉しみ(The Pleasures of Japanese Literature)』トルコ語訳(ヴァクフ銀行出版、2023年11月刊行予定)」等がある。

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人間の弱さを包摂する修行道──スーフィズムの本質