世界最大「三峡ダム決壊」で、中国壊滅危機は本当か?

姫田小夏

 長江は中国経済の大動脈

 前述のように三峡ダムは長江流域にある。全長6387キロといわれる長江そのものが中国経済の大動脈であり、流域には四川省、雲南省、重慶市、貴州省、湖北省、湖南省、安徽省、江西省、江蘇省、浙江省、上海市など11の省と市が連なる。全国の面積の21%を占める巨大な経済帯(長江経済帯)を成し、2018年、長江経済帯の総生産額は40兆3000億元(604兆5000億円)と全国の44%を占めた。

 仮に三峡ダムが決壊するようなことばあれば、中国の人口の約4割にあたる6億の住民と、全国の約半数を担う産業に大打撃を与えることになる。

三峡ダムが決壊すれば、その下流の武漢、南京、上海は大打撃をこうむる。6億人が被害を受けると言われるが、そうなったら中国は建国以来最大の危機になる…

 

 長江流域の中心都市といえば上海、南京、武漢、重慶だ。上海は“龍の頭”と呼ばれ長江デルタを牽引する国際都市であり、南京には自動車、電子、石油化学、鉄鋼などの産業が集中する。新型コロナ発生地として有名になった武漢は交通の要所として全国屈指の工業基地を形成し、国家戦略上の重要な拠点として、世界のサプライチェーンの一翼を担っている。

 また、重慶では近年、人工知能やロボットを中心とした研究開発、製造、部品生産、サービス化に取り組んでおり、川崎重工、ファナック、ABB(スイス)など世界の著名企業が集積している。2018年には「長江流域知能製造とロボット産業連盟」を立ち上げ、長江流域の都市を結んだ産業チェーンを構想している。

 習近平国家主席がコロナ禍で最も気にしていたのは長江経済帯の復興で、都市封鎖によって操業を停止した工場の早期再開が急がれていた。それは、長江デルタ地帯の工業力を「一帯一路」に結び付け、世界市場の制覇を目指す国家戦略があるからだ。コロナ禍で都市封鎖が行われた結果、工場も稼働を一時停止したが、4月17日時点で上海、江蘇、浙江、安徽では工業企業の復興率は99%に達した。だが、今度は洪水と水害が見通しを暗くしている。

 

 習近平、李克強は水害対策に奔走

 6月から7月にかけて、習氏および李克強首相は、もはやコロナ対策ではなく水害対策に奔走していた。習氏は7月12日に「天候の変化に注意し、流域の堤防を強化せよ」と重要指示を出した。特に、長江と、長江に流れ込む太湖(浙江省)、淮河(河南省)の水系は強化観測地域である。

 長江デルタの中でも太湖には多くの日系製造業が集中している。かつて日系の自動車部品工場で責任者を務めたことのある日本人男性は、「2000年代の駐在期間中に、従業員がしきりに三峡ダムを話題にしていたことを思い出す」と明かす。周辺は「中国のベニス」といわれる海抜の低い水郷地帯で、「万が一ダムが決壊するようなことがあれば、ひとたまりもない」という。

 2000年代、上海に駐在していた日本人は、あっという間に完成する高速道路や高層ビル、地下鉄網など、恐るべき発展スピードに度肝を抜かれていた。長江デルタ地帯におけるスピード感の源泉はどこか、ということがしばしば話題になったが、その理由は「上海は日本と違って自然災害が少ないから」というものだった。夏は台風、冬は大雪、年間通して発生する地震――そんなハンデのある日本列島と比べて、長江デルタ地帯には安定した自然環境が存在していた。しかし、その長江流域の“神話”も近年の異常気象で崩れつつある。

 今から89年前の1931年に、長江流域で水害が発生した。中・下流域では数年にわたって干ばつが続いていたが、1930年冬には一転して豪雨となり、湖北、湖南、広西、武漢、重慶が被災した。このとき、長江の洪水は南京(当時の首都)にも押し寄せ、市は壊滅的被害を受け住民生活も困窮し感染症も蔓延した。いずれも推定数だが、孫文の治世において被災者285万人、死者数14万5000人を出したともいわれている。

