バレンティーノ・ロッシのいた26年、思い出プレイバック

MotoGP最速ライダーの肖像 2021

西村章

MotoGP最速ライダーの肖像』(西村章・著/集英社新書)発売を記念して、今季のMotoGPと、そこで戦うライダーの実像をお届けしてきたこのレポート。2021年シーズンもついに終了、そして四半世紀にわたってこの世界に君臨してきたレジェンド、バレンティーノ・ロッシも引退ということで、ロッシのレース人生を振り返ることにする。

先週公開された動画「玉田誠×青木宣篤×西村章 MotoGP2021&バレンティーノ・ロッシ引退を語り尽くす」(https://t.co/tBING4dKoT)でもロッシについて話しているので、こちらも合わせてお楽しみください。

1996年開幕戦マレーシアGPから2021年第18戦バレンシアGPまで、26年間432レースに出走、通算115勝を含む235表彰台。少なくとも2戦に1回以上は表彰台に登壇してきた計算になる(写真/MotoGP.com)

「バレンティーノ・ロッシに関することはすでにほとんど語られ尽くしている、といっても過言ではない」

 今年4月に『MotoGP 最速ライダーの肖像』を刊行した際、第1章・バレンティーノ・ロッシの冒頭に記した一文だ。

 しかし、本当にそうだっただろうか。

 この文章を最初に書いたのは、「WebSportiva」で連載を開始した2020年初夏のころだった。この段階では、現役選手として活動を続けるバレンティーノ・ロッシの天才性やスター性、モチベーションの源泉などさまざまなエピソードは、たしかにあらかた語り尽くされていた感がある。

 新型コロナウイルス感染症の世界的流行に翻弄されて変則的なスケジュールだったこの2020年シーズンを終え、2021年の開幕時には、42歳のロッシが果たして翌年以降も現役を継続するのかどうか、ということが最大の注目事項のひとつになった。

 それからの8ヶ月間、彼の一挙手一投足、そして彼が発することばのひとつひとつは、いままでにないほどの重みをもって受け止められた。そして、11月14日の第18戦バレンシアGP決勝レースで10位のチェッカーフラッグを受けた彼は、26年間におよぶ現役活動に終止符を打った。

 この第18戦を終了して2021年シーズンが閉幕したいま、あらためて強く感じるのは、「バレンティーノ・ロッシに関すること」は語り尽くされたどころか、どれほど汲んでも尽きない泉のように、語るべきことはむしろいくらでもあるのだろう、ということだ。

 この最終戦バレンシアGPでは、会場リカルド・トルモ・サーキットのパドックのあちこちでロッシの引退を記念する様々な展示や飾り付けが施され、なにもかもがバレンティーノ・ロッシを中心に推移していった。走行が始まる前の木曜午後4時には、引退直前のスペシャル記者会見が行われた。この会見では、MotoGPクラスの選手たちが揃って最前列に着席した。彼らはその後方に占める我々記者席とロッシの間で交わされる質疑応答の一部始終を見届け、会見が終了すると全員が壇上にあがってひとりずつロッシと抱擁を交わした。そして、ロッシを中央に全員が横一列に並び、あるいは個々に肩を組んで記念写真を撮影した。

木曜夕刻の引退特別記者会見に集合したMotoGPクラスのライダーたち。皆がそれぞれに、ロッシとの特別な思い出を持っている(写真/西村章)

 ロッシとハグし、写真を撮影する選手たちひとりひとりの表情には、同じ競技を戦ってきた年長のライバルに対するねぎらいや感謝と、さらには、彼らがスーパースターに憧れていた時代の童心に戻ったかのようなきらきらした笑顔がひろがっていた。

