急激な経済発展や生活の変化に晒されながら、土地に根差した信仰や伝統がいまも深く息づく現代のインド。本書はこのインドを中心に、現代文明と信仰に根差した精神性との間で生きる人々の人生に取材したノンフィクション紀行文学である。
かけがえのない友を見送った悲しみを湛えるジャイナ教の尼僧、女神に捧げられ娼婦となった女性たち、幾たびも難民となりスーフィー聖者廟に身を寄せた女性、亡命し兵士となったことを悔恨するチベット僧……この書を開いて出会う人びとはいずれも多層的な社会の中で引き裂かれ、そのために一層豊かで混淆とし、純粋な人生を送っている。聖性、信仰、エロス、悲しみ、愛、清らかさ、うた、踊り——途方もない豊かさの中で、人間の生とはこんなにも複雑で同時に強烈に純粋なのだ、と各章で胸を突かれるが、とりわけ心に触れたのは、不可触民としての生を享けながら祭の間は「神」となる憑依芸能「テイヤム」の踊り手(第二章)、沙漠で口承叙事詩を受け継ぐ歌い手(第四章)、「歌う哲学者」とも言われる吟遊行者「バウル」としての生を選んだふたり(第九章)の人生であった。
強力なメディアによって物語の「決定版」が生まれ、地方のヴァリアントが圧倒される現象、あるいは文字にして残されることや識字率の向上によって、口承叙事詩や地方の芸能が衰退していく現象は古代から世界のいたるところで起こってきた。西洋世界の誇る口承文芸、古代ギリシアの英雄叙事詩『イーリアス』も、うたわれていた当時は「決定版」として権勢を誇っていたにもかかわらず、この叙事詩を支えていた信仰も歌い継がれる伝統も途絶えて久しく、いまや「古典」というショーケースに並べられている。本書の中でも、映画やテレビといった強大なメディアによって地方のヴァリアントが危機にさらされている様子が伝えられているが、それでも、いまだ各地で、信仰と共に、うたや踊り、芸能が息づいていることが示される。なぜこれほどまでに聴衆と演者とうたの関係が純粋なものであり続けることが出来るのだろう? テイヤムの踊り手が神をその身に憑依させ、自らの感覚を手放し神そのものとなるくだりでは、空気の香りや気温、鳴り渡る太鼓や鈴の音のみならず、自分をはるかに超えるものに自らを捧げながら観客と一体となる演技者の、畏れと疲労、至福さえも鮮やかに感じられる。表現というものが持つ根源的な力を内側から感じる喜びがあった。
著者は、他の多くの文化からは失われてしまったものがなぜインドでは生き延びているのかを、様々な例を挙げながら読者と共に考える。本書に日本語で触れる私たちには、原書に、あるいはほかの言語で触れた人々とはまた別の角度からの問いかけをする楽しみがあるだろう。翻訳者であるパロミタ友美は、第九章で取り上げられている「放浪の吟遊行者」バウルとしての道を歩み、多層的な社会・領域を行き来し生きている人物である。それぞれの生を非常に近く——ときおり肌の内側に潜ったかと思うほどに親しく感じられるのは、翻訳の力によるところも大きいだろう。澄んだ水のような文章でこれらの人々の人生に出会うことが出来る私たちは幸いである。
プロフィール
俳優・演出家・古代ギリシア音楽家・作家。西洋古典学を専攻しギリシア悲劇を研究したのち、舞台演出を学ぶ。著書に漫画『うたえ!エーリンナ』(星海社、2018年)、『アンナ・コムネナ』(星海社、2021年~)、小説『百島王国物語 滅びの王と魔術歌使い』(星海社、2019年)がある。http://amethyst.secret.jp/futaba/