再び優勝する日はいつ? MotoGP日本人ライダーの軌跡

MotoGP最速ライダーの肖像 2021
西村章

4月16日に『MotoGP最速ライダーの肖像』(西村章・著/集英社新書)が発売された。そこで、今シーズンのMotoGPの世界と、そこで戦うライダーの実像を短期連載でお届けしていく。第4回は日本人ライダーの歴史。折しも、5月2日に開催された第4戦スペインGPで、中上貴晶が4位入賞という自己最高位タイの成績を収めた。この中上に至るまで日本人ライダーたちの軌跡を紹介する。

 日本人ライダーでMotoGPクラス初優勝を達成したライダーは、宇川徹だ。

1996年から2000年までロードレース世界選手権250ccクラスを戦い、2001年に500ccクラスへ昇格した宇川徹。2002年までの2年間、レプソル・ホンダ・チームに所属した

 2002年、二輪ロードレース最高峰の技術規則が2ストローク500ccから4ストローク990ccのMotoGPへ大きな変化を遂げたシーズンに、第2戦南アフリカGPで達成した快挙である。

 MotoGP時代の初戦となったこの年の開幕戦は、篠突く雨のなか、鈴鹿サーキットで開催された。レースを制したのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった天才青年バレンティーノ・ロッシだ。MotoGP元年の初戦、という記念碑的なこの1勝は、誰の目から見ても無敵に見えたホンダとロッシのコンビが勝つべくして勝ったレースといっていいだろう。

 その2週間後、第2戦の舞台は南アフリカ。首都ヨハネスブルグから南東へ車で3時間ほど走った街にあるウェルコムサーキットでレースが行われた。土曜の予選を終えて、ポールポジションは大方の予想どおり、ロッシ。決勝も、当然のように本命視されていた。

 しかし、勝ったのはロッシのチームメイト、日本人選手の宇川だった。

 全28周のレースで、序盤からレースをリードしていたロッシは、残り9周となったところでちらりと後ろを見て、直後につけていた宇川を前に出した。その後、狙いどおりにラスト3周でインを差し、再び宇川の前へ出てレースを支配しようとしたものの、最終ラップで宇川に仕掛け返される展開になった。結局、僅差で宇川が優勝。ロッシは0.932秒差の2位という結果に終わった。

 このレースの翌戦、第3戦スペインGPのヘレスサーキットで宇川に優勝記念のロングインタビューをした。インタビュー場所は、この年に宇川とロッシが所属していたレプソル・ホンダ・チームのホスピタリティ。この当時のホスピタリティは、現在のようにトレーラーを並べてその間に建材を用い、プレハブ風の豪壮な建築物をこしらえるスタイルではなく、昔ながらの巨大な野外テント設備だった。

 2週間前のレースについて、終盤の駆け引きを訊ねると、

「250cc時代にもああいうレース展開は何度もあったので、ラスト2~3周で仕掛けてくるだろうなということはわかってました。だから(残り9周でロッシの前に出されたときは)ぼくも様子を見て、全開にはしていませんでしたよ」

 と、冷静なことばが返ってきた。

「彼はたぶん、(ラスト3周で再び前へ出て)ぼくを引き離すつもりで一気にタイムを上げたんですよ。それでもピタリとついていったものだから、たぶん焦ってブレーキングでミスをしてリアがスネーキングした。それでちょっとふらついたときに、ぼくが彼のインに入っていったんです」

 このレースは、ロッシの手の内を冷静に読んでその隙を巧みに突いた宇川の戦略勝ち、というべきだろう。だが、勝負に敗れたロッシは、レース終了直後から「柔らかいタイヤを選択していたので、限界だった」と敗因を釈明し、何度も何度も「自分がミスをしたから負けたんだ」と連発した。完璧にレースをコントロールしていると思っていたのに予想外に敗れてしまった悔しさが、彼の全身からまるで湯気のように立ちのぼっているかのようだった。しかし、認めることがどれほど口惜しくとも、事実は事実である。