 前週のポルトガル・アルガルベGPで3位に入った26歳のジャック・ミラーは、その表彰台記者会見の際に、ある質問への回答として

「おいらたちは皆、バレンティーノ・ロッシを目指してこの世界に入ってきたんだ。誰もが9回の世界チャンピオンに憧れ、自分もそうなりたいと思って走り続けてるんだ」

 と述べた。

 25歳のアレックス・リンスは、2年前の2019年、アメリカズGPでロッシと激しいバトルの末に最高峰クラス初優勝を飾った際、

「子供時代からずっと憧れ続けてきたヒーローにガチバトルで勝ったんだぜ。これがどれだけすごいことか、どんなにうれしいか、わかるかい!?」

 そういって雄叫びをあげた。

 また、現在29歳の中上貴晶は、十数年前にMotoGPアカデミーという選抜方式のトレーニングシステムに合格してヨーロッパの選手権を戦いはじめた少年時代、将来の夢を訊ねられて、

「バレンティーノ・ロッシと戦って勝つことです」

 と無邪気な笑顔で答えた。そのときから15年ほどが経過した。今回の会見の1時間ほど前に彼とパドックで話をしていた際、ロッシがこの週末に現役最後の戦いを迎える印象について尋ねてみると、

「彼の引退レースを一緒に走ることができるのは世界でもごくひと握りのライダーたちしかいないので、自分がそのタイミングに合ったことはとても光栄でうれしいです」

 そういっておだやかに微笑んだ。

 引退記者会見を終えた壇上で、ロッシと抱擁し、ことばを交わし、肩を組んで写真を撮るMotoGPのトップライダーたちはいずれも、自分たちのそんな少年時代をきっと思い出していたのだろう。

 このときの記者会見では、一連の質疑応答の後に、世界中のファンから届けられたメッセージビデオが流された。ロッシの引退を祝福し、彼の活躍に励まされた感謝を述べる人々は、欧州諸国はもちろん、北米、中南米、南アジアや東南アジア、日本と環太平洋諸国、アフリカ等々、まさに地球上のありとあらゆるところで”Grazie, Vale!(バレンティーノ、ありがとう) ”と語っていた。年齢層も、高齢者から幼児まで、じつに様々だ。記者席の背後に据えられたモニターに次々と映し出される人々の姿を眺めていると、あらゆる国と地域と跨いですべての年齢層を丸抱えにする、この人物の人気のすさまじさをあらためて目の当たりにした感があった。

 そして、今回この稿を起こすにあたり、その内容をうまくまとめきれないでいる理由についても、すこしわかったような気がした。バレンティーノ・ロッシがMotoGPで戦ってきた26年間を語ることとはすなわち、この競技をずっと観つづけてきた自分自身の26年間を語ることでもあるのだろう。だから、彼の存在そのものの巨大さもさることながら、自分語りが得意ではない己の手に余るところもあって、彼の26年間について記そうとするこの稿をまとめあぐねているのかもしれない。

 振り返ってみれば、そもそも21世紀のMotoGP自体が、ずっと彼と共にあり続けてきたのだ。

 

最終戦のパドックでは、125cc時代からMotoGPまで、ロッシが9回のチャンピオンを獲得した歴代のマシンが展示された(写真/西村章)

 やや余談めくが、MotoGPという呼称が用いられはじめたのは、たしか2000年頃だったと記憶している。最高峰クラスはまだ2ストローク500ccマシンの時代で、競技の名称はWGPという呼称が一般的だった。レースリザルトのシート等にはMotoGPというロゴも印刷されて普及の努力も始まっていたものの、固有名詞として浸透するにはまだほど遠い状態だった。

 それが一気に人口に膾炙したのは、2002年に最高峰クラスを戦うバイクの技術規則が2ストローク500ccから4ストローク990ccに変わり、それに伴ってクラス名称も「500ccクラス」ではなく「MotoGPクラス」と呼ばれるようになったからだ。

 このとき、ロッシはすでに圧倒的な人気と注目を集める華やかな若者だった。1996年に125ccクラスでグランプリデビューを果たし、翌97年にタイトル獲得。98年に250ccへステップアップして99年に同クラス制覇。この時期の活躍については、いまさら詳細を繰り返すまでもないだろう。また、デビュー直後の彼が日本人選手たちになついてその後ろをよくついて回っていた様子は、上記鼎談動画内で青木宣篤氏が当時を回顧しつつコミカルに語る様子にも詳しい。

