「役に立つ」知識を手っ取り早く身につけ、他者を出し抜き、ビジネスパーソンとしての市場価値を上げたい。そんな欲求を抱えた人たちによって、ビジネス系インフルエンサーによるYouTubeやビジネス書は近年、熱狂的な支持を集めている。
一般企業に勤めながらライターとして活動するレジー氏は、その現象を「ファスト教養」と名づけ、その動向を注視してきた。「ファスト教養」が生まれた背景と日本社会の現状を分析し、それらに代表される新自由主義的な言説にどのように向き合うべきかを論じたのが、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)だ。
本書についての書評を、サブカルチャー・SNSカルチャーを中心に執筆活動をおこなうフリーライターの藤谷千明氏が寄稿。ビジネスマンのための「ファスト教養」の裏側で進行している、もうひとつの現実とは。
「ファスト教養」とは本来であれば人生を豊かにするものであるはずのそれが、「コスパよく」「ビジネスに使える」「上手くお金儲けをする」など、即効性を求めた小手先のスキルとして捉えられている状況を指した、この本の著者であるレジーさんによる造語です。
よく誤解されているようですが、本書は「ファスト教養」を糾弾するのではなく、なぜそれが生まれたのか社会背景を分析し、「ファスト教養」を求める当事者の声を聞き、映画『花束みたいな恋をした』評などを交えながながら、丁寧に紐解いていきます。
2000年代、小泉政権が推しすすめた新自由主義を背景に躍進したIT業界の風雲児~出馬~逮捕を経て、現在はなぜか片手を画面に向けながら自己責任論動画を連発している堀江貴文。アングラ匿名掲示板の管理人だったはずが「論破王」として若者たちからも人気を博す西村博之(ひろゆき)。気がついたら絶叫しながら授業をやっている中田敦彦、あるいは意識と月額料金の高いことでおなじみのNewsPicks、なぜかムキムキのライオンが「お金の教養」を説くYouTubeチャンネル「リベラルアーツ大学」——。ファスト教養のスタープレイヤーたちは広くビジネスパーソンたちに受け入れられているようで、私の周囲でも、この人たちやこのメディアの名前を聞かない、目にしない日はありません。
当然ながら私自身も例外ではなく、若い頃は小泉政権が誕生したときは「なにか変えてくれるかもしれない」と期待の目を向けていたし、ひろゆきが報道番組に取り上げられたときは「自分たちの味方」のような感覚を覚えました。まあ、全部勘違いだったわけですが。私はレジーさんと同じく81年生まれです。くだけた表現をすると、「タメ年」です。ジャンルは違えど思春期はロックミュージックなどのカルチャーに傾倒し、ライターとしての活動フィールドも重なっている部分があります。似たような景色を見てきている人だなと感じました。レジーさんの問題意識はとても理解できます。
そして、本書の一番の美点は自身の経験や実感に基づいたリアルにあると思っています。本文中の表現を借りるなら「ビジネスパーソン」のリアルです。レジーさんは会社員と兼業して音楽系のライター活動をされている方です。ご自身でも書いているように、いわゆる「文化系」の領域、そして「ビジネス」の領域のどちらの立場もわかっている人で、だからこそ「ファスト教養」を取るに足らないものと一蹴せずに「ビジネスパーソン」はそれとどう向き合えばいいのか?を考え続けている。この本はレジーさんにしか書けないものだと思いました。
その一方で、本書の問題点もおなじく、「ビジネスパーソン」のリアルに立脚したものです。映画『花束みたいな恋をした』評において、就職先で疲弊し、これまで恋人の絹と親しんできた文化的な漫画や小説ではなくファスト教養的なビジネス書を読むようになり、ある種男尊女卑的な言動をとるようになった、主人公の麦の態度から、ファスト教養的なものが生み出す倫理観や道徳観と家父長制との親和性を指摘しています。それは正しいと思います。というか、自己啓発を含んだ立身出世マインドの「教養」はだいたい昔からそうですよね(本書でも村上陽一郎氏の記事が引用されている「中央公論」2021年8月号の大澤絢子氏「修養ブームが生み出した潮流」でも指摘されています)。男性社会的、もっといえば旧制男子校的な価値観です。
第六章の「ファスト教養を解毒する」にて、結論優先の「コスパの良い」知識の入手の仕方とは反対に自由に発想を行き来する「雑談」に着目し、「音声メディアは結論や正解を回避することができるんです」という音楽評論家の田中宗一郎の発言を引用し、氏が書籍でも対談形式を選んでいたりと、複数人での対話を選択していることは、ファスト教養のアンチテーゼになると評しています。それは決して間違っていない。