 こうした経験から、長江の治水は毛沢東政権に引き継がれ、1953年には「始皇帝の万里の長城、煬帝の京杭大運河のような中国史上の大事業を上回るものをつくるべき」と、毛沢東は豪語したという。この計画には反対派もおり、また資金不足や中ソ対立の激化、大躍進の社会混乱で実現することはなかった。だが、毛沢東の言葉通り、のちの中国政府は「世界一のダム建設」を目指した。

 

 理論上「1万年はもつ」

 中国では明代から「湖広熟せれば天下足る」と言われるように、湖北省と湖南省、すなわち長江中・下流域には世界に誇る稲作地帯が広がっており、ここが豊作ならば人民は飢えない、と言い伝えられてきた。しかし、そこが今直撃されている。

 6月27日、豪雨に見舞われた湖北省宣昌市では、市内の一部が胸まで浸かるほど水位が上昇した。市内の住宅地の地下1階部分に居住する何玉芬さんは現地メディアの取材に対し、「天井まで水につかり、壁はボロボロ、買ったばかりの家電も使えなくなった。問題は自宅を修理するかどうか。ここは今後も住み続けられる安全な場所なのかどうかわからない」と回答した。それから1週間後の7月4日、何さんは再び豪雨に見舞われた。

 今年上半期のコロナ禍では、何さんは家族全員で宣昌市から重慶市に避難し、しばらくそこでの生活を続けていたが、「一から商売を立て直そう」と、ようやく宣昌市に戻ったところ、わずか1か月半後に水害に遭ったという。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだ。

 工業、農業が集中する長江流域のダメージは、コロナ禍でフラフラになった中国にとどめの一撃を加えることになるのか。アジア開発銀行(ADB)は5月、ウイルス蔓延期の3か月間にわたる中国の損失を1.1兆~1.6兆米ドル(約118~171兆円)と発表したが、水害によってもたらされた損失は800億元(約1兆2500億円)を超える(7月12日時点)ともいわれており、これは今後の豪雨とともにさらに上方修正されていくだろう。

 もし三峡ダムが決壊するようなことがあれば、総貯水量の393億立方メートルが下流に向けて流れ出すことになるわけだ。あるシミュレーションでは、最大放水量は毎秒100~237万立方メートルに達し、およそ時速100キロで次の葛洲ダム(湖北省宜昌市)を崩壊させ、海抜58メートルの宜昌市内の水位は71メートルにまで上がるといわれている。

 世界一のダムは当初、理論上「1万年はもつ」と言われていた。それが「もって100年だろう」に変わり、最近は「使用できるのはわずか50年」とまで言われるようになった。

 重慶市に在住する水利エンジニアの李明氏(仮名)は筆者の質問にこう回答する。

「ダムの施工に問題はない。あるとすれば、当時の設計にこれほどの異常気象までは織り込まれていなかったことだ」

 中国の歴史をひもとけば、そこにあるのは洪水の歴史であり、治水の歴史だ。中国には古くから「国を治めるには治水から」という考えがある。世界に誇るこの“巨龍”が暴れだしたら、もはや中国は安泰ではいられない。

 

取材・文/姫田小夏  図版/海野智

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プロフィール

姫田小夏

姫田小夏(ひめだ・こなつ)

東京都出身。フリージャーナリスト。アジア・ビズ・フォーラム主宰。上海財経大学公共経済管理学院・行政管理学修士(MPA)中国での現場ウォッチは25年超、うち約15年を上海で過ごす日刊ゲンダイ、ダイヤモンドオンライン、JBpress、時事速報などで中国動向をめぐる分析記事を長期執筆。著書に『インバウンドの罠』『バングラデシュ成長企業』ほか。 

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