現役最強王者マルク・マルケス、涙の復帰戦

MotoGP最速ライダーの肖像 2021

西村章

4月16日に『MotoGP最速ライダーの肖像』(西村章・著/集英社新書)が発売された。そこで、今シーズンのMotoGPの世界と、そこで戦うライダーの実像を短期連載でお届けしていく。第3回は、タイトル獲得数6回、現在の最強チャンピオンであるマルク・マルケスだ。昨年、ケガでシーズンを棒に振ったマルケスが、9カ月ぶりにサーキットに帰ってきた。その復帰戦の模様はどうだったのか?

世界中のMotoGPファンが待ち望み注目したマルク・マルケスの復帰レース(写真/MotoGP.com)

 マルク・マルケス(Repsol Honda Team)が復帰を果たす。

 2021年第3戦ポルトガルGPで、世界中が注目したのはこの一点だった。

 戦いの舞台は、同国の南部沿岸に近い、アウトドロモ・インテルナシオナル・ド・アルガルベ。ポルティマオという街に近いことから、一般的にはポルティマオサーキットとも通称される。上り下りの起伏に富んだ、ジェットコースターのようなレイアウトが大きな特徴のコースだ。観る者にとってはスリリングだが、始終フロントが浮き上がるバイクを押さえ込んで走るライダーにとっては、間違いなく肉体的に苛酷なレイアウトで、とくに右上腕骨折と3度の手術で9カ月ものあいだ活動を休止していたマルケスにとっては、試練の会場といっていいだろう。

 まずは今回の復帰に至るまでの経緯を簡単に振り返っておこう。

 マルケスは、昨年7月19日のスペインGP決勝レースで転倒し、右上腕を骨折。翌々日の火曜21日には、負傷部位をチタンプレートとスクリュー12本で固定する手術を行った。しかし、これほどの大きなケガだったにもかかわらず、その週末26日に行われるアンダルシアGPに強行出場の意思を示した。

 このとき、レースをできるほど復調していることを示して参戦許可を得るために、マルケスは医師の前で連続して腕立て伏せをしてみせ、その映像はMotoGP公式サイト等でも公開された。負傷と治療内容、手術からわずか数日後という日数を考えると、常人には到底不可能な行為である。頑健な肉体と精神力を併せ持つ世界のトップアスリートということを()いても、唖然とするほどの強靱な意思、というほかない。

今回のレースのメディカルチェックでも、腕たて伏せによる筋力チェックが行われた(写真/MotoGP.com)

 2013年に20歳で数々の史上最年少記録を塗り替えてMotoGPの王座に就いて以来、圧倒的な強さを見せ続けて、2019年までの7年間で6度の世界王座に就いた〈怪物〉だけに、その所業は人間の範疇を超えている。

 とはいえ、意思の力で肉体の限界を超えようとしても、さすがに生物機能としての限度というものがある。

 金曜の走行をスキップして休養に充てたマルケスは、土曜午前の練習走行にこそ参加したものの、250馬力超のモンスターマシンを四肢で抑えつけて操りながらライバルたちとスピードを競い合うことは難しいと判断し、以後の走行を断念。結局、日曜の決勝レースも欠場した。

 そして、2週間後の8月上旬に開催されるチェコGPへ参戦するために、改めてトレーニングを続けた。しかし、これらの無理がたたって、またしても負傷部位を傷めてしまう。

 骨折箇所に挿入していた固定用プレートに歪みが生じたため、再度手術。以後は慎重なリハビリに専念して、結局、2020年シーズンをまるごと棒に振る結果になった。その後、12月には3度目の手術を実施。結論からいえば、マルケスのライダー人生で治療期間がもっとも長期間におよぶ大きな事態になってしまった。

2013年にMotoGPデビューした頃のマルケス。この年、史上最年少でチャンピオンに(写真/竹内秀信)

 年が明けて今年2月には、Repsol Honda Teamの2021年体制発表会が行われた。マルケスは、この発表会に新たなチームメイトとして加入したポル・エスパルガロとともに出席したが、未だリハビリの途上で、3月上旬にカタールで行うプレシーズンテストには参加しないことを表明。また、プレシーズンテストに引き続き、3月下旬から同地で行われる開幕2連戦も参戦の見通しが立っているわけではない、と明らかにした。

