返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く

『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿
土居伸彰

『君の名は。』『天気の子』が大ヒットを記録し、日本を代表するクリエイターになった新海誠。新海はなぜ、「国民的作家」になり得たのか。
評論家であり自ら代表を務める会社ニューディアーの事業を通じて海外アニメーション作品の紹介者としても活躍する土居伸彰氏が、世界のアニメーションの歴史や潮流と照らし合わせながら新海作品の魅力を解き明かしたのが、10月17日に発売された『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』である。
本記事では土居伸彰氏が本書の「続き」として、本日11月11日(金)公開の最新作『すずめの戸締まり』について、論考を展開。国民的作家になった新海誠が、新作で見せた新しい世界を読み解く。


『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書)

新海誠はさらに「成長」した

 拙著『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』は、「アニメをひとりで作る」個人作家からスタートして、国民的作家にまで上り詰めた新海誠監督のキャリアとその作品の特徴を、世界のアニメーション史から考えてみる本でした。

 個人作家出身であるがゆえにリソースの配分の仕方が異なること(作画による運動描写よりも言葉、背景、コンポジットを重視する)、さらには、人物に対して背景画が超越することによって現代人の孤独と無力を描き出していること(一方で、その無力な人間を肯定し、励ますものでもあること)が、新海誠監督のオリジナリティだと指摘しました。

 新海監督は「巨大な個人制作」をする作家――たくさんのスタッフの力を借りながらも、今でも制作の最初と最後、つまり脚本と編集を「個人で」やっています――として、初めは個人の心情など小さな物語を語ることからスタートしつつ、『君の名は。』(2016年)以降は震災や気候変動など現代の日本に暮らすものであれば誰もが他人事ではいられない題材を取り上げて力強い物語を語る方向へとシフトしていくことで、どんどんと、活動のスケールを大きくしています。

 2022年10月に出版された拙著で取り上げたのは、『天気の子』(2019年)に至るまでの「成長」の過程でした。出版のスケジュール的に最新作『すずめの戸締まり』(以下、『すずめ』)についてはあとがきで少し触れるに留めていたのですが(8月に刊行された原作小説を読んで滑り込ませました)、この文章は、全4章の本書の続き、「第5章」のテイで、この3年ぶりの新作について、取り上げてみたいと思います。では果たして、『すずめ』はどういう作品だったか。国民的作家となった新海誠が、これまでよりもさらにスケールアップした姿を見せてくれた作品、といえるのではないかと思います。

『すずめの戸締まり』は、地に足がついている

 『すずめ』からは、映画として「分厚い」印象を受けます。これまでの新海作品は、人によっては「軽薄な」印象を持つ演出などがされていました。たとえば、映像と音楽を過度にシンクロさせたり、一度聞いたら頭から離れないフックの強い言葉をチョイスしたり、まるで人間が書き割りのような描写がされていたり(だからこそ、何も特別ではない「私たち」の姿を観客は新海作品に見出してしまうわけですが)、なんだか妙に生々しさを感じさせるフェティッシュな設定があったり、知性よりも本能や生理的反応のレベルに働きかけるような方法論(拙著では、それはまさにディズニーが1930年代に見出したアニメーションの「秘術」であるということを示しました)で出来上がっている部分もありました。しかし、本作においては、そういった特徴が驚くほどに抑制されているのです。

 たとえば、『君の名は。』や『天気の子』で、人によっては気になってしまっていた数々の性的(に解釈できる)モチーフは、『すずめ』にはありません。『君の名は。』であれば口噛み酒や胸をめぐる諸々を通じて三葉に対して性的な目を向けさせるような描写がありましたし、『天気の子』でもヒロインの陽菜や、主要登場人物の夏美に対するセクハラめいたセリフや眼差しなどがありました。対して、高校2年生のすずめには、まったくそういう描写がありません。

 新海作品といえば、フレーズの強さが印象的です。『君の名は。』以降、音楽と主題歌を担当しているRADWIMPSも、それに負けじと、「前前前世」や「愛にできることはまだあるかい」といった一度耳にしたら離れないようなフレーズを連発していましたが、本作ではそれも控えめです(そのかわり、ゲーム・映画音楽の世界で活躍する陣内一真と組んだことにより、RADWIMPSの音世界は、音響としての重厚さと壮大さを獲得しています)。

