プラスインタビュー

一神教は不寛容か? イスラエル・パレスチナ紛争を考える。

―領域国民国家の縮図としてのクドゥス(エルサレム)
山本 直輝
2023年10月22日、イスタンブール、ウスキュダルの駅前の電光掲示板。「我々はパレスチナの隣にたつ」と書かれている。撮影=山本直輝

この原稿はハマスとイスラエルの戦闘が起こる以前、2023年6月8日にトルコのメディアに寄稿されたものです。しかし、その内容は、イスラエル軍が報復の大規模攻撃をガザに繰り返している現在こそ読まれるべき視点をふくんでいるため邦訳に補筆、解説を付してここに公開します。問題なのは宗教なのか? 「多神教と違って不寛容な」一神教が問題なのか? それとも単なる地域問題なのか? そのどれでもない問題の淵源についてのイスラームの視点からの分析。
「現在進行しているイスラエル・パレスチナ紛争を日本の読者が、深く考えるきっかけをこの原稿が提示できていることを願います」(筆者)

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地のあるパレスチナの中心都市クドゥス(エルサレム)の帰属問題は、かつては日本でも左派知識人を中心に盛んに議論されていたが、現在では日本社会でも関心が薄れつつある。その一方で、中国のウイグルの収容所問題は近年日本の右派知識人や活動家の間で「我々日本人にも関係する問題」として議論され始めている。

 しかし正直どちらのケースも、日本人は自分たちのイデオロギーに賛同しない人たちを批判するのに便利なドラマを探しているだけで、イスラーム教徒たちが直面している問題に本当に関心があるとは思えない。むしろ、パレスチナ人やロヒンギャ、ウイグル人が直面する困難に関心を持つ日本人はごくごく稀で、ほとんどの場合、イスラーム教徒に無関心か、あるいは偏見さえ抱いているのではないだろうか。

 日本人の間でよく議論される「一神教は不寛容」というテーマがいい例である。

 彼らによれば、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒がエルサレムの帰属をめぐって争い続けるのは、「唯一の神」しか認めない偏狭さから生じる不寛容さが原因であり、日本のようにさまざまな神の存在が認められる「寛容」な社会では、このような宗教的・政治的問題は生じないらしい。つまり、多神教の方が人間性や精神性の面で一神教より優れているという主張である。

 このような理解は決してアカデミアに限ったことではなく、むしろ我々のような一般の日本人の間にも広く浸透していると言える。クドゥス(エルサレム)問題に対する普通の日本人の理解は大抵こうである「やっぱり宗教は怖い」。

 しかし、「一神教は不寛容だ」という議論も、日本人の優越性を主張するうすっぺらいものに思える。多神教が本当に寛容であるならば、インドのヒンドゥー極右がイスラーム教徒を攻撃している問題をどう説明できるのだろうか。あるいは、その矛盾の例をわざわざ外国に求める必要はない。明治の近代化の中で「廃仏毀釈」運動が起こったのはなぜだったのだろうか。どちらの例も過激で排他的であり、一神教の世界で「多神教は不寛容だ、怖い」という議論が起こってもおかしくはないはずだ。「いやアジア、東アジアには宗教だけでは割り切れない複雑な歴史的・政治的背景があって」と言うのであれば、それは中東にもまったく同じように当てはまるのではないだろうか?

エルサレム旧市街。ユダヤ人が祈りをささげる嘆きの壁と、イスラームのアルアクサ・モスク。写真=AP/アフロ

 クドゥス(エルサレム)問題は、宗教の観点から論じられる限り、日本人には「自分たちとは関係ない」中東の一神教的視野の狭さを確認する事例としか映らないだろう。

 ではこの問題を、「多神教の信者であっても」すべての人間が直面しうる普遍的な危機であるということを示すには、どう説明すればいいのでしょうか。クドゥス(エルサレム)問題は決してアラブ人やユダヤ人、イスラーム教徒だけの問題ではない。実際には、国民国家の枠組みの中で生きる私たちすべての問題である。