「いま大切なのは、骨がしっかりくっついていると医師に確認をしてもらうことで、OKが出ればリハビリを開始することになる。可能な範囲で少しずつトレーニングを始めているけれども、時間のかかることだから、あまり無理はしないようにしている。骨がしっかりと100パーセントくっついていれば、今度は筋力を戻すトレーニングに取り組み、バイクに乗れるコンディションを作っていく」

 昨年7月の骨折直後に見せた復帰の決意は強靱な意志の発露ではあるものの、やはりあまりにも拙速に過ぎた、ということだ。そして、その代償として治療期間がここまで長引いてしまうとは、おそらく本人も当時は想像していなかっただろう。その試練が精神的に辛いものであったことは想像に難くないが、この経験から彼はどんな教訓を得たのだろう。やや直截すぎる問いではあるが、あえてこの質問をストレートにマルケスに問うてみた。

「もちろん、2020年はあまりいい1年ではなかった。でも、それなりにいくつか学んだことはある」

 マルケスは、穏やかな笑みとともに述べた。

「そのひとつは、終始リスクを取ろうとするあまり、復帰を急ぎすぎたこと。ヘレス(アンダルシアGP)で復帰を狙ったのは明らかな誤りで、結果的にぼくたちはその代償を払うことになってしまった。復帰を狙ったことには様々な要因があるとはいえ、最終的な責任は、大丈夫と考えたぼく自身の判断にある。これは今後に向けておおいに教訓とすべきだけれども、幸いにも今は順調な回復の途上にある」

 結局、マルケスの復帰は2021年開幕戦のカタールGPには間に合わず、翌週のドーハGPも欠場することになった。そして4月10日に、翌週の第3戦ポルトガルGPで復帰を果たすことがチームから発表された。

 このような経緯を経てシーズン3戦目に戦いの場へ戻ってきたマルケスだが、いったいどれほどのパフォーマンスを見せるのかについては、誰にもまったく予想がつかない状態だった。そしてそれは、彼自身にとっても同様だったようだ。

 走行が始まる前の木曜に、公式記者会見に出席したマルケスは

「明日は、MotoGPのバイクに再び乗る、というここまでのリハビリで最も重要なステップ。自分には珍しいことに、胃にしこりを感じるほど緊張している」

 と正直な心境を述べた。

「この9ヶ月間は、またバイクに乗れるかどうかということよりもむしろ、普通の腕に戻るのだろうかという不安に駆られていた。辛い期間だったけれども、常に前向きに考えるように心がけてきた。周りの人々も、再びバイクに乗ることができるように全力を尽くしてくれた。今の目標は、気持ちよく走れるようになること。自分のからだがどう反応するか、バイクにのってどう感じるかは、自分にもチームにもまったくの未知数」

 医師や理学療法士たちの了承を得ている以上、肉体的にはある程度のレベルまで戻していることは間違いないだろう。むしろ、問題はメンタル面の準備だ。肉体面の仕上げとともに、緊張感と集中力を最高度に研ぎ澄ませて精神を戦闘態勢のレベルへ持っていくことができるのかどうか。それは、マルケス自身にとってもたしかに不安要素のひとつではあったようだ。

「世界の頂点で皆はプレシーズンテストと開幕2戦をすでに走り、精神的にも万全な状態になっていると思う。でも、自分はまだそこまでには達していない」

 正直にそう告白し、だからこそ、この週末のレースではとくに目標を設定していないのだとも話した。

「とにかくバイクに乗りたい。何らかのリザルトを目指すプレッシャーを感じるかもしれないけれども、いまはまずバイクに乗りたい」

 しかし、そこはいままで幾多の試練を乗り越え、数々の超人的な業績で世界を瞠目させてきた、超弩級の能力の持ち主である(その詳細は『MotoGP最速ライダーの肖像』第5章をご参照いただきたい)。きっと今回も、常人の想像を遙かに超えるようなパフォーマンスを発揮するのではないか。そんな期待と予感をはらみながら、ポルトガルGPの週末がスタートした。