 『君の名は。』『天気の子』が青臭いほどの瑞々しさを放ち、それによって世の若者をフックに引っかけていたとすれば、『すずめ』において、表面的なキャッチーさは一歩退いたような印象を与えます。

 かといって新海誠が本作でそのユニークさを失ったかといえば、違います。映像全体は、過去作品と比べても断然に力強くなっています。その力強さは、「地に足をつける」ような物語やモチーフの選択と響き合います。女子高生と椅子が日本全国を駆け回る旅は、2時間にまとめられるべく緩急なしで加速するように進んでいきます。扉や鍵を開ける・締める動作が印象的です。扉の開け締めは『君の名は。』でも多用されていて、並行する2つの世界の切り替わりの合図となっていましたが、本作においては登場人物たちを前に進めていくための動力となっています(それが最終的に、「未来を恐れない」という本作のテーマにもつながっていくわけです)。

自分たちの足元を考える――神道のモチーフと日本

 『君の名は。』以降(兆しとしては2011年に公開された劇場用アニメ4作目『星を追う子ども』からあったといえますが)、新海作品は神社や巫女の舞をはじめとして神道のモチーフを好んで用います。それは昨今のスピリチュアル・ブームと響き合うものでもありました。『天気の子』における「ムー」とのコラボからは、制作陣がオカルト的なものにもかなり意識的であることも伝わってきます。一方、本作における神道の要素はファンタジー性を強固にするためのものとして、物語に血肉を与えています。近年、ハリウッド製のアニメーションでも、非欧米圏の神話への着目という傾向がありますが、それと響き合うものにも見えます(新海作品のなかでは『君の名は。』と『すずめ』は明らかにディズニー的な構造やモチーフを活用しており、そういったハリウッドの新傾向への目配せも意識されているはずです)。

 世界的な文脈を考えると、2000年代終盤以降、アイルランドで活躍するカートゥーン・サルーンというスタジオが当地の神話を用いたユニバーサルな子供向けアニメーション長編を3本「ケルト三部作」(『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー うみのうた』『ウルフウォーカー』)として発表し、米国アカデミー賞のノミネート常連になっていたことを思い出します。それは、この激動の時代において、おそらく自分たちの足元を見直すフィクションを提供する試みでしたが、同様のスピリットを、『すずめ』には感じるのです。自分たちが踏みしめる大地について考えるための、頑強なファンタジーを作るのだ、という。

 本作は宮崎県をスタート地点として(主人公の名字は「岩戸」であり、『古事記』に描かれた日本創生の神話とのつながりが暗示されているのは間違いありません)、神戸、東京、そして東北へと進んでいきます。あたかも地震を通じて日本の歴史を問い直す旅路のようでもあります。昭和のヒット曲が流れるなか東日本大震災の被災地を巡る後半の展開は、震災のみならず、昭和を供養しきれていないと暗に語っているかのように読めないこともありません。つまり、自分たちが辿ってきた歴史という「足元」を見つめる、ということです。

『すずめの戸締まり』の驚き――東日本大震災を真正面から描く

 いま、さらりと言及してしまいましたが、『すずめ』一番の驚きは、東日本大震災を真っ向から取り上げているということでしょう。

 本作は、宮崎県に住む高校2年生の少女「すずめ」が、「閉じ師」として日本を地震から守る活動をしている草太との出会いをきっかけに、日本を縦断し、最終的に母親の死と向き合うまでを描きます。すずめは、震災孤児です。シングルマザーで看護師をしていたお母さんを2011年3月11日に起きた未曾有の大震災で亡くしており、その妹(すずめにとっては叔母)である環に養われることになり、九州へと移住しました。すずめは、5日間の旅を通じて、過去の悲劇と再度向き合っていくことになります。

 新海監督と東日本大震災の関係といえば、なんといっても『君の名は。』です。ただしその言及は直接的なものではなく、彗星の落下と、それによって消滅した糸守町の話として展開されています。『君の名は。』は、災害の被害者が復活するという物語を語りました。そのことは、公開当時、大きな議論を呼びました。新海誠は、『君の名は。』に寄せられた様々な反応(とりわけ批判)がその次作『天気の子』制作への大きなモチベーションとなったことを同作の原作小説のあとがきに記していますが、その批判の一部は、震災被害に対するこの扱い方自体に対して寄せられたものでもあったはずです。