けれど、ここで紹介されている「対話型」の音声コンテンツ、全員男性によるものなんですよね。そりゃあ、カルチャーにはクオータ制は採用されないので、ここに拘る必要はないのかもしれませんが、真っ先にあげられている「POP LIFE: The Podcast」は、三原勇希との対談形式です。女性が視界に入っていない。たしかに新書の読者は男性が多いでしょう、しかし女性はゼロではない。「ビジネスマン」ではなく「ビジネスパーソン」としているのは、コンプライアンスだけの問題なのでしょうか(なお、正式名称は「三原勇希 × 田中宗一郎 POP LIFE: The Podcast」です。これは編集部、校閲の責任もあるはずなので、増刷分では修正したほうがいいと思われます)。
「ファスト教養」の源流に勝間和代が挙げられていますし、セミナーに来る女性にインタビュー取材を行っていたり、AKB48とネオリベラリズムの親和性を指摘したりしているわけで、「まったく視界に入ってない」わけではないのですが(とはいえ、AKB48カルチャーが女性主体かというと疑問があるわけですが。それはまた別の話……)。最後の「答え」がああいった形なのは正直ガッカリしました。適当にやっているのではなく、誠実に考え抜いた結果そうなっているのが、さらに、ね……。
問題を広げると、これは80年前後生まれ、我々同年代の問題点でもあると感じています(当然ながら、男性だけでなく女性も含まれます)。上の世代の著名人らがSNS上などでジェンダー差別的な発言をし、批判を受けているのを見て、理屈の上では「あれはダメだな~」とわかっているものの、根本的なところで「見えていないもの・わかっていないこと」があるわけで。SNS炎上でなんとなく要約を理解して「コスパよく」ジェンダー問題を理解したふりをするのは、それこそファストフェミニズムというような態度です。そんな言葉はありませんが(流行ってほしくもないですが)。
そして、かつての「ファスト教養」プレイヤー及びコミュニティは、いわゆる男性ホモソーシャル、ボーイズクラブ的な雰囲気の空間であったけれど、新世代の「ファスト教養」プレイヤーはその限りではありません。本書でも取り上げられている(そして、問題点を微妙に書きあぐねている)「リベラルアーツ大学」は、書籍が100万部、YouTubeチャンネル登録者数は200万人、今最も勢いのある「ファスト教養」といえるでしょう。ここの特徴として、主宰の両学長がライオンのキャラクターということもあり、いわゆる男性ホモソーシャル性からは距離がとられており(そもそもイベントに本人が来なくて、デカいオブジェが飾られているだけですからね!)、女性ユーザーの入りやすい空間になっていたり、運営するシェアハウスも「女性専用」だったりします。言っていることはネオリベ直球思想なのですが(両学長は「原因自分論」と称した自己責任論を定期的に語っています)、「かわいいネオリベ」というべき空間にレジーさんが差し出したその処方箋、リベ大生(※動画視聴者の呼び名)に「効く」のでしょうか?
また、ロックミュージックを含めたカルチャーが「教養」として即物的にビジネスに利用されている現状を憂いていますが、ここに至るまでの道筋は、本当にネオリベインフルエンサーだけによるものでしょうか? 主従のバランスが違いますが、音楽をビジネス的に語る、「ビジネス書として読める音楽カルチャーの書籍」というパッケージングの流行は、柴那典さんの「ヒットの崩壊」(講談社/2016年)があり、レジーさんが「夏フェス革命」(Blueprint/2017年)でもやってきたことではないでしょうか。そういった流れは、こんにちのファスト教養的なカルチャーとビジネスの結託にまったく関わりがないとは私は思いません。
繰り返しになりますが、ご自身の立場からのリアルな視点がレジーさんの美点だと思っています。だからこそ、まずはもっと足元を見てほしかった。
そして、なぜカルチャーや教養があまり歓迎できない形でビジネスと結託してしまうのか。そりゃあまあ、ご存知の通り社会に余裕と金がないからなんですけど。と、身も蓋もないことをいっても仕方がないので(それではネオリベインフルエンサーと同じになってしまう)、これからのことをみんなで考えたいですね。無駄かもしれないけど、それでも。レジーさんも本書の最後でその歌詞を引用し、「無駄なことを一緒にしよう」と呼びかけた、SMAPにも津野米咲にもすぐには会えないこの世界で。
プロフィール
ふじたに ちあき
1981年、山口県生まれ。工業高校を卒業後、自衛隊に入隊。その後職を転々とし、フリーランスのライターに。主に趣味と実益を兼ねたサブカルチャー分野で執筆を行なう。著書に『オタク女子が、4人で暮らしてみたら。』(幻冬舎)、共著に『すべての道はV系へ通ず。』(シンコーミュージック)、『水玉自伝 アーバンギャルド・クロニクル』(ロフトブックス)など。