 MotoGPの各大会では、金曜午前・午後、土曜午前の3回、45分間の練習走行を行い、そのタイムを遅い組(Q1)と速い組(Q2)のふたつに振り分けて、土曜午後に各15分の予選を実施する。そして、この予選のタイム順によって、日曜の決勝レースに向けたグリッド位置を決定する。

 面白いのは、この各15分の予選では、まず最初に行う遅い選手たちによるQ1で上位2番手までに入った選手はQ2への進出権を得る、というところだ。つまり、練習走行でタイムを出せなくてQ1に落ちてしまったとしても、そこで充分に速いタイムを出して上位2名のスポットに入れば、Q2でポールポジションを争うことができる、というわけだ。このシステムがあるために、遅いライダーたちで争うQ1もスリリングな興趣が高まる仕組みで、観る側の関心を惹きつけるという意味ではよく練られたアイディアといっていいだろう。

 だが、走る側としては、Q1でふたつのスポットを争ってQ2に勝ち上がるよりも、Q2へダイレクト進出できたほうがラクであることはいうまでもない。そのためにも、金曜午前から土曜午前までの3回の練習走行でしっかりとタイムを出しておく必要がある。

 この金曜午前の練習走行1回目で、もっとも大きな注目を集めたのは、もちろん、マルケスだ。このセッションでは、前夜に降った雨の影響により、走行直後はコース上の数ヶ所にまだ湿った場所が残っていた。そのため、全選手がやや慎重な走り出しになり、やがて時間が経過して路面が乾いてゆくにつれ、皆が徐々にタイムを上げていく、という展開になった。

完全に本調子とはいかないまでも、復帰戦で果敢な走りを見せるマルケス(写真/Honda Racing Corporation)

 この状況は、久しぶりの走行で少しずつペースを上げていくことを計画していたマルケスにとってむしろ奏効したといえるかもしれない。やはり史上最年少記録を更新し、6回のMotoGPチャンピオンを獲得してきた経歴は伊達ではない。前日に話していた慎重な口ぶりとは対照的な、というよりも、むしろ大方の予想どおり、ともいうべき驚異的な走りを見せた。

 セッション開始直後の走り出しこそゆったりとしたペースだったものの、終了直前には乾坤一擲の走りで最速タイムを叩き出した。このときは、おそらくストリーム中継や放送を観ていた世界中の人々が思わず声をあげたことだろう。最終的には他の選手2名がわずかに上回ったために3番手で終えたが、それでもトップタイムから0.251秒という僅差である。

 午後の練習走行2回目は6番手タイムで、初日を終えた段階での総合順位は6位。この日は最速を記録した選手がやや抜け出した格好になったが、6番手のマルケスは3番手や4番手の選手と僅差で遜色ないタイムであるところをみれば、上々の初日といって差し支えない。

 一日の走りを終えて、マルケス自身も、

「とても意義深い一日で、全身で満喫できた。路面状態があまりよくなかった走り始めのときから、正直言ってとても愉しくバイクに乗ることができた」

 と、満足げに振り返った。右腕の状態に関しては、以下のように述べた。

「フィーリングという点では午前のほうが午後よりも、腕の状態がフレッシュでパワーもあった。午後は、腕をウォームアップするのに少し苦労したし、疲労感もあった。でも、未知数なのは、これからの週末で腕がどうなっていくかというところ。筋肉に負荷をかければかけるほど、力は入らなくなっていくだろうから、明日の朝に起きたときの感覚が果たしてどうなっているか。場合によっては乗り方を変えて対応することにもなるだろうし、このコースは肉体的にもキツいサーキットなので、しっかりと明日に備えたい」

 