 そんな経緯を考えたとき、『すずめ』は、『君の名は。』を別の形で語り直す作品であるのかもしれないと思わされます。本作の原作小説のあとがきでは、新海誠自身がずっとこの震災に衝撃を受け、今でも考え続けているということが書かれています。なぜ被害に遭い死者となったのはあの人たちであって、自分ではないのか。生者と死者のあいだの境界線があまりに根拠なく引かれてしまっていることの不条理を、考え続けているのだと。『すずめ』は、その思いをストレートに物語に落とし込んでいるのです。

 余談ですが、劇場公開少し前から、新海誠が手掛けたマクドナルドのCMが放映されはじめています(拙著は新海誠とCMというメディアの相性の良さについても書いています)。幼いすずめと、彼女のお母さんの二人が、近所のマクドナルドでビッグマックを食べるというものです。これを初めて観たとき、度肝を抜かれました。

 『すずめ』本編の舞台は、2023年9月です(劇中のカレンダーやスマートフォンの表示から、9月下旬の数日間の物語であることが分かります)。すずめは17歳の高校2年生ですから、4歳の頃に震災があったことになります。すずめの立ちふるまいを考えると、このCMの舞台は、震災の少し前なのではないかと推測できるのです。

 度肝を抜かれたというのは、このCMは、『すずめ』本編を観る前と後で、印象が変わってしまう仕掛けになっているということです。作品を観る前は、どこにでもある母と子とのあいだの微笑ましい光景としか見えないでしょう。しかし、鑑賞後には、大災害の少し前の出来事として、震災の死者たちが生前に暮らしていた日常に対する追憶として、ドキュメンタリー性が刻まれることになるからです。

母親は決して返事をしない

 『君の名は。』と『すずめ』は、災害の犠牲者たちの居場所(そしてそれに対するメインキャラたちの立ち位置)の違いによって好対照となる二作品であるといえます。『君の名は。』において犠牲者たちは蘇りますが、『すずめ』において犠牲者たちは蘇りません。『君の名は。』は犠牲者たちの呼びかけに反応し、過去と現在、生と死のあいだを行き来しますが、『すずめ』において生者は死者の空間に足を踏み入れはするものの、死者側のほうからは何も呼びかけてはきません。沈黙を貫くままです。こちらから呼びかけても決して何も応えてくれない死者たちの立ち位置こそ、本作の肝です。

 すずめの母親が、なによりも象徴的です。本作の冒頭は、すずめが常世(死者の世界)で母親と出会うことを予想させるかたちで始まります。すずめと共に旅する椅子は、母親がすずめに対してあげた最期の誕生日プレゼントでした。旅のなかでは、母親の記憶が蘇ります。しかし最終的に、すずめが常世で出会うのは(お母さんを亡くしたばかりの幼いすずめが出会っていたのは)、成長した自分自身だったことがわかります。旅を終えても、すずめの母親はわずかな想起のシーン以外、姿を表しません。思い出が新たに蘇ったりもしません。すずめがいくら泣き叫んでも、高校生になったすずめがいくら涙を流しても、です。

 こんなふうにして、『すずめ』は、生者と死者のあいだに、はっきりとした線引きをするのです。

 

 私自身は、『君の名は。』を初めて観たとき、途中までは、(今回の『すずめ』のような)死者を死者たらしめる物語を語るのだと思っていました。三葉が死者であることがわかり、彗星が落ちて立入禁止になっている町の残骸が映ったとき、この作品はなんてとんでもないことをするのだ、と驚いたことを思い出します。東宝とタッグを組んだ新海誠史上最大級(当時)の作品において、死者の経験を追体験させる物語を描いてしまうのか、と。ただしそれは早合点で、『君の名は。』は死者たちが蘇る奇跡を描くことを選んだわけですが。

 一方、『すずめ』は、生者と死者のあいだに、決して超えることのできない大きな壁があることをつきつけます。死者は決して再び姿を現すことはありません。『君の名は。』の三葉のように生者と体を共有したり、復活して再び動き出すことはなく、過去の回想を再生することでしか現れないのです。数々の死者・廃墟は、後ろ戸が閉じられ、成仏させられるとき、ただ単に草太とすずめに「思い出される」もしくは「想像される」にすぎません。実体を持つことはないのです。コミュニケーションさえも取れません。ただただ一方的に、思い出されるだけなのです。

