「こら、集英社、なんてものを出すんだ!聞き捨てならんことが書かれているようだから、これは読まねばならんじゃないか」」本書の広告を見たときの私のツイートである。
読んでみると、実際、意表を突く「教養本」だった。タイトルを見る限り、この本もインスタントに教養を身に着けるためのハウ・ツーものに見えるが、中身はまったくそうではない。
著者がやってのけたのは、世に溢れる「教養本」や「教養モノ動画」や「教養イベント」を片っ端から分析するという手間のかかる作業である。そしてこれらが、他人と差をつけるための道具、金儲けの手段、果てはその商材となっていることを見事に描き出した。そして、ファスト教養なるものが、時代の潮流となった新自由主義の道具として使われていると言う。私のように、学生時代に古い時代の教養の洗礼を受けた世代は、そんなことだろうと思いつつ、横目で見ながら舌打ちしていたのだが、「ファスト教養」が、これほど多様なメディアを通じて拡散されているとは知らなかった。
日常生活で、何か不安があって、誰かとつながりたいと感じている人は、まず、本書を読むことをお勧めする。自己啓発をして成功したいとか、秒速で大金持ちになりたいとか、そういう気持ちにかられると、人はとんでもない大金をつぎ込む。不安を餌にあなたに迫る「教養」は霊感商法の「壺」と同じである。この本は1056円で、その不安を鎮めてくれるのだから安いものだ。
不安につけ込むファスト教養業界のからくりを解き明かしてくれたことは、ひごろ、教養がなぜ大切かを説く立場にいる私にも、多くの示唆を与えてくれた。私が学生だったのは半世紀も前のことだから、まだ昔の教養主義が幅を利かせていた。「〇〇を知らないと恥ずかしい」式の押しつけがましい教養論である。当時から「君は××を読んでないのか?私は全部読んだぞ」という脅し文句をつかう人はいたが、たいていの場合、本人の承認欲求の裏返しにすぎなかった。こういう昔の教養主義の脅し文句が、手を変え、品を変えしながら、今のファスト教養につながっていったことを本書は鋭く指摘する。
私自身は、教養の海のなかで生きてきた。今でも「おまえの専門はなんだ?」と聞かれるのが嫌いだ。私は、隙間の研究者だからである。中学、高校の六年間は、未知の世界を覗き見る愉しみに浸っていた。先達は学校の教師たちだった。DNAを知ったのも、金融資本を知ったのも、通奏低音を知ったのも、中学時代の教師のおかげである。大学は東大の理系に入ったが、結局、教養学部教養学科に進学した。東大には、法学部や理学部のように専門に特化した学部以外に、教養(リベラルアーツ)を名乗る専門学科がある。主専攻(専門)の科学史・科学哲学では、中世アラビア科学史、近代西洋科学史、日本農業技術史、哲学ではヴィトゲンシュタインやマルクスが並んでいた。自然科学も楽しかった。教授一人に学生二人で、膝を交えて受ける量子論の講義。三崎の臨海実験所に行って和船を漕いでプランクトンを集め、ネズミの腹にマーカーを注射して尿のマーキングで縄張りの形成を調べた生物学の実習。自分で選べる副専攻は藝術にしたから、西洋美術史、西洋音楽史、民族音楽など、文字通りリベラルアーツにどっぷり浸かる日々だった。しかも、指導教官は学科で教養を学んだのだから、大学院は違うところへ行けと言う。アメリカのリベラルアーツ・カレッジから専門の大学院へ進学するのと同じルートを勧めた。
こうして、私は、自分の専門とは別に学んだことを教養という箪笥の引き出しに入れておくことを覚えたのである。以来、教養というのは、自分の飯のタネ(専門)以外のすべての知のことだと思っている。それらは、人生のいろいろな場面で必要が生じたときに、思い出して、繙くものである。さまざまな困難に直面した時、引き出しが多ければ、無知につけこまれて不安に駆られることは減る。コロナ禍やウクライナ戦争という恐ろしく混沌とした世界に生きる今、それを痛感している。
インフレと円安は日本人の将来に暗い影を落としている。「ファスト教養」が、単にものごとの上っ面を撫でるだけのインスタントな知識ならまだいい。最大の問題は、無知や不安につけこんで、デタラメをまき散らすことにある。資産形成や投資がらみの「教養」には、そういうものがある。冷静に考えれば、博打に必勝法があり得ないのと同じで、投資に必勝法などない。儲かるための「秘密の知恵」を売り、カネを吸い上げるための道具として「教養」の語が使われるにすぎない。しかも、これを知らないのはバカだという脅し文句で商材に誘導する。教養がどういうものであったとしても、他人を「バカ」や「落伍者」と切って捨てるためのツールではないという著者のスタンスー私はそこに最も共感するのである。
プロフィール
(ないとう まさのり)
1956年東京都出身。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。
一橋大学名誉教授。
『限界の現代史』『プロパガンダ戦争』(集英社新書)『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』(集英社)著書多数。