 翌土曜日は、午前の練習走行3回目で多くの選手が前日のラップタイムを更新する。走行を重ねてデータを多く獲得することで、コース特性やライダーの好みに合ったバイクの細かなセットアップが前進し、ライダー自身もコース攻略を進めていくからだ。初日の金曜は総合6番手で終えたマルケスは、他の選手たちと比較してタイムの詰め幅が少なく、結局、このセッションを終えて総合順位で15番手。予選は遅い選手たちで競うQ1に割り振られることになった。すでに説明したとおり、このQ1で上位2番手までに入って勝ち上がり、Q2へ進出できなければ、決勝レースに向けたグリッドポジションは低い位置からのスタートになってしまう。

 この予選が始まる前の土曜午後早い時間帯には、30分間の練習走行4回目が行われる。このセッションは予選の組分けに影響する計時セッションではなく、しかも翌日の決勝時刻とほぼ同じ時間帯で路面や大気の温度条件が近似していることから、各チームは日曜のレースを想定したペース調整を行う。ある程度の周回を走行した中古タイヤを装着して、摩耗した状態でのマシンの挙動やラップタイムの安定度をシミュレーションするのだ。

 この練習走行4回目で、マルケスは前年のポルトガルGPで優勝した選手の背後につけて走る様子をしばらく見せた。自分自身は昨年ここのレースを走っていないだけに、いい走りをする選手を後ろからチェックすれば、相手のマシン特性やライディングのクセなどを観察することができる。ブレーキングや加速するポイントの参考にもなるし、前の選手を風圧避けとして利用することもできる。さらには、あえて背後につけることで相手にプレッシャーを与える、という目論見ももちろんあるだろう。

 それがさらに顕著に出たのは、この練習走行4回目のあとに行われた予選Q1だ。

 マルケスだけではなく、昨年のチャンピオン、ジョアン・ミル(Team SUZUKI ECSTAR)もこのQ1に組み込まれていた。そのミルの後方を、マルケスは自分の存在を誇示するかのようにピタリとつけて数周走った。ミルも、数回後方を振り返ってそこにマルケスがいることを確認している。このときの様子について、一日の走行を終えたあとにミルは以下のように話した。

「あんなふうに誰かに後ろにつかれるのは、たしかにあまり気分のよいものではない。でもまあ、そうしたものだし、マルクは以前からああいうゲーム(心理戦)を仕掛けてくる。こちらが停まれば後ろで向こうも停まるから、場合によっては危ないこともありえる。だから、気にせず攻め続けるのがいいし、そういうふうに対応した」

 これは英語での質疑応答の際に話した内容だが、その後にスペイン語で話したときには後方に張りつかれることの不快感をさらに露骨に述べた。

マルケスに予選で後ろに張りつかれた2020年チャンピオン、スズキのジョアン・ミル(写真/MotoGP.com)

 一方、マルケスはこの事情を以下のように説明する。

「後ろにつくと、そのライダーを不愉快にさせることはわかっている。でも、それはぼくの体調が万全なときに、皆がぼくに対して何度もやってきたこと。この週末はずっと単独で走ってきたけど、Q1では自分はどこで損しているのか知るためにも誰かについていこうと思って、それで世界チャンピオンを選んだ。Q1では最もうまく乗っていたのが彼だったし、コースインしたら彼が前にいたからそうさせてもらった」

 このQ1にはマルケスの弟、アレックス・マルケス(LCR Honda CASTOROL)も走行していた。アレックスは昨年からMotoGPに昇格してきた選手で、兄弟でともに走った最初のレースでは兄が転倒して骨折し、リタイアとなった。したがって、今回が初めて兄弟揃って完走を目指すレース、ということになる。マルケスは、このミルとの一連の駆け引きについて説明した際に、弟についても少し言及している。

「もちろん、あのとき弟を選ぶこともできた。弟なら後ろについても文句は言わないだろうからね。でも、ぼくはベストの選手を選んだんだ」

 そう言って笑った。

 結局、Q1のトップタイムはマルケスでミルが2番手となり、ふたりはQ1からQ2へ進出した。そのQ2では、マルケスはミルのチームメイト、アレックス・リンスとも牽制しあう場面があった。Q2の大詰め、最後のタイムアタックへ出るとき、ピットボックスを出るタイミングが同じになり、ピットロード出口でマルケスとリンスの2台はそれぞれ相手を先にやろうとするような動きを見せた。結局、マルケスが先に出て、それぞれ単独で最後のタイムアタックを敢行した。