 当時のロッシは23歳。破竹の快進撃を続けて無敵の天才ぶりを見せつけていた時期だ。それだけに、自らの能力を(たの)む自意識の強さが露骨に表出してしまうものやむを得ない年齢だったのかもしれない。一方、勝った宇川はこのとき28歳。あてつけがましくも見えるロッシのこの悔しがりかたを「彼はもともと、そういうキャラですから」と、冷静に受け止めた。

2ストローク500cc最後のシーズン(2001年)を16戦11勝で制したロッシは、この当時、自他共に認める世界最強の天才青年だった(写真/竹内秀信)

「だって、負けると悔しいじゃないですか、相手が誰であっても。だから、そういうエクスキューズを作りたくなるものなんですよ。自分自身のことを考えても、そうだと思いますもん」

 このときから2年ほど遡る250cc時代を振り返ると、ロッシが毎戦毎戦、自由自在なレース運びで勝利を重ねていく一方、宇川はロッシに翻弄されて2位で終わるレースばかりが続いた。あまりの不甲斐なさに、「いったいどうすれば勝てるのか……」とことばが途切れて涙を滲ませたこともあった。

「そりゃあ悔しいですよ。いいようにもてあそばれるレースばかりでしたからね」

 苦笑交じりに当時をそう振り返った宇川は、

「250cc時代はマシンが違っていて、彼はアプリリアでぼくはホンダだったので、自分の中でエクスキューズを作っていたとも思うんですよ、『彼のほうがマシンがいい』って思ってしまうことができるから。でも、(MotoGPで)同じホンダに乗るようになった去年(2001年)頃から、やつのポテンシャルはすごいな、と感じるようになりました」

 そう話してロッシを「天才肌のライダーだと思います」と素直に認め、自らについてはは「なにごともコツコツ続ける努力型」だと述べた。ただし、その努力も、努力すること自体に価値があるのではなく、結果が出てこそ意味がある、と言明するところは、やはり、勝利と敗戦の大きな落差を何度も味わってきた経験ゆえだろう。

「努力だけなら誰でもできるんですよ。努力って、結果が出たからはじめて実るものであって、だからその意味で、〈努力する〉ということはじつはとても難しいことだと思うんです。いま、こうやってインタビューしてもらえるのも、南アで勝ったからじゃないですか。結果が出たから『努力しました』といえるんで、これでもし結果を出せていなければ、みんな『なんで宇川が……』ってきっと思いますよね。イヤな言い方をすれば『1戦勝ったくらいでなんだよ』って言うヤツだっているかもしれない。でも、与えられた条件のなかで一番になるのは、何であれすごいことだとぼくは思うし、そういう意味では達成感もあるけれども、でもまだこれは16分の1にすぎないわけですから(※当時は年間16戦で争われていた)」

 このインタビューを行ったのは、レースウィーク初日の金曜日だった。翌土曜日には、チームのメインスポンサーである国際的燃油企業レプソルがプレスカンファレンスを行った。レプソルの本拠地はスペインで、同国出身の選手たちを数多く支えている。このカンファレンスにも、125ccクラスや250ccクラスに参戦するスペイン人選手たちが出席し、ロッシや宇川と並んで着席して会見に応じた。

 会見が始まる前、ロッシは宇川と反対側に坐る125ccクラスや250ccクラスの選手たちの方を向いて愉しそうに談笑し、一方の宇川は黙ってスタンバイしていた。これは後年、ロッシが会見などの場でライバルたちに対してしばしば見せた典型的な示威行動で、現代風の表現を援用するならば、〈パドックカースト〉を見せつける行為、とでもいえばいいだろうか。

 会見が始まると、選手たちは1本のマイクを共用して手渡しながら順にコメントを述べていった。マイクを渡す際にも、宇川とロッシは互いに目を合わそうとしない。シーズンの抱負について話す宇川が「前戦の南アではいいレースをできた」と述べたくだりでは、ロッシは片頬を歪めて笑みを泛かべてみせた。それらの様子からも、互いにかなり意識をしていることが見て取れた。

 翌日の日曜、決勝レースはロッシが優勝し、宇川は3位で終えた。そしてこの後もロッシの快進撃が続いてMotoGP元年を制した詳細については『MotoGP 最速ライダーの肖像』でも記したとおりだ。