 すずめの母親についても同じです。かつての被災地で扉が閉められるとき、あの大震災の無数の被災者たちの、この日が最期になるなんて思いもしなかった、あのいつもと変わらない一日の始まりが、思い出されるにすぎません。この展開は、本当にすごいと思いました。本当に、禁欲的に、「想像」の範疇にとどめるのです。

 死者に対するこの距離感は、とてもリアルな形で描かれていると感じました。実は筆者自身も小さなころに母親を亡くしており(すずめに比べるとだいぶ成長してからでしたし、震災とまったく関係ないですが)、最期の瞬間に立ち会うこともできませんでした。本当に何度も何度も、最期の日のことを想像しました。それはやはり想像でしかないという圧倒的な無力感がつきまといます。『すずめ』における死者との距離感は、本当にリアルに感じました。

 『すずめ』は新海誠にとってもおそらく最大規模の作品になっているはずですが、この規模で作られる作品が、死というもののあり方について、単純なお涙頂戴ではあく、こんなにも切実な描写をしたことに対して、最大限の称賛を贈りたい気持ちです。

主要キャラが、世界の片方にしかいない

 『すずめ』は、不均等についての物語です。ある人とある人のあいだには、乗り越えることのできない差があるということについての話です。これは、死者の蘇りがある『君の名は。』や、個人が世界のかたちを変えてしまう『天気の子』にはなかった感覚です。

 これまでの新海誠作品には、宇宙的な孤独を描く傾向がありました。『ほしのこえ』が象徴的ですが、恋人たちは宇宙の果てと果てに引き裂かれます。最も近くにいてほしい人が、最も遠くにいて、手が届かないのです。

 ただし、過去の新海作品は、それを単純な孤独ではなく、引き裂かれた2人のユニゾンというかたちで描いてきました。新海作品においては、遠くに離れていた二人が、まるで量子テレポーテーションのように、同じ思いを抱え、同じ言葉を発します。結果として、新海作品を観る経験は、途方もなく広い宇宙に、自分自身の声が響き渡るような感覚を与えます。その圧倒的なスケールの孤独感がもたらすカタルシスも、かつての新海作品の大きな魅力です。

 『すずめ』は、そうした過去の作品とは違います。死者たちを、自分たちとは完全なる別物にするのです。アニメーションは思いをかたちにして見せることができるメディアですが、『すずめ』は、かたちにできない世界があることを明確に認識します。想起の領域以外に登場しない(三葉のように受肉化しない)母親の存在が、間違いなくそうです。いくら泣いても叫んでも、まるで無響室の壁に声をぶつけたときのように何も返答のない領域が、『すずめ』にはあるのです。

 今までの新海作品は、宇宙の両極、つまり最も離れた場所に主人公たちがいました。一方で『すずめ』は、すずめと草太という双極的な主人公たちは、生者の世界の側にしかいません。草太は死者の世界に入り込みそうになりますが、向こう側まではいかない。新海作品史上初めて、主要キャラたちは世界の片方にしかいないのです。踏み入れることのできない領分があるのです。

『すずめの戸締まり』は何を映像化するのか――映り込む原発

 死者たちだけではありません。生者であっても、世界を共有しない人たちがいることを、『すずめ』は描きます。

 本作は映画公開に先立って、新海誠本人が執筆した小説版が出版されています。基本的な筋書きは変わっていませんから、映画版を観る前に、震災が描かれることは知っていました。読むときには当然、本作がどんなふうに映像化されるのかを想像しました。ミミズとの戦いはこれまた新海作品史上最もダイナミックでスケールの大きなものになることがわかっていましたから、今までよりも予算がかかりそうだな……だとか雑念を持って読んでいました。

 『すずめ』を観たとき、「これが映像化されるのか」と最も衝撃を受けたのは、その戦いのシーンではなく(エヴァの使徒との戦いを思い出すような戦闘で、壮大で良かったですが)、新海誠の代名詞のひとつである、美麗な背景に対してでした。被災地の今が、「美しく」描かれるのです。

 草太の親友の芹澤の運転で向かう被災地の旅の途中、地震を感じ、すずめは芹澤に車を止めるよう言います。扉が開いてしまっている場所があるのではないか、ミミズがいるのではないか、と考えたからです。

 画面の情報から判断すると、その場所は福島県の双葉町近辺です。『すずめ』は、廃墟を探し、悼む物語ですが、そこでは町全体が廃墟になっています。廃墟と地震が合わさる場所には必ずミミズがいた本作において、ここにはいません。この展開にも震えました。ここではただ単に、地震が起こっているのです。『すずめ』は、ここにおいて現実とシンクロします。原発事故の影響で住むことができなくなり、今でも小さな地震に見舞われる場所は、今現在、リアルタイムで、私達の現実に存在しているからです。