 リンスはそのときの様子を面白そうに笑顔で振り返った。

「最後のアタックのとき、マルクはこっちを待っていた。ピットアウトするときは60km(ピットロードの制限速度)で並んでいたけど、あれはまあいわば、これから出走する競走馬みたない状態だよね。マルクはそういうところ、すごく頭が良い。ぼくも少しずつ、そういう経験を積むようにはなっているので、彼のやり方もちょっと使うことはあるけれども、大事なのはそういうときでも相手に対してお互いに敬意を持って対応するということだと思う」

 リンスが寛容な態度でそう話したのは、この予選で2番手タイムを記録してフロントローを獲得したことによる機嫌の良さとも無縁ではなかったかもしれない。

スズキのアレックス・リンスも予選Q2でマルケスとの絡みが。予選は2位と好調も、決勝は転倒リタイア(写真/MotoGP.com)

 一方のマルケスだが、このリンスとの牽制合戦になる直前、ピットを出て行くためにマシンに跨がる際には、右腕を何度も振ったり曲げ伸ばしをしてストレッチする動作を見せている。やはり、右腕の疲労感は蓄積しているのだろう。

「今日は昨日よりも状態が悪かったけれども、それは医師や理学療法士がすでに予想していたこと。骨は大丈夫で痛みもないけど、筋肉はくたびれているし肘も疲れるし腕も張る。筋力の疲労度を説明するのは難しいけど、ジムでも左と右で負荷を変えてトレーニングをしていた。でも、バイクでは右にも左にも荷重がかかる」

 このポルティマオサーキットは、右コーナーが9つであるのに対して、左コーナーは6。どうしても右腕への負担は大きくなる。この負荷の左右差について、マルケスは以下のように説明をする。

「大きな違いはポジション。左コーナーでは、自分が欲しいだけのフロントタイヤのフィーリングをしっかりと感じることができて、思いどおりに扱うことができる。でも、右コーナーはブレーキングでうまく加重していけなくて、体のポジションも適切ではないので腕でうまく支えることもできない。

 明日の決勝は、とても長い25周になると思う。レースを愉しみたいけれども、きっと愉しめないだろうし、むしろ辛く感じると思う。でも、そうなるだろうことはここに来る前からわかっていたことだから」

 マルケスの予選タイムは6番手。グリッドポジションは2列目最後の右端から、翌日の決勝レースを迎える。

 

 日曜の決勝レースは、現地時間午後1時に始まった。

 ポールポジションはファビオ・クアルタラロ(Monster Energy Yamaha MotoGP)。マルケスはスタートをうまく決めて4番手で1コーナーへ飛び込んでいき、ひとつポジションを上げて3番手とした。

素晴らしいスタートを決めポジションアップしたマルケス(左から3台目、No.93)(写真/MotoGP.com)

 右腕の状態は完璧ではないと話していたものの、やはり、決勝レースになると常人の域を超えた力を発揮してトップ争いを繰り広げるのか。

 そうも思わせたが、2周目には何台ものマシンとライダーにオーバーテイクを許し、7番手まで位置を下げた。その後も1周経るたびにじわじわとコンマ数秒ずつ、しかし確実に前方との差が広がっていった。

 全25周の戦いを終え、優勝を飾ったのはクアルタラロ。2位はフランチェスコ・バニャイア(Ducati Lenovo Team)で、3位に現チャンピオンのジョアン・ミル。マルケスは、クアルタラロの13.208秒後に7位でチェッカーフラッグを受けた。

ヤマハのクアルタラロは2戦連続優勝でランキングトップに(写真/MotoGP.com)

 2020年7月19日に、スペインGPの決勝レースで転倒し、右上腕骨を骨折した日から数えて273日目。2019年最終戦バレンシアGPで優勝のチェッカーフラッグを受けてから、518日ぶりに通過するゴールラインだった。