 例えば、トルコからエルサレムに旅行するとき、パスポートを持って空港に行き、私たちはイスラエルという「外国」に旅行することになる。ここで、パスポートというシステムを見ていただきたい。トルコのパスポートと日本のパスポートでは、ビザなしで入国できる国の数が違う。同じ人間なのになぜなのだろうか?この差別的な制度について頭のいい人たちの言い訳はたくさん聞いてきたが、個人的にはついぞ合理的な説明に出くわしたことはない。単純なアパルトヘイトである。

 そして、もしあなたがイスラーム教徒なら、この状況はさらに奇妙なはずだ。イスラーム教徒のコミュニティからイスラーム教徒のコミュニティへ旅行する場合、本来ならイスラーム法的にはパスポートは必要ない。さらに非イスラーム教徒(たとえばキリスト教徒)がイスラーム教圏に旅行する場合は、民間のイスラーム教徒個人が発行した安全保障文書(アマーナ)で十分である。これは外国人の短期招聘のビザ申請の身元保証人に似ているが、それよりも個人の権限が大きいのだ。なぜ私たちは、私たちの移動を制限するパスポート制度を受け入れているのだろうか?

 人の移動を制限することは、近代西洋文明が作り上げた「人権」の概念とは本質的に正反対であるはずだ。パスポートは決して「他の国に行くことを許可する」自由のシンボルではない。それは国民国家と国境の概念を受け入れない限り、「他の国に行くことを不可能にする」契約である。これはジョージ・オーウェルの『1984年』で経済省は豊穣省と呼ばれ、国防省は平和省と呼ばれているようなものだ。我々もまた、天井無き牢獄の民である。

 さらに、「エルサレム問題」や「パレスチナ問題」という用語も、この問題の本質を隠すためのトリックともいえる。言い換えれば、エルサレム問題はエルサレムとその住民の現状だけの問題ではない。イスラエルであれ日本であれ、この近代国家を構成するシステムは、私たちの普遍的権利を侵害している。エルサレムの「解放」というものがあるのであれば、それはイスラーム諸国だけでなく、全人類がこの領域国民国家の枠組みから解放されることによって可能となるはずだ。

 このような議論を前にして「あなたはあまりにも抽象的な議論を展開している」と言われるかもしれない。しかし、物事を「自分のこと」と感じるためには、事例を抽象的な要素に還元し、その要素が自分の住む環境にも存在するかどうかを考える思考実験が必要である。 日本でしばしば見受けられる「多神教の方が寛容である」という議論は、無知というよりも、そうした抽象的な思考の欠如から生じているのではないだろうか。

 クドゥス(エルサレム)問題は、現代の西欧世界が、国民国家体制に生きる人々が直面する普遍的な問題について、異なる視点を持つ人々を惑わすために中東に打ち込められたくさびである。私たちは、このくさびに苦しむ人々にどのような人道支援ができるかという観点から考えるべきであると同時に、このくさびを打ち込んだ主体が何であるかを考える抽象的思考の訓練を怠るべきではない。

原題:‟Teritoryal Ulus Devletin Bir Mikrokozmosu Olarak Kudüs

◆筆者解説◆ 

「ムスリムを同じ目に遭わせてはいけない(Don’t let them do it to Muslims)」と言えるまで

「日本人としてクドゥス(エルサレム)の現状をどうお考えですか?よかったら来月の特集に寄稿してください」

 勤務している大学の学生がインターンで働いていたイスラーム系NGOのイベントに参加したとき、その機関紙への寄稿を頼まれた。トルコでは雑誌文化は左派系運動家や作家だけでなく、イスラーム保守派の知識人の間でも重要なメディア発信の手段として発達してきた。イスラーム系文化雑誌の扱うテーマは社会問題や政治、国際関係など手堅いものから最新のファッションや家具、おしゃれなカフェ情報など親しみやすい話題まで幅広い。近年のインフレで紙の値段が高くなったことからオンラインで読めるデジタル雑誌への切り替えも進み、若い編集者たちはインスタグラムなどSNSとの連携もうまく取り入れている。今回寄稿を頼まれた文化雑誌『インシジャーム(調和)』はオンラインのデジタル雑誌で、トルコ国内外の若手の作家や研究者をうまく取り込んでおり、扱うテーマは他の文化雑誌と被ることも多いが、トルコの若い世代が何を考えているのかを追うことができ、私個人も楽しく読んでいる。

