コロナ危機 精神の毒にワクチンを

マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)
マルクス・ガブリエル

コロナウイルスによる新型肺炎が世界を揺るがしている。ウイルスによって多くの人の命が奪われているだけでない。不況になり、仕事を失う人々も増え、さらには、アジア人に対する人種差別も増加している。ヨーロッパでは「戦争」のメタファーが用いられ、リベラル派のリーダーたちでさえも、まるでつい先日までの右派ポピュリスト政党のように「団結」・「連帯」の必要を唱え、国境閉鎖や市民行動の監視などを徹底化させている。もちろん、すべては必要だ。だが、次のように問うことも重要だろう。この危機は、どのような矛盾を隠蔽し、抑圧を孕んでいるのか? この危機は、どうすれば好機に変えることができるのか? 以下は、General-Anzeigerというドイツの新聞にボン大学のマルクス・ガブリエルが寄稿したコラムの翻訳である。『未来への大分岐』で彼と議論し共通了解できたポイントを数多く含む内容だ。我々は自然科学だけを信奉し頼っていてはいけない。感染の拡大から始まった世界的危機から抜け出すためには、新しい「啓蒙」を作り出し、システムそのものを大転換する必要がここでも述べられている。

 斎藤幸平(『未来への大分岐』編著者)

 

◆コロナ危機 精神の毒にワクチンを

 マルクス・ガブリエル(哲学者・ボン大学教授)

 世界の秩序が揺らいでいる。裸眼では見えない宇宙のレベルでは、ウイルスが広がっている。それがどれくらいの規模なのかは私たちにはわからない。どれほど多くの人間がすでにコロナに感染しているか、これからまだ何人が死ぬのか、ワクチンがいつになれば開発されるのか、といったことは誰にもわからないのである。また、ヨーロッパの「例外状態」という前例を見ない措置が、経済や民主主義にどのような影響をもたらすかも不明である。

 コロナウイルスは、単なる感染病ではなく、ウイルス学で言うところのパンデミー(英語ではパンデミック)である。「パン・デミー」という言葉は古代ギリシャ語から来ていて、「全・民衆」を意味する。実際、全民衆、つまり、あらゆる人が平等に、このウイルスに感染している。

 ところが、人間を国境のうちに閉じ込めることに意味があると信じる時、私たちはまさにこの「パン・デミー」の意味をまだ理解していない。ドイツとフランスの国境が閉鎖されると、どうしてウイルスが影響を受けるのだろうか? ウイルスを食い止めるために、他の地域から隔離する必要があるとしても、なぜそれがスペインという国家単位なのだろうか?

 普通、答えは次のようなものだ。健康保険制度は、国民国家的な制度であり、国家がその国境内では、病人の面倒をみないといけないから、と。これは正しいが、問題含みでもある。というのも、パンデミーは、あらゆる人間にかかわる問題だからだ。このことが示すのは、私たちはみな、人間であるという見えない絆で繋がっているということなのである。そう、ウイルスの前では、あらゆる人間は、人間なるものとしてみな同じなのであり、ある種の動物にすぎないのである。他の多くの種の生殺与奪を握る主人たることを買って出た種ではあるけれども。

 ウイルスは何を欲しているのか?

 一般的に、ウイルスは、解決されていない形而上学的問題である。ウイルスが生きているのか、誰も知らない。これは、生命とは何かについてのはっきりとした定義がいまだにないためである。実のところ、正確にいって生命がどこから始まるのか、誰も知らないのだ。生命であるためには、DNAやRNAで十分なのか? それとも、自己増殖する細胞が必要なのか? 私たちはその答えを知らないし、植物、昆虫、さらにはもしかすると私たちの肝臓も意識をもっているかもしれない。この地球の生態システムが一つの巨大生物だとしたら? コロナウイルスは、利潤欲求によって数えきれないほどの生き物を殺してきた人間の奢りに対する、この惑星の免疫反応なのだろうか?

 コロナウイルスは、21世紀に支配的なイデオロギー体系の弱点を暴露する。このイデオロギーには、自然科学と技術の進歩だけで、人間的・道徳的進歩を推し進めることができるという誤解も含まれる。この誤解は、自然科学の専門家が一般的な社会問題を解決できると信じるように、私たちをそそのかす。

 コロナウイルスはこのことをはっきりと証明している。ところが、こうした誤解は危険な過ちであることが判明するだろう。もちろん、私たちはウイルス学者に相談しなくてはならない。ウイルス学者だけが、私たちが人命を救うべく、ウイルスを理解し、食い止めるよう助けることができる。

 けれども、もし、毎年20万人以上の子供が、きれいな水へのアクセスがないために、ウイルス性の下痢で命を落としているとウイルス学者が言う場合には、いったい誰が学者たちの主張に耳を傾けているだろうか? なぜ誰も興味をもたないのだろうか?

 残念ながら、答えははっきりしている。そのような子供たちは、ドイツ、スペイン、フランス、イタリアにはいないからだ。とはいえ、この答えは正しくない。というのも、ヨーロッパの難民収容所には、そのような子供たちがいるからだ。私たちの大量消費システムが引き起こした不正義の状況から逃げてきた結果、彼らはそこにいるのである。

 道徳的進歩なしには、真の進歩はない。人種差別的偏見があらゆるところで明らかになることで、パンデミーはこのことを私たちに教えてくれる。ドナルド・トランプは、ウイルスをなんとしても中国の問題として分類したがる。ボリス・ジョンソンは、イギリス人は社会ダーウィン主義的にこの問題を解決でき、優生学的集団免疫を獲得できると信じている。多くのドイツ人は、自分たちの健康保険制度がイタリアよりも優れており、ドイツ人はこの問題をよりうまく解決できると考えている。どれも危険なステレオタイプであり、愚かな偏見である。

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プロフィール

マルクス・ガブリエル
1980年生まれ。
史上最年少でボン大学哲学正教授に抜擢された天才哲学者。『なぜ世界は存在しないのか』、NHK『欲望の時代の哲学』などでメディアの寵児に。『未来への大分岐』は5万部を超えるベストセラー
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