 宇川は2002年に優勝1回、2位2回、3位6回を獲得し、シーズンをランキング3位で終えた。翌2003年はサテライトチームに移籍してランキング8位。2004年以降はホンダの開発活動に従事し、日本GPなどにスポット参戦をする傍ら、2004年と2005年の鈴鹿8時間耐久ロードレースで優勝。計5回(1997年、98年、2000年、04年、05年)の8耐優勝は、未だに破られていない最多記録である。2018年と19年には、全日本ロードレース選手権と鈴鹿8耐で、ホンダのファクトリーチーム、チームHRCの監督を務めた。

 

 2002年以降のMotoGP黎明期には、じつに多くの日本人選手たちが様々な陣営から参戦をしていた。加藤大治郞、阿部典史、青木宣篤、原田哲也、清成龍一、芳賀紀行、中野真矢、玉田誠……、錚々たる顔ぶれは、やがて中野と玉田のふたりになり、玉田は2007年限りで、中野も2008年いっぱいでMotoGPのパドックから去った(玉田と中野のMotoGP時代の活動詳細については、上述書籍11章と12章をそれぞれご参照いただきたい)。

 MotoGP黎明期の日本勢を支えた選手たちがいなくなったあと、2009年に高橋裕紀がホンダのサテライトチームから最高峰クラスへ昇格した。このシーズン唯一の日本人選手である。

最高峰クラスの挑戦は半年足らずで終わった高橋裕紀だが、2010年から13年までMoto2クラスを戦い、現在は全日本ロードレースに参戦している

   この2009年は、いわゆるリーマンショックの影響で世界経済が大不況の波に浚われた年だ。米国の投資銀行リーマンブラザーズが2008年に経営破綻したことに端を発する世界的不況の連鎖は、MotoGPのパドックも直撃した。MotoGPを運営するDORNAスポーツ社は、金曜午前のセッションを取りやめ、走行回数を減らすことで関係各方面の経費削減対策を講じた。

 それでもスポンサーの撤退やレース活動を休止するチームが相次いだ。高橋の所属するチームも、ご多分に漏れず深刻な影響を受けた。チームは資金力のある東欧系企業を新たにスポンサーとして受け入れ、その見返りのようにスポンサーの国籍の選手をシーズン途中から参戦させて高橋を解雇した。高橋にしてみればとんだとばっちりで、いわば寝耳に水の玉突き事故のような事態である。

 シーズン途中にシートを失い、行き場をなくした高橋は途方に暮れた。そんなあるとき、「どうしてわたしのところに相談に来ないんだ?」、そういってパドックで高橋に声をかけてきた人物がいる。エルベ・ポンシャラル――、かつて中野真矢が所属し、その後、阿部典史や玉田誠も所属したTech3チームのオーナーマネージャーだ。ラテン系国家の文化で育った人々のなかには、義理がたく情に篤い気質を備えた人物が少なからずいる。フランス人のエルベ・ポンシャラルは、そんな典型的気性の持ち主で、長身の苦み走った甘い風貌は、まるでジョゼ・ジョバンニの小説に出てきそうな雰囲気もある。

 ポンシャラルに窮地を救われた格好の高橋は、2010年にTech3レーシングからMoto2クラスへ参戦。第7戦カタルーニャGPで優勝を飾り、続く第9戦チェコGPでも2位表彰台を獲得した。

 

 高橋がMoto2クラスから復帰を果たした2010年に、最高峰クラスへ昇格を果たしたのが青山博一だ。青山は、中排気量クラスが2ストローク250ccで争われる最後のシーズンとなった2009年に同クラスのチャンピオンを獲得した。青山以降、日本人選手はどのクラスでもチャンピオンを獲得していないため、現状では青山が日本人歴代最後のチャンピオン、ということになる。

2009年に250ccクラスを制し、翌年からMotoGPへ昇格した青山博一。現在はイデミツ・ホンダ・チーム・アジアの監督として、Moto2とMoto3クラスで陣頭指揮を執る

 青山は、次代を担う選手の育成を目的としてホンダが始めたスカラシップ一期生として2004年に世界の舞台へ挑戦するチャンスを摑み、250ccクラスへの参戦を開始した。そのときのチームメイトがダニ・ペドロサで、それ以来ふたりが篤い友情を育んできたことは、上記書籍にも詳述したとおりだ。