 すずめと芹澤は、丘の上から自然に覆われたその町の風景を眺めます。誰もいなくなった廃墟の町と海を眺めたとき、芹澤は「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」と語ります。それに対して、双葉市の住人ではないですが東日本大震災の被災者であるすずめは、これのどこがきれいなのか、と呟くようにして反発します。すると、カメラが動き、今まで見えていなかった福島第一原発の姿が遠くにぼんやりと映り込むのです。

 このシーンにおいて、実景を美しく描くことに執念を燃やしてきた新海誠は、その美しさが孕む両義性に意識的になっています。誰かにとっての悲劇の地が、他の誰かにとっての美しさとして映りうるということ。その皮肉自体は、『君の名は。』でも語られていたものではありました。しかし、災害を忘却していた瀧を主人公としていたその作品においては、その部分はアイロニカルな印象よりもむしろ陶酔の気持ちをもたらしていました。

 『すずめ』は、そんな『君の名は。』をも相対化します。芹澤の声優を、神木隆之介が担当しているのです。言うまでもなく、『君の名は。』で瀧を演じていた俳優です。すずめは、『君の名は。』を象徴するようなその視点に対して、「当事者」として、批判を向けるわけです。

 ここで本作には、生と死に加えて、もうひとつの不均等が生まれます。想像できる人と、想像できない人。思い出せる人と、思い出せない人です。その後のシーンで延々と映される防波堤の存在は、まさに本作が描くこの「不均等」の話を象徴的に語っているようにも思いました。見えることと、見えないこと。生きていることと、そうでないこと。そのあいだには、不条理にも思えるような、大きな壁が立ちはだかっているのです。

「見せられてしまう」ことから始まる想像力

 ただし、本作は、生者たちのあいだのその壁については、乗り越えようと試みます。それは、「見せる」という方法論によってです。

 小説版を読んだとき、東京からすずめの生家へと北上していくなかで、なぜ途中で高速道路を降り、一般道で行くのかと疑問だったのですが、実際の映画を観ると、この道のりを辿り、廃墟となった町や、巨大な防潮堤を「見せる」ことこそが重要だったのだと納得します。このオープンカーの旅自体が、すずめにとって(そして観客である私たちにとっても)扉を閉めるための儀式のはじまりなのです。

 本作において扉を閉めるためには、廃墟となった場所にかつて営まれていた日常を思い出す(聞き取る)必要がありました。すずめが行うのは、自分自身の被災だけではなく、すべての被災地を思い出そうとすることです。それゆえに、前述のマクドナルドのCMがすごいのです。すずめは被災者として何も特別ではないのです。すずめは、被災者の誰でもありうるのです。本作は、喪の経験という、個人的であり、同時に普遍的である経験を語る作品です。すずめは主人公ですが、一方で名もなき個人であり、すずめと同じように大事な人を震災で亡くした経験がある人たちは多く存在します。すずめは何も特別ではなく、でもその特別でなさこそが、すずめの物語を、私たちの物語にしてくれます。本書が繰り返し語ってきた新海誠の「棒線画性」は、『すずめ』において、観る人みなを想起と想像に誘い、他人事にしないようにするのです。

 「見せる」こともまた、その一環です。拙著では、新海誠の作品の特徴を説明するのに、ロシアの映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインの理論を紹介しました。エイゼンシュテインは映画というメディアにおいて、観客に対して「拳で殴るように」直接的に作用を及ぼすことを夢見ました。新海誠の「軽薄さ」――過度なシンクロやねっとりとしたフェティッシュ描写――は、観客の生理的な反応を引き起こすことで、作品世界に観客を取り込んできました。

 前述のとおり、『すずめ』は小手先の軽薄さで観客を惹き付けることをやめ、重厚さによってすずめの冒険を追体験させる方法論を選ぶわけですが、一方で、本作にもし「強制的な」ところがあるとすれば、震災のことを見せるその手つきにあるといえるでしょう。本作は公開前に、緊急地震速報を模した音が鳴ることを「注意喚起」をして話題になりました。突如としてフレームインしてくる福島第一原発もそうでしょう。本作は、「見せられて」しまうという意味での暴力性を孕んでいます。