 

 小中排気量時代もアイドルスターめいた人気者だった彼は、125ccや250ccクラスのときと同様に、500ccクラスでも2年目のシーズンとなる2001年にチャンピオンの座に就いた。つまり、21世紀のMotoGPは、Nastro Azzurro Hondaの目にも鮮やかな黄色いカラーリングで幕を開けた、ということだ。この年の彼に象徴的なのは、鈴鹿8時間耐久ロードレースでも2回目の挑戦で優勝を飾ったことだろう。

2001年の日本GP(鈴鹿サーキット)で、ホンダ500勝という節目を自らの勝利で飾ったロッシ。このカラーリングのNSR500は、いまも人気が高いモデルだ(写真/竹内秀信)

 以前に記した記事等でも言及したような気がするが、この2000年と2001年の鈴鹿8耐には、イタリアから大勢の取材陣が鈴鹿へやってきた。日本でも、ロッシの参戦は大きな注目を集めた。当時の8耐は1980年代後半から90年代前半の圧倒的人気に翳りがさし、観客動員数も大きく落ち込んでいた時期だ。主催者たちは人気を取り戻すためにさまざまな試行錯誤を続けていた。そんな状態のところにレース界の世界的人気者バレンティーノ・ロッシが参戦するのだから、イベントのテコ入れという面でも大きな効果があったことはまちがいない。ただし、日本に限っていえば、この時期のロッシ人気はロードレースファンの間では圧倒的なものになりつつあったものの、モータースポーツ界の外にまでこの過熱が大きく波及する状態にはなっていなかったと記憶する。

 時間の順序で言えば、この鈴鹿8耐を制した数ヶ月後に、このシーズンで最後となる500ccクラスの王座を獲得した。そして翌年からはホンダのファクトリーライダーとして破竹の快進撃を続け、2003年末のホンダ離脱とヤマハへの電撃移籍を経て、移籍後初レースを制してシーズン連覇、翌2005年もタイトルを獲得して5年連続最高峰チャンピオン、という数々の快挙を達成してゆく。ロッシ自身、長い現役生活を振り返ったときに、「自分自身が本当に最強だったのは2001年から05年までの時代だった」と述べている。

 そして、それだけの劇的な時代だったからこそだろう、この時期の彼の周囲には、様々な印象的で象徴的なことがあった。

 たとえば、彼がホンダを離脱しヤマハへ電撃的移籍を成し遂げた経緯は、拙訳書の『バレンティーノ・ロッシ自叙伝』や、その続編となる『使命』などでも詳細に語られている。これらの記述内容はあくまでロッシ側の視点に立ったものである、ということには、ある程度留意をしておいたほうがいいだろうが、とはいえ、契約更改の交渉が噛み合わず両者が袂を分かつまでの過程があまり友好的なものでなかったことは、確かなようだ。それは、年末までの契約を盾に、ホンダが2003年最終戦以降の年内にヤマハでテストすることを禁じる措置に出た一件でも明らかだ。

 このできごとから何年も経って、当時のホンダ陣営でロッシとも深く関わりあったある人物と話をしていたときのことだ。なにげない話の流れのなかで、残留交渉の際に両者の立場が噛み合わなかった理由のヒントになるようなことばが、その人の口から出た。

「バレンティーノって、よく『一緒にバイクを開発する』という言いかたをするじゃないですか。でも、開発を進めるのはあくまで技術者です。彼はその方向性や貴重なヒントを我々に与えてくれる存在だったんですよ」

 この発言の核にあるのは、ライダーと技術者はともに手を携えて協力する立場でありながらも、自分たちは技術者としての職能に矜恃を持っている、という、いわば職人的な発想とでもいうべきだろうか。これに対してロッシは常々、コースに出ればライダー同士が個人で争っていても、競技全体は選手とチーム、そしてそれを支えるスタッフ全員で戦うチームスポーツだ、と主張してきた。その両者のいわば〈思想〉の違いが、あのような別離の形になった、ということなのだろう。