 ひとたび外国に出ればどんな国でも同じなのかもしれないが、トルコでも「日本人として~をどう考えるのか」と聞かれることは多い。雑誌やテレビのインタビューも何回も受けたことがあるが、「日本の近代化の是非」や「日本人の宗教観」、「日本のイスラームの歴史」、「寿司って毎日食べてるの?」、「腹切り文化は本当?」などいろんな質問を受け、その都度自分の身には余ると困った覚えがある。

 そして何よりも、インタビューを受けたり雑誌に定期的に寄稿しているうちに次第に気づいたことがある。それは、私は日本人として何をどう考えていて、そしてそれを目の前のトルコ人にどう伝えるべきかを深く考えてこなかったことだ。

 私は日本の歴史や日本文化についてもしっかりと学ぼうとしてこなかったし、いま現在自分が働いている国であるトルコやイスラーム世界、中東についても勉強はしてきたつもりだったが、それはあくまで知識としてであって、そこに生きている人とちゃんと向き合ったことがなかった。

 また、この間トルコで行われた国際研究会に参加したトルコ人の学生が、私にぼそりとこんなことを言った。

「日本人の先生たちは高級なホテルに泊まって、綺麗なレストランで高い食事とおいしいワインを飲んで饒舌に雑談していたかと思えば、翌日の研究会では中東やトルコについてぼそぼそと下手な英語で30分くらい話して、ささっとまた忙しそうに日本に帰っていく。日本人は私たちのことをどう思っているんだろう」

 これは決して日本人だけではない。毎年夏になれば、イギリスやアメリカから有名な大学教授たちが「特別夏期講習」をイスタンブールのいろんな大学で開催し、研究者や学生は10万~20万円相当の参加費を払って参加する。普通のトルコ人学生にはなかなか手の届かない金額である。そこで先生たちは30分から1時間講義をした後、残りの日はイスタンブールや他の街でバカンスに出かけてゆく。

 この「自分たちのことを深くは知ろうとしない、関わろうとしない人たちの振る舞いや言葉、目線」は中東に生きる人たちにとても大きな呪いをかけているように思える。

 中東やイスラームに関する話題で「日本人としてどう考えていますか?」という問いは、純粋な好奇心からくるものもたくさんあるが、同時に私もその呪いをかけてくる人間なのかどうか知りたいという気持ちもあるのだということを最近理解するようになった。

 正直、アラブやトルコを中心に研究をしてきた身でありながら、私はエルサレムの問題について深い知識もない。もっと言えば「自分の問題」としてちゃんと捉えた経験もあまりなかった。寄稿を頼まれはしたが、なんとなくうやむやにしておこうかなと考えていた。そんなとき、ある日アメリカからイスタンブールに移住してきた南アジア系アメリカ人の友人と食事をしていた時、「ジョージ・タケイを知っているか?」と聞かれた。

 私が知らないと答えると、彼は驚いて言った。「ジョージ・タケイだよ! スタートレックのヒカル・スールー(ミスター・カトウ)!僕は彼が好きなんだ。トランプ政権でムスリムへの風当たりが強かった時、日系アメリカ人として抗議してくれたんだ。心細かった時だから、とてもうれしかった。きみは日本人だから知ってると思ったよ。」

 これは2017年当時にトランプ大統領がイスラーム圏7カ国からの米国への入国を制限する大統領令に署名したことを受け、アメリカの日系俳優のジョージ・タケイが太平洋戦争時代のアメリカにおける日系人の強制収容を引き合いに出しながら、アメリカのムスリムコミュニティへの共感と支援を訴えた出来事である。ジョージ・タケイ自身も日系二世であり、強制収容所で生活した経験がある。