 マルケスが7位でレースを終えてから約4.7秒後に、弟のアレックスが8位でゴールラインを通過した。昨シーズンにアレックスが最高峰クラスへ昇格して以来、初めて兄弟揃って受けるチェッカーフラッグだ。復活を目指す兄の苛酷な苦闘を最も身近なところで見てきた弟にとっても、この数ヶ月は長い月日であったことだろう。

 自分の数秒前で完走のチェッカーフラッグを受けた兄の姿について、アレックスはレース後に「全然ハッピーじゃない」と憮然とした表情で述べた。

「あんなやつ、くそったれだよ。だって、初めて一緒に走ったレースで負けちまったんだから。ずっと後ろから追いかけているのに全然追いつきやしない。だから、『なんだこの野郎』って、ヘルメットの中でずっと罵りっぱなしだったよ」

 そういって破顔した。肉親だからこそ言える、最大級の賛辞だろう。

 チェッカー後、クールダウンラップを終えてピットロードへ戻ってきたマルケスは、チームのガレージ前で待ち受けるメカニックやチームスタッフたちの拍手に迎えられてホンダRC213Vを停止させた。マシンから降りてヘルメットを脱ぐと、ボックス内の定位置にある自らの椅子に腰を下ろし、うつむいた。そして頭を抱えるように前髪を摑み、うなだれまま、掌で何度も目を擦った。

レース後、チームスタッフに健闘を讃えられた(写真/Honda Racing Corporation)

復帰レースを無事に終え、感極まって涙が(写真/Honda Racing Corporation)

「ぼくは(本当の)感情を裡にしまっておくタイプの人間だけど、ピットボックスへ戻ってきて、メカニックたちの姿を見たら、気持ちを抑えることができなくなった」

 このとき突き上げてきた感情について、マルケスはしばらく時間が経ってから少し照れたような笑みを泛かべて振り返った。

「この日を、MotoGPのレースを走り終えることを、ずっと待ち焦がれていた。自分はMotoGPライダーなんだという実感を摑みたいとずっと夢見て、今日、ようやくそれを達成できた。だから、ボックスへ戻ってきたときは疲労困憊していたけれども、溢れる気持ちをもはや抑えることができなかった。……でも、いいものだよ」

 昨年7月に、骨折と手術の数日後にもかかわらずレースへ復帰しようとした鋼の意志。その結果、治癒をこれほどまで長引かせてしまった自らの過ちを認める廉直な心。そして、苛酷と知りながらも真っ正面から復帰に向かおうとする勇烈な胆力。この9ヶ月の間、いくつもの難事が立ち現れるたびに彼の表層へ浮かび上がってきたそれらのありようを見る限りでは、マルク・マルケスという並外れた才能の容器を律しているのは、不撓不屈や不羈(ふき)ということばで表されるような、なにか尋常のレベルを超えた強靱な心身、つまり簡単にいってしまえば、〈怪物性〉とでもいったものに要約されてしまうようにも見える。

 しかし、常人からは遠くかけ離れたようにも見える彼も、レースを終えてピットボックスへ戻ってきたときに見せた、安堵によるのであろう涙を抑えきれなかった姿に表れているとおり、じつは誰もがごく当たり前に感じ不安や底の見えない(おそ)れにずっと晒され続け、押しつぶされそうだったのだろう。

 逆境を克服することとはつまり、己の弱さと正面から向き合い、それをすべて引き受けて呑み込みながらなおかつ前へ進もうとする魂の姿の()いなのかもしれない。

 第3戦を終えて、今回のレースで優勝したクアルタラロは61ポイントでランキングトップに立っている。一方、7位でゴールしたマルケスは9ポイントを獲得したため、ふたりのポイント差は52。開幕戦と第2戦でマルケスが優勝〈しなかった〉ポイント数にほぼ等しい、ともいえる。2021年シーズンは、このまま予定どおりにレースが実施される場合、あと16戦が行われる。1戦あたり25ポイント、つまり最大で獲得できる400ポイントが、選手たちの間で今後どのように分配されていくのか。それが2021年のドラマを形づくってゆくのだろう。

 

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

 
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