 ここに、現在のヤマハ陣営で開発指揮を執っている鷲見崇宏氏のことばを加えると、両者の立ち位置の違いはよりくっきりと際立つ。

「バレンティーノと働けること、あのレジェンドライダーの手伝いをできることが、自分の喜びであり、誇りにもなっていました。皆が彼の力になりたいと思っていて、それが自分自身の喜びになるという……、それがきっと〈カリスマ〉ということなんでしょうね」(鷲見氏)

ロッシがヤマハへ移籍してきたセパンテストで平エンジニアだった鷲見氏(クアルタラロ左後方)は、彼の引退レースではマシン開発を統括する立場になっていた(写真/YAMAHA MOTOR RACING SRL)

 鷲見氏は、ロッシがヤマハへ移籍してきた2回目のプレシーズンテスト、2004年2月のマレーシア・セパンサーキットで初めてレースエンジニアとして現場へ行き、ロッシの語る言葉に緊張しながら耳を傾けていたという。その人物が、引退のときに開発の陣頭指揮を執っているということもまた、面白い運命の巡り合わせだ。

 ロッシは2021年シーズン後半戦が始まった8月上旬に、今年限りで現役を退く、と発表したが、そのしばらく後に、「これからはテストをしなくてすむ。それが現役を退くことの最大のメリット」と冗談めかして話したことがあった。その際に、最も思い出に残っているテストのひとつは、ホンダからヤマハへ移籍した2004年のマレーシア・セパンサーキットで行ったプレシーズンテストだと述べている。

 ホンダからヤマハへ移籍したこの年、開幕戦の南アで優勝したこと、そしてそのシーズンにチャンピオンを獲得したことの凄味は、当時のヤマハの状況を知らない人たち、とくにこの同時代を経験していない若い年齢層の人々には、実感としてあまりピンとこないかもしれない。簡単に言ってしまえば、ホンダからヤマハへの移籍は〈常勝軍団〉から〈弱小陣営〉へ飛び移る、無謀な試みに等しい挑戦だった。ホンダは過去10年で9回チャンピオンを獲得している。一方のヤマハは1992年のウェイン・レイニー以降、一度もタイトルに近づくことさえできずにいた。2003年に至っては、全16戦48表彰台のうち、たった1度だけ3位を獲得したのみ、という惨憺たる成績だ。

 ホンダのテスト禁止措置から晴れて自由の身になった1月末のセパンテストの様子は、『MotoGP 最速ライダーの肖像』にも記したとおりだが、このときにヤマハが仕切る格好で行われた質疑応答の際、その司会を担当したチーム広報から、

「ヤマハに来たことで、あなたは負け犬(underdog)になってしまったと思いますか?」

 という、そんな自虐的な質問も飛んだ。それくらい、当時のヤマハは、勝てなくて当たり前、と見なされる存在だったのだ。

 この1月のセパンプライベートテストと2月の2回目セパンテストを経て、3月にスペイン・バルセロナで行われた公式テストで、ロッシは遂に全選手中のトップタイムを記録する。この2ヶ月少々で、なにかが水面下でおおきくうねりはじめようとしていた。その原動力になったものは、上記の鷲見氏のことばでよく説明されている。

 この一連のうねりが、開幕戦の南ア・ウェルコムサーキットでのドラマチックな勝利に結実する。

 

2004年開幕戦南アGPの決勝は、MotoGPの歴史に残る最も有名なレースのひとつになった。ここから、伝説はさらに大きく飛翔をはじめた(写真/竹内秀信)

 この開幕戦が開催されるウェルコムは、ヨハネスブルクから3時間少々、ひたすらサバンナを走り続けて到達する小さな都市で、街中にはホテルの数が少なく、我々の宿泊はB&B、いわゆる日本でいう民宿のようなところを利用していた。このB&Bのオーナーはたしか炭鉱を経営する人物かなにかで、家屋の敷地や建屋もとんでもなく広壮だった記憶がある。欧州の取材陣数名も同じB&Bを利用していたが、観戦客の人々も10名弱ほどが宿泊していた。日曜の決勝後は、なにしろ結果が結果だけに、宿に戻っても部屋で明け方近くまでずっと仕事をしていた。翌朝、朝食室に行くと、黄色いロッシ応援Tシャツを着た壮年の男性がいきなりこちらを指さし、

