『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.6〜時を超えた バックラッシュ〜

高井ゆと里×田代美江子×松岡宗嗣
周司あきら

トランスジェンダーへの差別が激化するなか、2023年7月に『トランスジェンダー入門』(集英社新書)、12月に『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育 バッシングに立ちむかう74問』(大月書店)が刊行された。だが忘れてはならないのは、バックラッシュ(反動、揺り戻し)で攻撃対象にされるのは、トランスの人々だけではないということだ。バックラッシュの現状をどう捉え、立ち向かうべきなのか。
『トランスジェンダー入門』の共著者である高井ゆと里さん、『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育』の編著者である田代美江子さんと松岡宗嗣さんの3名が、2024年3月8日にマルジナリア書店に集い、過去と現在を語った。

バックラッシュの共通点

教育学を専門とする田代さんは、2000年代初頭のジェンダーフリーや性教育に対するバックラッシュを間近で体験した。とくにバックラッシュが激化したのは、2003年に都立七生養護学校で行われた性教育の授業内容が不適切だとして、教員らが保守系議員によるバッシングを受けた頃だ。同時期には、東京都の図書館にある「ジェンダー」と名のつく本が撤去されたり、各地の女性センターが閉じたりした。
田代さんは「時を超えたバックラッシュというかっこいいイベントタイトルなのですが、時を超えないでほしいんですけどね」と苦笑。

『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育』では、なぜタイトルに3つのトピックが並んでいるのか。松岡さんは、「そもそも性教育やジェンダーへのバッシングがあり、その延長線で今のトランスバッシングがあるという問題意識」を持っているため、今回の緊急出版に至ったと説明する。

2000年代初頭、性教育や男女平等のための取り組みが阻害されたバックラッシュ言説のなかには、「ジェンダーフリーを認めたら男女同室着替えになる」「人間の男女をなくしたら(雌雄同体の)カタツムリになってしまう」といったものがあった。2020年代のトランスバッシングでも、「トランスの権利を認めたら、男性が女湯に入ってくる」など先と似た言説を用いて、トランスの権利そのものが攻撃されている。
現在の状況について、高井さんは「表にはまだ性教育バッシングとして出てきていないが、トランス差別を利用して、これから性の多様性や包括的性教育が狙われる」と予想。「多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育」の根っこはつながっているからだ。

田代さんは、七生養護学校の教員など原告側が裁判で勝訴したことや、昨今ではむしろ「性教育ブームがきていて、良い部分もある」と異なる見方を提示する。ただし、「性教育などへバッシングがあったことや、なぜそれが攻撃されるのかをきちんと理解しないままいくと、また足元をすくわれる」と危惧する。

なお、自民党のJ-ファイル(総合政策集)では、「過激な性教育、ジェンダーフリー教育」と「自虐史観」は行わせないと明記されている。「これがセットであることに大きな意味がある」と田代さん。高井さんは、「慰安婦」問題をめぐる右翼の歴史修正主義的な主張があり、フェミニズムが女性の人権という観点から「慰安婦」問題を捉えようとしたことに対する反動もジェンダー・フリーバッシングの背景と言えるのではないか、と指摘した。

このように、右派の方が問題の連続性をよく捉えている、という皮肉な状況がある。性の多様性も性教育も、また日本軍が他地域の女性を「慰安婦」と称して組織的に「性奴隷」化した過去と向き合うことも、右派の理想とする「国家」を亡ぼすものとして、阻止する対象にされているのだ。松岡さんは、「性教育や性的マイノリティの権利などの活動がそれぞれシングルイシュー化していると、トランスバッシングなど攻撃された時に束となって対応できずドミノ倒しになってしまう可能性があるのではないか」と語った。

包括的性教育は人権教育

話は「人権教育」に広がった。田代さんは「人権って言葉、嘘くさいと思ってません?」と会場に問いかける。その理由は「学校で人権を大事にされた経験がないのに、人権作文を書かされたり」するという、矛盾した現場の環境があるからだ。戦後日本は、人権をみずから獲得した経験に乏しいため、「正しい答えは求めるけれど、自分の頭でものを考えて表現する機会をずっと奪われてきた」と田代さんは分析する。そのため人権教育が攻撃されても、何が起きているか知らない人や無関心の人が多い。

田代さんは、大学生を対象に性教育の話をする機会もある。しかし、「大学生に性のイメージを尋ねると、ポジティブなイメージが出てこない」という。代わりに「男と女」といった抽象的なワードや、「下ネタ」が挙がる。そうした貧困なセクシュアリティの中で、性にまつわるバッシングは起こる。
その一方で、学生たちに「完璧な男や女はいるのだろうか。あなたは何を根拠に、自分を男や女だと思ってきた?」と尋ねると、考えてもらうきっかけになるという。そこから、差別につながりうる「不当な区別」を減らす工夫がなされることもある。

性教育が阻まれる理由について、「性教育をする・受けるということが、単に身体にまつわる知識を得ることではないと、攻撃する側はよくわかっている」と高井さんは話を続けた。「自分の身体は自分のものだし、自分の人生は自分の人生だ、という権利を持って生きていく人間が教育によって育っていくこと」自体が恐れられているわけだ。