参戦初年の2004年、初開催のカタールGPで3位表彰台を獲得。レースはセバスチャン・ポルト(中央)が優勝した。ダニ・ペドロサ(左)は2位

 青山の翌年にスカラシップを獲得して250ccクラスへやってきたのが高橋で、最高峰へのステップアップは高橋のほうが1年早かったが、上記の事情により挑戦は半年足らずで終わることになった。高橋と入れ替わるように最高峰へ昇格した青山は、挑戦初年の第5戦イギリスGPのウォームアップ走行で転倒して脊椎を圧迫骨折。第10戦まで5レースの欠場を強いられた。第11戦インディアナポリスGPから復帰したものの、最高峰クラス初年度のシーズン前半に欠場を強いられた影響は大きく、年間ランキングは15位で終えた。

 翌年は、ホンダ陣営の中で前年と別のサテライトチームへ移籍。マルコ・シモンチェッリがチームメイトになった。このシーズンは、第2戦スペインGPで4位。表彰台まで0.466秒差という惜しいレースだった。以後は数戦でシングルフィニッシュを果たすが、シーズンを終えてランキング10位。この年限りでいったんMotoGPを離れて、翌年はSBK(スーパーバイク世界選手権)へ活動の舞台を移す。2013年にふたたびMotoGPへ復帰、翌2014年までの2シーズンを戦った。その後、ホンダの開発活動などに従事し、2018年からはMoto2とMoto3クラスのHonda Team Asia監督に就任。グランプリに挑戦する日本やアジアの選手たちの橋頭堡として、後進の指導や育成にあたっている。

 

 青山がMotoGPからSBKへ戦いの場を移した2012年は、最高峰クラスにシーズンを通じてフル参戦する日本人選手はひとりもいないという、やや寂しい一年になった。しかし、そんなシーズンでも、きわめて鮮烈な印象を残すレースを戦った日本人がいる。

 最終戦のバレンシアGPに代役参戦し、2位表彰台を獲得した中須賀克行だ。

2012年最終戦のひとコマ。ブリヂストンのモーターサイクルレーシングマネージャー山田宏(左)も、ヤマハの先輩にあたる吉川和多留(右)も、そして中須賀自身も表彰台は予想していなかった

 2008年と09年に全日本ロードレース選手権でチャンピオンを獲得した中須賀は、このときすでに日本ではヤマハのエースライダーであり、MotoGPの開発活動にも従事している。2012年のMotoGP最終戦は、ファクトリーライダーのベン・スピースが負傷欠場となったために、中須賀の代役参戦が決定した。ちなみに、このMotoGP最終戦が行われた11月上旬はすでに全日本ロードレースの全日程が終了しており、中須賀は3回目の全日本タイトルを手中に収めていた。

 土曜の予選を終えて、中須賀は16番手タイム。翌日日曜の決勝は6列目からのスタートだ。ちなみに、ポールポジションはホンダのダニ・ペドロサ。2番グリッドには、前戦オーストラリアGPでチャンピオンを確定させたヤマハのホルヘ・ロレンソ。そして3番グリッドは、このレースを最後に現役活動から退くケーシー・ストーナー。錚々たる顔ぶれがフロントローを占めている。

 日曜の午後2時にスタートした決勝レースは、雨の後で路面が濡れている難しいコンディションだった。全選手がウェット用のタイヤを装着した状態でグリッドについたが、やがて周回を重ねるにつれ、コース上のレーシングラインが徐々に乾きはじめた。選手たちがそのライン上を次々と走行するため、タイヤが通過するその部分の路面だけが乾いてゆく。

 このような状況になると、ルール上では、選手たちはウェット用タイヤを装着したマシンからドライコンディション用の溝がないスリックタイヤのマシンに乗り換えることが許可されている。戦況と路面の様子を見極めながら、選手たちは三々五々ピットへ戻って慌ただしくマシンを乗り換え、ふたたびコースインしてゆく。

 スリックタイヤのバイクに乗り換えた後も、路面が乾いているのはタイヤ1本分の理想的なレーシングラインのみで、少しでもそのラインを外せばアスファルトにはたっぷりと湿り気が残っている。溝のないスリックタイヤでは、あっというまに文字どおり足もとをすくわれて転倒してしまう。