「いいか、ロッシは最強だ。それをおまえの記事に書くんだ、わかったな」

 少し目が飛んだような表情で睨みつけ、そう強い口調で述べた。

 寝不足の起き抜けに、なんで南アのおっさんにそんなことを命令されなきゃならんのだ、とも思ったが、熱心なファンの心情を想像すれば、このレース結果でそれくらい気分が昂ぶって目つきが飛んでしまうほど舞い上がるのも、まあ、わからないではない。

 そんな人々は、このとき世界中にいたことだろう。そして、この年の秋にチャンピオンを決めて〈Che Spettacolo!〉(超劇的!)と記した記念ヘルメットとTシャツを身に纏った姿を目の当たりにした人々は、なおさら至福のような昂揚感を味わったことだろう。ちなみに、ロッシの引退レースでは、VR46アカデミー出身のフランチェスコ・バニャイアがこの〈Che Spettacolo!〉ヘルメットを着用して決勝レースに臨み、優勝を飾っている。これもまた、ロッシが引退してゆく花道を飾る、spettacoloなエピソードだ。

 そしておそらく、この2004年シーズンのドラマチックな展開が契機となって、ロッシ人気はロケットの何段目かが発射されるような勢いで、さらに加速をつけてとめどなく上昇していった。日本でも、たとえば写真家の桐島ローランド氏や俳優の坂井真紀さんなどが、熱狂的なロッシファンとして知られるようにもなった。

 坂井さんとは面識がないが、ヤマハ広報担当者の案内でバレンシアサーキットに来ていた姿を遠目に見かけたことがある。桐島氏とは何度か仕事を一緒にさせてもらった機会がある。ことばの端々からも、氏が心底ロッシに惚れ込んでいることがとてもよくわかった。少しでも多くの人にこのスーパースターのことを知ってほしい、彼が活躍しているこのスポーツはバツグンに面白いのだからできるだけたくさんの人たちに見てほしい、と、彼らが二輪ロードレースとはおよそ縁遠いファッション誌などで熱く語る様子からは、伝道師の殉教心にも似た強い思いも感じ取れた。

 そのように、ファン自らが率先して伝道師たらんと思わせる何かを持っていることが、ロッシと他の人気ライダーを分かつ大きな要素のひとつかもしれない。たとえば、ロッシ現役時代後期のもっとも熾烈なライバルであったマルク・マルケスもまた超弩級の天才で、MotoGPの歴史に残る重要人物だが、〈ジャンル外〉にまで広く影響力を及ぼすタイプではないように見える。そこが、同じ陽性の天才であってもロッシとは異なる最大のポイントだろう。

 ロッシを支えるファン心理に話を戻せば、この熱狂が同じ強さで反対方向のベクトルに働くと、少々厄介なことになる。狂信的で排外的な支持者はどんな場合にも存在するものなのかもしれないが、ロッシの場合はこの傾向も顕著だったように思える。そしてそんなファン心理などを巧みに利用し、ライバルたちを精神的に追いつめる戦術にも用いていたことは、広く知られている事実だ。たとえば、マックス・ビアッジやセテ・ジベルナウとの相剋に、その典型例を見ることができる。ただ、これも度を過ぎてしまえば、眉を潜めざるを得ない事態にもなる。

2004年マレーシアGP、ロッシが公衆の面前でライバルのジベルナウに〈手袋を投げつけた〉瞬間。この詳細は『MotoGP 最速ライダーの肖像』P29~P34の記述を参照されたい(写真/竹内秀信)