 すずめの生家の近くにある扉から入った常世の描写も驚かされます。そこは、12年経った今でも、災害の当日のように、燃え続けているのです(震災当日の夜、燃え上がる海と町の映像を観たことを思い出す人も多いと思います)。巨大化したミミズの姿は、津波を思わせます。少し前、それこそ『君の名は。』公開の頃であれば、まだこういった描写は難しかったのではないかと想像します。そういう意味では、新海誠がこのように真正面から震災描写に取り組むためには、時間が必要だったのかもしれません。いずれにせよ、『すずめ』を観ることは、災害を「見せられる」経験であるのは間違いありません。

 見せられる経験によって、『すずめ』はさらなる深みへと、扉を閉める=追悼する儀式へと、私たちを誘っていきます。

 その最後の仕上げとして重要なのが、「閉じ師」である草太です。近年の新海作品には、巫女的な存在が常にいました。日常的なスケールからはみ出した力を宿してしまう登場人物です。本作では草太が、猫のダイジンによって椅子に変えられ、要石の役割も移転させられることによって、そのような存在となります。草太は本作において、死者の世界である常世に最も身を浸します。

 私が本作で最もハッとさせられたのは、草太の走馬灯的な映像です。草太は、要石になっていく過程で、すずめの姿を、その旅路のハイライトを見ます。死にたくない、生きたい、という思いとともに。ここでの草太のビジョンは、おそらく、死が迫ったときのすずめの母親のビジョンでもあるように思います。すずめに対する思いを抱えながら、死の世界へと旅立ってしまった、その最期の瞬間の想像です。草太の経験を通じて、私達が見せられることになるのは、死者たちの世界を、絶対に壁を乗り越えることができないことはわかりつつも、なんとか可能な限り肉薄しようとする行為であり、死者のビジョンを想像することです。

 重要なのは、草太は「当事者」ではないということです。しかし、閉じ師として、見えているものの向こう側を想像しつづけていました。だからこそ、「当事者」であるすずめとともに、犠牲者たちの最期の姿を、3月11日に無数に発せられた、永遠の別れとしての「行ってきます」を、共有することができるのです。

「密輸入」する娯楽作

 『すずめ』の本当の凄みがどこにあるのかといえば、こういった諸々を、エンターテイメントとして見せきることにあるのかもしれません。新海誠は、本作のプレス資料に、震災とその追悼という題材について、深みのある映画を作る人は他にもいるだろうが、こんなにも「楽しい映画体験」として作ることができるのは自分なのではないか、と書いています。

 そう、『すずめ』の凄さは、震災を巡る記憶を取っ払ったとしても、少女と椅子のロードムービーとして、単純なエンタメの構造だけをなぞっても楽しめることなのです。私がここまで書いてきた震災をめぐる様々なディテールはある意味で「深読み」で、こういったことに気づかずに本作を楽しみきってしまうこともできてしまうのです。それもまた、本作の「厚み」です。それゆえに、震災の記憶をそもそも持たない海外の観客にも、本作は開かれています(そして、このエンタメ経験を通じて、震災の記憶を調べ、紐解こうとする人たちも出てくるはずです)。

 だから、本作が行っているのは、「密輸入」であるともいえます。一流のスタッフたちが集まって作った娯楽大作であり、しかしその作品を楽しみ、すずめに感情移入して、草太と死者のビジョンを想像することは、災害の記憶を観客の身体に留め、埋め込むことでもあるわけです。正直なところ、新海誠がこんなに野心的で挑戦的な作品を、もはや大御所になりつつあるこの段階で作ることになるとは、想像していませんでした。でも、これは、新海誠が「国民的作家」となったからこそできる、新しいかたちの「娯楽作」のあり方なのだといえるではないでしょうか。私たちに、見えないものをやさしく、しかし鋭く、想像することへと誘うのです。

関連書籍

新海誠 国民的アニメ作家の誕生

プロフィール

土居伸彰

どい のぶあき

アニメーション研究・評論、株式会社ニューディアー代表、ひろしまアニメーションシーズン プロデューサー。1981年東京生まれ。非商業・インディペンデント作家の研究を行うかたわら、作品の配給・製作、上映イベントなどを通じて、世界のアニメーション作品を紹介する活動に関わる。
著書に『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)、『私たちにはわかってる。アニメーションが世界で最も重要だって』(青土社)。

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