 この難しいコンディションで、後方スタートの中須賀は序盤にうまくポジションを上げた。そして、さらに順調に順位を上げてゆく。

レースは全30周の戦いだが、13周目にはトップを走っていたロレンソが濡れた路面にタイヤをとられて転倒。ペドロサがトップに浮上した。中須賀は3番手につけている。

 レースが半分を過ぎたころ、プレスルームの向こう側にあるDORNAのオフィスがややざわつき始めた。メディアマネージャーの女性が部屋から出てきた。プレスルームの入り口あたりで彼女がきょろきょろと周囲を見渡しているらしきことは、頭上のモニターを注視しながらレースの様子をPCにメモしているこちらの視野の隅にもなんとなく映り込んでいた。とくに気にもせず、ペドロサや中須賀のレース展開に注意を集中していると、彼女はつかつかとこちらへ歩み寄ってきて、傍らに立った。

「ねえ」

 そう話しかけられても、正直なところ、このときはトップグループの戦いに全神経を集中したい気持ちが優り、雑談をするような精神的余裕はなかった。

「もしも、このままの順位でナカスガが表彰台を獲ったらインタビューの通訳が必要になるんだけど、よかったら手伝ってくれない?」

「インタビューって?」

「各国のテレビ中継のレース後取材とか、記者会見とか」

 似たようなことは、じつは以前にもあった。

 このときから2年ほど前の2010年。中排気量クラスの技術規則が2ストローク250ccから4ストローク600ccのMoto2へ変更になった開幕戦、カタールGPでのことだ。

 砂漠に囲まれたロサイルインターナショナルサーキットは恒例のナイトレースで、コースを照明設備が真昼のように照らし出すなか、富沢祥也が独走でレースをリードしていた。前年に250ccクラスへデビューした富沢は、それまで一度も表彰台へ絡むことがなかった。このとき一気に才能を開花させた富沢の姿は、おそらく多くの人々にとっては予想外だったのかもしれない。

第2戦スペインGPにて。富沢は開幕戦のカタールGPで優勝した後、このレースではポールポジションからスタートして2位を獲得。同年9月、サンマリノGPの決勝レース中アクシデントにより、19歳の若さで逝去

 富沢が独走を続け、後方との差を一方的に開き続けていた終盤周回に、オフィスから出てきたメディアマネージャーが、プレスルームでこちらの姿を見つけて近寄ってきた。

「ねえ。ショーヤがこのまま優勝したら、あとでテレビ中継と記者会見の通訳をしてくれる?」

「大丈夫だよ、通訳しなくたって。彼は英語を喋れるから」

「ホントに?」

「だって、祥也はチームといつも英語でふつうにコミュニケーションしてるし」

「あ、そうなの」

 十数分後、富沢祥也がトップでチェッカーフラッグを受け、Moto2クラス史上初勝利という歴史に名を刻んだ瞬間、その姿がTVモニターに映し出されたプレスルームでは大きな拍手喝采と歓声が沸き起こった。表彰式を終え、記者会見場にあらわれた富沢は、イギリス人やスペイン人、フランス人、イタリア人など多くの取材陣に囲まれ、笑顔で質問に答えていた。ことばの心配をしていたメディアマネージャーに対してその集団へ目配せし、「ほらな」とかるく首をかしげてみせると、向こうも「そうね」と片眉を上げて見せた。

 そのときと違い、2012年の最終戦に代役としてレースに参戦している中須賀克行の場合は、おそらく彼自身もヤマハの側も、表彰台TVインタビューや記者会見などが必要になろうとは予想をしていなかったのではないだろうか。

 土曜の予選を終えて6列目16番グリッドが確定した段階で、中須賀自身は翌日の決勝に向けた抱負について「レースをしながら自分も少しずつサーキットに合わせてゆき、いま以上のタイムで速く走れるといいな、と思う」「しっかりと決勝を戦って得るものを得ることで今後の開発に活かし、自分自身もスキルアップしていきたい」と話している。これらのことばからも、この段階での彼の目標は表彰台というよりもむしろ、MotoGPのトップライダーたちと一緒に走ることでたくさん吸収して学びたい、という謙虚なものであったことは容易に察しがつく。