 ケーシー・ストーナーやマルク・マルケスが表彰台に上がったときにロッシファンからいつも次々とあがった大きなブーイングは、表彰式典そのものを汚すようでもあり、見ていて美しくもなく気持ちのいいものともいえない気がした。また、2015年最終盤にマルケスとの間に発生した軋轢(この詳細は上掲拙著の第1章ロッシ篇と第5章マルケス篇をご参照いただきたい)の際に、陰謀論めいた口説を振り撒き他選手のファンやレース関係者にさえ絡みついていった姿は、たとえ一部の狂信的な人々の行動とはいえ、けっして褒められたものではない。

 ファン心理の扱いと同様に、彼はメディアの利用術にも非常に長けていた。

 たとえば、こんなことがあった。ロッシがドゥカティからヤマハへ戻ってきた2013年ごろのことだ。

 この当時は「シームレスシフト」というバイクの技術仕様に大きな注目が集まっていた。もとはF1由来の技術で、シフトチェンジの際に従来型よりも滑らかなシフトチェンジを可能にすることで、コンマ数秒を切り詰めていこうとするものだ。F1の技術蓄積が豊富なホンダが先鞭をつけ、ヤマハはこのシームレスシフトに関してはかなり後塵を拝していた。日々の走行後取材等でも、ロッシは折りに触れ、シームレスシフトを早く導入する必要がある、と再三口を酸っぱくして繰り返した。

 そのヤマハ陣営にも、あるときからシームレスシフトが導入されるようになった。とはいえ、まだ完璧に仕様ができあがっていない、という話で、なにがまだ不完全なのか、というその詳細については、企業機密ということもあって、明らかになっていなかった。

 そんな状況のあるとき、ロッシにインタビューをする機会があった。

 様々な質問のなかで、たしかウェット路面で苦戦している理由かなにかを訊ねたときだ。

「ウチのバイクは、2速から6速はこないだからシームレスが入ったんだけど、1速と2速の間だけはまだ、コンベンショナル(古い)な仕様のままなんだよ」

 なにげない口調で、さらりとそんなことばが返ってきた。

 これを聞いたとき、(なるほど、ヤマハが明かそうとしなかった機密とはこの部分だったのか)と、内心ではほくそ笑みたい気分になった。こちらとしては、しめたものである。

 いっぽう、ロッシがこのコメントを発した瞬間、取材に立ち会っていたヤマハ側広報担当者が眉を潜めるような表情で、心なしか雰囲気が少し固くなった気配もあった。彼らにしてみれば、(いったいなにを日本人メディアに明かしてしまっているんだ……)と舌打ちでもしたい心境だったのではないか。

 明らかになったこのシームレスシフトの内実は、もちろんこちらにとっては面白い新情報なのだから記事にする。しかもロッシの口から発せられたのだから、単なる噂や憶測などではない真正の情報である。スクープ、とはいわないまでも、自分が引き出してきたこのニュースは、当時は各所でかなりの話題になった。

 ヤマハとしては、企業機密について口を滑らせたロッシを咎めるわけにもいかないだろうし、ただの噂やデタラメだと否定することもできない。彼らが唯一取り得る対策は、開発をさらに急ぎ、完璧な形のシームレスシフトを一刻も早く仕上げることだ。

 そして、ロッシが狙っていたのはじつはそこにあったのではないか、と後になって思い至った。

 日本人取材者の書くものが流布することで、ロッシたちが苦戦を強いられる理由の一端が明らかになり、それは〈開発急ぐべし〉という遠回しなメッセージとして日本の磐田で働く技術者にも伝わる。そのような外の動きも利用して、内部にいる者たちの尻を叩き、レース現場からずっと要求し続けてきた技術開発をさらに急がせる。それくらいの先読みとコントロールなら、ロッシにとってはお手のものだろう。つまりなんのことはない、我々も彼の策略用の〈手駒〉のひとつとして、ロッシの掌の上で弄ばれていたようなもの、というわけだ。