松岡さんは「右派の提唱する社会のあり方をきちんと検証」するよう訴える。右派が「家族が大事」と言いながら一部の家族のあり方ばかり推奨するとき、それによって実際に社会は豊かになっているのか。結局のところ、家族に自助・共助だと責任だけ押し付けることで、かえって子どもを持ちたくても持ちにくい状況になり、地縁が薄くなり、むしろ家族を作りづらい社会になっているのではないか。「家族を大切にといった言葉の響きや上辺のイメージだけにのらず、検証することが重要」と松岡さん。

『トランスジェンダー入門』に関して、田代さんは「それを読んでも、他者化して理解した気になる人はいる。社会の差別的な構造を支えているのは自分たちなんだ、とどこまで学んでいけるのかが大事」と話す。
『トランスジェンダー入門』の共著者である高井さんは、「かつて『性同一性障害』という言葉が広がって良い側面もあったが、一方で、個人の内側の問題にされてしまいがちだった」と振り返る。しかし実際は、個人の問題では済まない。「建物の作り、文化やコミュニケーションなど既存の社会のあり方と、トランスの人々の間にコンフリクトが起きて」おり、女性差別や障害者差別と同じように、偏った前提を変えていく必要がある。

一方で松岡さんは、「個人的な問題ではなく社会の問題なんだ、と捉えることは大切ですが、そこで終わってしまうこともある」と悩みを共有した。「社会という構造を変えていくのは一人一人」であり、「大学時代の恩師からもらった言葉ですが、『湖に小石を投げて水面に波が広がっていく』ような感覚」で一人一人が行動を起こすことが大事だ。

分断をのりこえる

高井さんが「2000年代初頭のバックラッシュで、分断線はどこで引かれたのか」と質問すると、田代さんは「いろいろなかたちで分断される。分断は味方とか敵で起こるわけではない」と回答。いっしょに活動してきた人との間に、溝ができることもある。

自身のスタンスについて、田代さんは「戦うことであまり(攻撃してくる人を)相手にしたくはない。戦っているというより、仲間を増やすスタンス」だという。だから『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育』の「はじめに」のタイトルも、「分断をのりこえて」だ。
トランス女性の権利を守ることは、他の人の権利を蔑ろにすることではない。トランス女性への差別が女性全体への差別や抑圧と似通っていることを踏まえれば、「トランス女性の権利を守ることは、自分の人権を守ることでもある」と田代さん。「人権」はもともと一部の男性にしかなかったが、拡張していったものであり、本来パイを奪い合うものではない。

高井さんはさらに、トランス差別が他の差別と重なり合う課題であることを指摘する。例えば、トランスの人々は「外見がおかしい」という、ルッキズムやジェンダー規範に基づく理由で差別されることがある。また、「来歴がおかしい」などと、過去に歩んできた人生が非典型的であることを理由に差別されることもある。こうした差別の実態はトランスの人とそれ以外の人で共通する課題である。

さらに高井さんは、「トランスバッシングは特定の時間軸を持っている」と言う。バッシングする人は、トランスに排除的な世の中を変えることで「まだ来てないけど、こういう嫌な未来が来てしまう」と煽動する。それに対し、「扇動されているような未来は来ないが、でも未来は変わらなくてはならない。後者も言っていく必要がある」と高井さんは話す。現状は変わらないので安心してください、と単に誤解を解くだけではなく、社会構造を変えるための話も進める必要がある。

昨今よくあるトランス差別言説の一つに、トランスの人々が公衆浴場を利用することに関して、「男性(に見える人)が女湯に入ってくるのか」と過剰に問題視されることがある。このとき、最初からシスジェンダーの健常者が前提で、誰かを排除する「公衆」浴場のあり方こそ問われるべきであって、「公衆浴場法に基づき、厚生労働省は身体的な特徴で区別すると通知を出していて…」とデマに応答するだけで止まってはいけないはずだ。「冷静に考えれば、トランスの人だってお風呂に入りたいはずで、時間帯分けや個別風呂、水着で入れる温泉など施設側の工夫はできるはず」と松岡さんは補足する。

さて、トランスバッシングに対応するにはたくさんのやるべきことがある。ヘイトに反論することもその一つだが、『トランスジェンダー入門』の役割は「ヘイトが広まりそうな人たちに、先回りして知識を届ける」ことだった、と高井さんは説明する。『トランスジェンダー入門』は現在2万部を突破し、好評発売中だ。松岡さんは、このことに「希望」もあると見る。
ただ、高井さんは悲観的な見通しをもっている。「相手が誰であれ、これから私が本当の意味で戦わなくてはならない時がきたとき、先回り的に知識を求めてくれた『トランスジェンダー入門』の読者や、いま手を繋いでくれている人たちが一緒に戦ってくれるかというと、そうではないだろう。戦う人からは距離を置く人が多いから」と。

ここまで読んでくれた人には、トランスジェンダーの権利とそれに連なる「性の多様性」や「包括的性教育」の今後のため、役割分担をしながらも、ときに手を取り合って行動してほしい。今回のイベントでは、バックラッシュをする側だけでなく、性教育やすでにある性の多様性を守る人たちもまた、時を超えて集まったのだから。

(左から)松岡宗嗣さん、田代美江子さん、高井ゆと里さん

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プロフィール

周司あきら

(しゅうじ・あきら)
主夫、作家。著書に『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)、共著に『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)、『トランスジェンダー入門』(集英社新書)。

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『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.6〜時を超えた バックラッシュ〜