 表彰台記者会見で、各国のジャーナリストや大勢のテレビカメラと向かい合う形で壇上の席に着いた中須賀は、

「あー……。こんなことになるんだったら、もっと英語を勉強しとくんだった」

 ぼそりとつぶやいた。

 すかさずその第一声を英語にして、マイクで語ってみた。会場はどっと受けた。隣の席に坐る優勝ライダーのペドロサも、その言葉を聞いて愉快な笑顔を見せた。

「ウェットコンディションから路面はどんどん乾いていったけれども、ドライのラインが一本しかなく、しかもアスファルトの色が黒いので、どこが乾いてどこが湿っているのか、まったく判断がつかず難しいレースでした」

 そうレース展開を振り返る中須賀の横顔を、現役最後のレースを3位表彰台で飾ったケーシー・ストーナーが興味津々といった様子で、隣の席から覗きこむように微笑を泛かべて眺めていた。

 この決勝レースに先だち、日本では中須賀の次男が誕生していた。中須賀克行にとって、公私ともに忘れられないレースとなったことはいうまでもないだろう。

 そして、この2012年第18戦バレンシアGPを最後に、日本人選手は誰もMotoGPクラスの表彰台には登壇していない。

 ちなみに中須賀自身は、この後、2016年まで全日本のJSB1000を連覇、2018年と19年も王座に就いた。鈴鹿8耐でも、2015年から18年まで4連覇を達成する圧倒的な強さを見せている。

 

 現在、MotoGPクラスには、少年時代から富沢祥也の親友でありライバルであった中上貴晶(LCR Honda IDEMITSU)が、2018年から唯一の日本人選手として参戦をしている。今年は最高峰4年目のシーズンだ。

5月2日に行われたスペインGPで自己最高位タイの4位に入賞した中上貴晶。唯一のMotoGPクラスライダーだけに期待と注目は大きい

 昨年は中上にとって飛躍の年で、4位を2回(アンダルシアGP、ヨーロッパGP)、5位を2回(アラゴンGP、ポルトガルGP)獲得している。また、最高峰クラス初となるポールポジション(テルエルGP)も獲得した。日本人選手がポールシッターとなるのは、2004年最終戦バレンシアGPで玉田誠がトップグリッドについて以来16年、レース数にして278戦ぶりのことだった。

 5月2日に決勝レースが行われた第4戦スペインGPでは、表彰台を0.690秒の僅差で逃がす4位でゴールした。チェッカーフラッグを受けてピットボックスへ戻ってきたときは、「序盤3戦で苦労した戦闘力を取り戻した安心感と表彰台を逃した悔しさが入り乱れて」ことばにできない感情があふれ、ヘルメットを脱いだ顔には涙が()かんでいた。

 上で述べたとおり、日本人選手の表彰台登壇は、2012年最終戦2位の中須賀克行以来、8年以上も途絶えている。フル参戦選手、という意味では、2006年第8戦オランダGPの中野真矢以来14年も空白期間が続いている。優勝にいたっては、2004年日本GPの玉田誠以降、289戦ものあいだ日本人選手は誰ひとり表彰台の頂点に登壇していない。

玉田誠が2004年日本GPで優勝してから16年が経過した。2020年シーズンに、日本人選手が表彰台の中央に登壇する場面を、はたして我々は目にすることができるだろうか(写真/竹内秀信)

 昨年の2020年シーズンも何度か、表彰台を惜しいところで逃した中上が、先日の第4戦で見せたトップレベルの安定感を今後のレースでも継続して発揮できるならば、十数年越しのこれら不名誉な記録をストップさせる日はそう遠くないのかもしれない。そんなふうに思わせる頼もしさが、今の中上からはそこはかとなく漂っているように感じる。

 そして、これらの〈連敗記録〉に終止符が打たれたところから、日本人選手は最高峰クラスチャンピオンという究極の目標へ向かう長いながい道程をふたたび歩み出すことになる。

 

関連書籍

MotoGP最速ライダーの肖像

プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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再び優勝する日はいつ? MotoGP日本人ライダーの軌跡