 全盛期の彼はこのように巧緻な手法で、メディアや自分の身内はもちろん、ときにはレースオーガナイザーさえも、あるときはあからさまなくらい意図的に、またあるときには巧まざる無意識の結果として、人々やものごとを手玉に取っていった。そんなロッシに対して、ライバル陣営や彼を快く思わない人々は「皆がロッシのいいなりで、なにもかもが彼に有利なように動いてゆく」と苦々しげに顔を顰めた。「イタリアの新聞や雑誌では、ロッシ礼賛以外の記事は書けない」と、まるで見てきたようにあざける声もあった。

 だが、彼はけっして自らを取り巻くあれこれを意のままに操れていたわけではない。それは、2011年と12年のドゥカティ時代の低迷を例に出せば明らかだろう。また、2015年の一件では、イタリアのジャーナリストたちが悲しくなるほど辛辣にロッシの行動を批判していたという事実も、イタリア語を解さない人々には知るよしもないことだったかもしれない。

 とはいえ、いまとなってはそれもすべて過去の話だ。

 2015年に関していえば、最終戦までチャンピオン獲得の可能性を残す状態に踏みとどまって4位でゴールしたものの、5ポイント差でタイトルを逃しランキング2位で終えた、という事実の意味が、いまとなってはひたすら重い。

 おそらくこのシーズンが、彼が10回目の世界タイトルを手にする最後のチャンスだった。そして、自分自身でもおそらくそれをよく理解していたからこそ、最終盤2戦であれほど執拗な角逐が発生するに至ったのだろう。

 ただ、どれほど才能に溢れる人物であったとしても、やはり年齢には勝てない。時間は、誰に対しても平等にのしかかってくる。長期的に見れば、この年以降、彼の成績は少しずつ下降線を辿りはじめていった。

 それでも2018年は年間総合3位に踏みとどまった。だが、2019年は7位、2020年は15位、そして現役最後のシーズンになった今年はランキング18位だった。1996年に125ccクラスでデビューして以来、一度も表彰台を獲得しなかったシーズンは今年がはじめてのことだ。最後のレース、バレンシアGPは10位で終えた。

「今年のベストレースだった。とても愉しめた。今日、いいレースをできたことはすごく意義ぶかいと思う」

 レースを終えたロッシは笑顔で最後のレースをそう振り返った。

「世界最速の10名としてライダー人生を終えた意味は大きい。現役最後のレースでもトップテンだった、と後々になっても言うことができるんだから(笑)」

 参考までに、昨年のバレンシアGP決勝は11月15日で、大気温や路面温度などのコンディションも今年のレースとほぼ同様だった。そのときのロッシは12位でチェッカーフラッグを受けている。レースタイムは41分42秒195。優勝者からは19秒717遅れていた。10位で終えた今年の場合、レースタイムは41分28秒949。優勝者からの差は13秒468。レースタイムと優勝選手からのギャップの両方で、今年は昨年の内容を上回っている。

直後を走っていたフランコ・モルビデッリは、「バレを抜こうとしたけれども、隙がなく無理だった」とレースを振り返った(写真/MotoGP.com)

「第17戦を終えた月曜から(最後のレースを目前にした)プレッシャーはあったし、やるべきこともいろいろあったけれども、レースではとにかく力強く走りたかった。自分はまだライダーだから、さ。今日はホントにいいレースをできたと思うし、ミスもしなかった。序盤から最後まで全力で走って、それがすべて噛み合った」

 26年間にわたり世界選手権を戦ってきた42歳のライダーの、432回目となる最後のレースは、けっして下降の一途を辿って終えたわけではなかった。以前よりも好内容で上向きの矢印を示しながら現役活動を終えるのは、自分自身でも述べているとおり、とても意義のあるポジティブな締めくくりかただ。2022年以降の彼は、VR Racing Teamのオーナーとして、コースの外側からレースに関わってゆくことになる。

 そして我々は、バレンティーノ・ロッシという選手のいないMotoGP、という時代をこれから初めて経験することになる。

「バレンティーノ・ロッシとその時代」は、現役時代という第一章を終え、来年からはチームマネージメントという第二章がはじまる(写真/MotoGP.com)

関連書籍

MotoGP最速ライダーの肖像

プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

 
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