 ワシントンポストにジョージ・タケイが寄稿した記事のタイトルは「彼らは私の家族を収容した―ムスリムを同じ目に遭わせてはいけない」だった。

 ジョージ・タケイはアメリカのムスリムが直面している困難を他人事ではなく、自らが受けた過去の苦しみと繋ぎ合わせ、「自分の問題」として、その苦しみの連鎖を断ち切るために動いたのである。言葉でいうと簡単だが、実際に行動に移すとなると想像以上の知性と胆力が必要である。しかしジョージ・タケイのこの活動は、日本本国ではあまり知られていないように思える。実は日本人は中東やイスラームに関心がないというよりも、まず日本と日本人についてあまり関心がないのかもしれないと最近私は感じ始めている。例えば中国系、インド系やムスリムはグローバルなネットワークを築くのに対して、世界各国の日本人会の結束はそれらに比べると圧倒的に弱く、むしろ足を引っ張り合うことも多い。

 そしてイスラエル・パレスチナ紛争についても、メディアやニュースで「中東の宗教が抱える問題の複雑さ」に焦点が向けられることが多いが、そもそも特定の国籍や宗教、あるいは部族制度や地縁、血縁によって構成される様々な「人間の結束力」というものへのリアリティが日本人社会には希薄なのかもしれない。

 一方でトルコは何よりもまず結束がものをいう社会なので、「ファミリー」と見なされれば、少年マンガ『呪術廻戦』の主人公虎杖悠仁をかけがえのない弟として深く愛する腸相ばりに共感し、支え合う。また、トルコは政治イデオロギーで社会が分断されやすいが、一点「アメリカへの嫌悪感情」については国民は大抵一致し、アメリカの支援先であるイスラエルについても国民感情は決していいとは言えない。

 さらにトルコのイスラーム保守派はムスリム共同体(ウンマ)としてのパレスチナ人への同胞感情がプラスされる。「エルサレム、パレスチナの問題はウンマ全体の問題である」とはイスラーム保守派のトルコ人がしばしば唱えるスローガンであるが、今現在トルコのイスタンブール、ウスキュダル地区の地下鉄前には「我々はパレスチナと共にいる」というメッセージが電光掲示板で表示されている。前日にはパレスチナの病院空爆を受けて、何千人というトルコ市民が深夜、イスタンブールのイスラエル大使館の前に集まり、大規模なデモを行って騒然となった。私が勤務している大学の学生たちはパレスチナに共感的で、イスラエル支持の企業のボイコットリストを作ったり、パレスチナへの物資支援の呼びかけを行ったりしている。トルコの多くの大学も、SNSでイスラエルへの非難声明を発表することになった。また10月18日には、エルドアン大統領は、トルコはパレスチナの病院空爆によって命を失ったパレスチナ人たちのために3日間の喪に服すことを発表した。

 このようなトルコにおけるパレスチナへの意識の高さは今に始まったことではない。イスラエルによって封鎖されているガザ地区へ支援物資や援助活動家らを運んでいた支援船団6隻が2010年にイスラエル特殊部隊の強襲を受け、10人が死亡した事件があるが、被害をうけた船はトルコ船籍で、トルコ政府はイスラエルに強く抗議した。この「マーヴィ・マルマラ号襲撃事件」は未だにトルコでは忘れられることなく、去年(2022年)も国営ニュースで取り扱われたほどである。

 人間という個々の実存から離れた、神聖ながらも洗練されてはいない「世間様の空気」のほうが圧倒的に支配的な日本社会において、複雑な色合いを織り成す人間の結束・連帯感を理解するのは難しい。しかし、どこか対岸の火事のように「どっちもどっち」と傍観するよりも、自らが属する国の歴史、あるいは自己の体験を深く見直し、他者も同じような過ちや苦しみを抱えているのではないかと思いを巡らせるプロセスは、けっして無駄ではないと私は考えている。

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プロフィール

山本 直輝

(やまもと なおき)

1989年岡山県生まれ。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。広島大学附属福山高等学校、同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究科助教を経て、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。著書に『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』(集英社新書)、内田樹、中田考との共著『一神教と帝国』(集英社新書・2023年12月刊行予定)。主な訳書に『フトゥーワ――イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)等、世阿弥『風姿花伝』トルコ語訳(Ithaki出版、2023年)、『竹取物語』トルコ語訳(Ketebe出版、2023年)、ドナルド・キーン『古典の愉しみ(The Pleasures of Japanese Literature)』トルコ語訳(ヴァクフ銀行出版、2023年11月刊行予定)」等がある。

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